仙台旅行記2020年秋-㉟
旅行期間:2020年11月3日~5日
(Learning at the Sendai City Museum (Part 1), History of Sendai)
仙台のお勉強タイム!
さて痛い膝を何とか引きずりながら歩いてきて、やっと「仙台市博物館」に到着します。1961年に開館したこの博物館は伊達家から寄贈された約8,000点を含む、10万点ほどの所蔵品が保管されていて、その一部分が展示されている見応えのある博物館。
仙台市博物館にて
この仙台市博物館は建物が造られてから約60年が経過していたので、この訪問当時は問題なく見学が出来たけど、このブログが公開されている頃には約3年にわたる大幅改修工事が行われていて、残念ながら見学中止となっているようだ。。
博物館の正面にはこのような大きなデザイン像が設置されていたが、いまいちその像が表すモチーフを掴めなかったような。。
そんな博物館正面脇には、江戸時代に石垣用として加工された跡のある大きな岩が転がっていた。しかしこの博物館周辺にはこの石垣に見惚れている場合ではなくて、そのもう少し向こうにある像などを見ておく必要がある。
その更に脇の方に設置されているのが、戦争前に造られた初代:伊達政宗騎馬像の胴体部分。戦争時に金属が全国で没収され、仙台城前に飾られてあったこの騎馬像も例によって没収されてしまう。しかし解体されて溶かされてしまう前に市民に発見され、また現場の人間も騎馬部分は溶かしてしまったが、この顔の付いている胴体部分は恐れ多くて溶かせなかったとか。その後有志がこの残された像を買い取り、今ではこの仙台市博物館脇に置かれているのである。
さて今は残念ながら休館となってしまっている仙台市博物館だけど、この時は見学が出来て幸運だったと思う。この博物館には仙台藩を治めていた伊達家の歴史的な所蔵品の多くが収められていて、他では目に出来ない物ばかりあるからだ。
そして博物館の入口を入ると、まずはモニターで簡単に体温が表示されるようになっていた。個別に体温を測るタイプは手間が掛かるけど、このようにモニターに直ぐに体温が表示されるので、訪れる側も博物館側も楽チンである。
仙台城の三ノ丸に当たる広い敷地に造られた大きな博物館だけに、このような大きな階段が目の前に見える。展示室は2階にあるようなので、痛い膝を引きずって登る事にしよう。
ただその前にトイレ休憩をする。博物館内のトイレに向かうと、男女表示のパネルもこのように伊達政宗チックなパネルとなっていて、意外と可愛らしいキャラクターとなっていた。
さて仙台市博物館の入場チケット、大人460円を購入して博物館内へと進みます。この博物館の所蔵品の中でも目玉なのは、このようにチケットにわざわざ印刷されている三日月型の前立てが付いた伊達政宗が使っていたという黒漆五枚胴具足の鎧兜である。
博物館内の見学開始!
ここを訪れた2020年11月上旬はコロナ禍ではあったものの、先日スタートした”GO TO キャンペーン”の影響もあって、全国的にボチボチ観光客が戻りつつあった頃合い。初日に訪れた秋保大滝では大勢の観光客に遭遇してゲンナリしたけど、このような有料の博物館だとあまり訪れる人が無いので、快適に見学が出来た。
恥ずかしながら人生40年程生きてきて、東北の地にやって来たのは今回が初めてという事もあって、この仙台という場所の歴史については全然知識が無かった。仙台というと伊達政宗くらいしか知らないのであるが、ここでは色んな資料があるので十二分に仙台について勉強が出来そうだ。
まずは「仙台のあけぼの」と、縄文時代頃の資料が展示されている。いきなり伊達政宗の事が勉強できるかと思っていたけど、やっぱり歴史を勉強するには最初から順を追って学んでいく必要がありそうだ。
前方後円墳というと2019年に世界遺産に登録された、大阪府堺市にある「百舌鳥古墳群」が有名だけど、実は全国で大なり小なりの前方後円墳が造られていたようだ。そしてこの仙台でもだいぶ昔から人類が生活している痕跡が見つかっており、そんな古墳からはこのようなガラス小玉みたいな副葬品なども多数出土している。
そして次に見えてきたのは仙台市東部にある、中世時代に岩窟に仏像などが彫られた東光寺遺跡を再現したもの。中世時代に作られたとみられる、阿弥陀如来など10基のボロボロに風化してしまっている像で、スリランカにあるダンブッラ石窟寺院のような石窟になっている場所に彫られているという。
国は違えど同じような宗教が日本にも伝わってきていたので、それぞれに洞窟に住み着いた僧侶たちが同じように洞窟内で像を彫っていたようだ。ただスリランカでは後世になってから綺麗に補修し直されたり塗装されているけど、この東光寺の像は風化してボロボロになっているそうだが。。
人が集まり集団となると、その団体をまとめる為に宗教という概念が形を伴って具体化してくる。最初は純粋に神様への信仰を表す物だったのが、時代が過ぎていく毎にその宗教の力を利用して地域を支配する人間が増えていく。
こうやって大昔に造られた像を見ていくだけでも、段々と像の彫刻なども細かくなって彫刻の技術進歩が目に見える。怖い顔をしているように見えつつも、足元では軽くダンスを踊っているようにも見えてしまう像も、全て作者の計算通りに作られている事だろう。
この仙台の地が伊達政宗が生まれ育って以降、支配してきた場所では実は無いのである。伊達政宗が生誕したのは今では上杉の城ともなっている米沢城で、それから秀吉時代に領地替えさせられて、最終的にこの仙台の地に流れ着いたという流れがある。
こちらは重要文化財となっている伊達政宗直筆の書状。1589年に書かれたものらしく、従弟に当たる伊達成実宛に送った書状として保管されている。当時の大名などは沢山の書状を命令や連絡を送る為に使っていたので、膨大な数を発行しないといけなかった。勿論当時は今みたいにパソコンなど無い時代なので、このような書状は全て手書きで誤字脱字も基本許されない物だった。
そしてここは仙台ながら、何故かあの織田信長の発行した書状も展示されていた。ただこの時代にはその膨大な数の書状を大名が自分で全て書くと大変な作業となるので、その代筆士的な補助の人間が数人居て、大名によってはあまり直筆で書状を書かなかったという人もいるそうだ。
この仙台で織田信長の書状が展示されていた訳は、こちらの案内を見れば分かる通り、伊達政宗宛ではなくて彼の父親であった伊達輝宗宛の物だったからだ。当時は武田信玄と共に恐れられた上杉謙信が上京のタイミングを虎視眈々と狙っていた時代で、敵対する織田信長としては、その隣国である伊達家から襲わせようと依頼した物である。また小さいサイズになっている事から、恐らく密書として周りに内緒で送った物と判断されている。
こちらは代わって、室町幕府の征夷大将軍:足利義輝からの書状で、”奥州探題指職”というこの東北地域の支配する役職を与えられた事に対して、伊達晴宗側から贈り物を貰ったお礼に足利義輝から感謝の気持ちを綴った内容となっているようだ。
伊達家は代々奥州を統治する称号を貰い続けており、東北地域を代表する大名であり続けた。しかし現状では周囲は敵に囲まれて常に緊張感を持ち続けていた国であり、今で言うアラブ国に周囲を囲まれたイスラエルのような存在だったかもしれない。
このように伊達家は単なる東北のイチ大名という訳ではなくて、全国的にも知れ渡った存在だった大名だった。しかし歴史を遡るといくら大きくて歴史ある大名だからと言って、今後も問題なく存続する事が確定している訳でもなく、いつ滅びてもおかしくなかった。だから鎌倉時代から現代まで生き残っているという事を考えるだけで、途轍もない偉業だと言えるのかもしれない。
こちらは一昨日の資料館で模型も見た、仙台城本丸内に造られていたという大広間の図。今の仙台城本丸の景色を見ているだけでは、本当に昔にこんな立派な建物が存在していたとは思えないけど、逆に言えば本丸が今の状態みたいに何もない方が異常なのかもしれない。
仙台城は伊達政宗が居城と決めた1600年頃から建造された城であるが、敵が襲ってきても撃退できるようにと城を何回も増築していき、巨大で頑丈な城となっていく。しかし場合によっては仙台の地を襲った大地震によって建物や石垣が崩れてしまう事も多々あり、その度に石垣も補修されていく。
この仙台城の石垣は最近の発掘調査によると、大きく分けて3回に渡って石垣が造られている事が判明している。どうやら防衛能力を上げる為というよりは、地震によって崩壊した石垣の造り直しで増築されていったかのようだ。なお年々築城技術が進化していったので、第3回目に建造された石垣が一番長い期間に渡って仙台城に君臨していた。
しかし一番長持ちした第3回期の石垣も300年を経過し老朽化している事もあって、1998年頃から約6年の歳月を経て本丸の石垣補修工事が行われた。そしてこちらの大きな石はその石垣に使われていた物で、石に石垣が築かれた時の元号などが刻まれているという。
そんな石をよ~~く見ると「慶安五年八月十五日」と、石に文字が入っているのがうっすらと見える。慶安五年とは1652年に当たるが、その頃は第3期の時代ではなくて、その前の石垣が残存していた第2期の石だと判る。
これからも分かるように石垣に使う石は全て新しい物を使うのではなくて、元あった石垣で使える石は新しい石垣に転用して再利用していたという事である。確かに今みたいに簡単に石を採掘したり運搬できる時代では無かったので、何でもなるべく再利用するのが当然だったのである。
こちらは仙台城周辺までをリアルに再現した模型。このように外堀として利用していた広瀬川の手前奥ともに、それぞれ家臣団を住ませて守りを厚くしていた事が分かるのである。
こんな旅はまた次回に続きます!
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