支倉常長を派遣したりと、ヨーロッパと友好的だった伊達政宗【仙台旅行記⑧】

仙台旅行記2020年秋-⑧

 旅行期間:2020年11月3日~5日
(Date Masamune was friendly with Europe, sending Tsunenaga Shikura to Japan.)

伊達政宗の遺言

今回も引き続き、仙台城本丸にある「青葉城資料展示館」という資料館の見学が続きます。伊達家や仙台藩の歴史などを詳しく知りたければ、ここだけではなく下の三ノ丸にもある仙台市博物館も訪れる必要があるのだが、それは後日訪れる事にしているので、まずはここで軽く色んな事を学ぶとする。

 

【青葉城資料展示館】

住所:宮城県仙台市青葉区川内1
営業時間: 9時~16時前後(※年中無休)
電話番号:022-227-7077
入場料金:大人700円/中高生500円/小学生300円
※仙台まるごとパスに付いてくるクーポンか、HPの割引チケットを提示すると団体料金に割引になります

 

 

 

「青葉城資料展示館」の見学!

次に見ていくのは「二条城行幸図鑑」(写し)という、1626年に後水尾天皇の行列が二条城に向かって行軍する時の様子が描かれているものである。この時代は既に徳川家康は死去しており、江戸幕府将軍は三代目である徳川家光になっていた。家光は大事な行事であったので、とても信頼していた伊達政宗を供にしたのである。

 

こちらはその行幸の様子が書かれているようだけど、年号ぐらいしか読めない・・・。ただ平仮名が多めなので、何となく読めるような・・・読めないような・・・。

 

江戸幕府の時代は徳川家の将軍が最高権力者であったが、一応建て前的には天皇を無視する訳にはいかなかった。なのでこの時はわざわざ二条城を綺麗に改装して、天皇を迎えた家光にとっては大事な晴れ舞台であったようだ。

 

この時代は今みたいに車などが無かったので、このように偉いさんが乗った籠を人が運んで移動していた時代。参勤交代の大名行列なども、一番偉い大名本人は歩く事はせずに、このような籠に入って移動していたようだ。

 

そして公家などの位の高い役職にある人間は、馬に乗って移動していたようだ。昔はこのような晴れ舞台で馬に乗れるのは偉いさんだけで、もしそんな行列がやって来た場合はすぐに道を譲らないと、警護人に切り捨てられる時代だったという。ただこの絵だけ見ていると、その警護のような人は銃や刀ではなく、弓を握っているのが見える。

 

更にかなりの偉いさんになると、このような馬車に乗っており、近くには馬車から降りる際の踏み台を担いでいる人の姿も見える。このような行列は庶民たちに自分達の権威を見せつける意味もあったので、なるべく豪華な振る舞いをしていたようだ。ただその代わりに見栄を張り過ぎる大名が多かった為に、その分金銭的にも苦しかったというが。。

 

 

「二条城行幸図鑑」 動画

 

ちなみに伊達政宗時代には秀吉の朝鮮出兵の際に、兵を引き連れて仙台から九州まで向かう途中に京を通り過ぎて、その際に伊達軍が着ていた豪華絢爛な衣装が庶民に評判になって、クールな恰好をしている人を「伊達者!」と呼ぶようになったとか。

仙台の政
仙台の政

まさにワシのセンスを代表する言葉でござる!

 

武勲優れた武将は多かったけど、文化的にも優れていた武将は色んな逸話や趣味があって、とても個性があって趣深い。特に江戸時代は戦が無くなったので、戦いの技能だけ優れた人物はあまり陽の目が当たらずに、芸術関係などに優れた人物が開花する時代だったのかもしれない。

 

こちらが『竹に雀』という伊達家が使っていた家紋の1つであり、漫画『花の慶次 -雲のかなたに-』から派生したパチンコ台でもよく見て見慣れた家紋となっている。しかしこの『竹に雀』という家紋は元々は上杉家の家紋らしく、親戚が上杉家から贈られたものが後世も使われたとされているそうだ。

 

伊達政宗というと『独眼竜』の別名でも有名で、右目は幼い頃に罹った天然痘の影響によって、目が見えなくなったとされている。伊達政宗の右目は白くなっていて、その上に眼帯を付けているイメージが強いけど、実際には何もつけていなかったとか。そして伊達政宗の遺言で自分の肖像画を描く際には、右目もちゃんと描いて欲しいという要望から、このような肖像画では右目がちゃんと普通の目として描かれている。ちなみに肖像画を見れば、伊達政宗の生前/死後のどちらに描かれたかが判別できるという。

 

 

支倉常長ゾーンにて

そして資料館内部には、伊達政宗や仙台藩の資料と共に江戸時代初期にヨーロッパの地へと渡った支倉常長をリーダーとした『慶長遣欧使節』についての簡単な資料も展示されている。ただ資料といっても簡単な物しか、ここには展示されていないので詳しく勉強したい人はこの下の三ノ丸にある「仙台市博物館」の方へも行った方がいいと思う。

 

この江戸時代初期になぜ伊達政宗の仙台藩がヨーロッパ国と交流があったのかというと、1611年の少し前に日本に漂着したスペイン人提督を迎えに来た「セバスティアン・ビスカイノ」が、そのついでに日本国内の鉱山調査を依頼される。その際に派遣されたのが伊達政宗の仙台藩で、その測量を手助けして交流し、乗って来た船が大破してしまった為に交流と交渉を兼ねて支倉常長をリーダーとした『慶長遣欧使節』の船にビスカイノなどのスペイン人を一緒に乗せて、ヨーロッパの地へと送り出したのである。

 

こちらはスペインのセビリア市で今も保管されている、伊達政宗よりセビリア市に宛てた書状のレプリカである。原本は金箔と銀箔を散らした装飾が施されているらしいけど、今から約400年も前の物という事もあって、銀部分は酸化して黒くなってしまっているのだとか。

 

 

この時にヨーロッパに向かった『慶長遣欧使節』がまず訪れたのが、日本から同行しているフランシスコ会の宣教師:ルイス・ソテロの故郷でありセビリア市である。

(※メキシコを経由して、ヨーロッパへ渡航)

 

ちなみにボクは2018年夏にスペインを訪れた時に、このセビリアの大聖堂を訪れてヒラルダの塔にも登ったけど、今から約400年も前に日本人の一行がまさかこの地を訪れていたなんて夢にも思っていなかった。。

仙台の政
仙台の政

彼らの勇気は仙台藩の誇りでゴザル!

 

セビリアの街でも一番の観光スポットとなっている大聖堂は、歴史ある風格とその荘厳な造りに圧倒されてしまった。また今では大聖堂内に大航海時代の申し子であるコロンブスの骨も埋葬されているので、スペインに行く機会があれば是非寄ってみるべき場所である。

 

こちらは渡欧したローマの地で描かれたという、慶長遣欧使節のリーダーである支倉常長の油絵だ。 この作品の本物はすぐ近くにある仙台市博物館内で展示されていて、この肖像画は国宝になっていて、更には2013年に『ユネスコ記憶遺産』にも登録されている。

 

セビリアに渡った慶長遣欧使節の一行はそれからマドリードへ行き、スペイン国王の元に挨拶に訪れる。こちらには昔から修道士達が修行していたモンセラットの写真などもあるけど、実際に慶長遣欧使節の一行が訪れたかは詳しく記載されていない。

 

ちなみにボクは2018年にこのモンセラットも訪れており、奇形な岩の崖の景色や黒いマリア像などを近くで眺めた記憶が残る。ここもスペインでは定番の人気観光地となっている場所だ。

 

スペイン経由でローマに入り、ローマ法王とも謁見した慶長遣欧使節だが、彼らが求めていたのはあくまでもヨーロッパとの貿易だったが、ローマ法王は布教活動の先に植民地化の計画があった。そして支倉常長を始めとする慶長遣欧使節一行は結局1年程スペインでローマ法王の連絡を待ったが、その頃には日本国内が鎖国してキリシタン達を弾圧しているという情報がヨーロッパにも届いていた為に、日本は宗教よりも単なる通商だけを求めていると判断されて、返事はもらえなかったようだ。

 

そしてスペインからも追い出されるように出航した慶長遣欧使節であるが、実は全員が帰国した訳ではなくて、一部の人間は現地に残ったという。そしてその時にスペインに残った日本人の子孫は「ハポン」(スペイン語で日本人)という名前で、今もその日本人の子孫の血が伝わっているとか。

 

 

さて支倉常長についてはまた後日訪れる仙台市博物館で詳しく勉強するとして、次に見えるこちらの絵は『楽山公(仙台藩第13代藩主:伊達慶邦) 行列巻物』という参勤交代の大名行列を描いたもの。参勤交代というと江戸時代を代表する治世システムの1つで、2年に1回は国元と江戸の間を行き来しないといけないと江戸幕府が決めたもの。

 

勿論当時は今みたいに飛行機や電車や車が無いので、このような行進は徒歩が多かった(西国では一部海路)。そして大名の規模(石高)によって大名行列の規模が違い、全国外様大名の中でも大きい部類に入っていた仙台藩では、2000~3000人規模の行列で仙台から江戸まで8~9日を掛けて行進していたようだ。

 

大名行列もその大名と警備の者だけではなく、弁当箱や着替えなどの荷物持ちなどもいた。更には大名行列の規模でその大名の威厳をアピールしていた事もあって、城下町を出発する際には臨時雇いのバイトも使って庶民にその大規模な行列の姿で威光を見せつけていたとか。

 

映画『超高速!参勤交代』予告編

2014年の映画『超高速!参勤交代』では、藩財政に苦しむ中で何とか参勤交代で江戸を目指す苦労の様子が描かれている。今の政府と同じように庶民達には表向きは偉大なる殿様イメージを見せつけるものの、財政難もあって城下町を出るとすぐに少ない団体となってしまったりと、意外と笑える映画であった。

 

参勤交代といっても国元の場所によっては1週間程で行ける所もあれば、九州の南端にあった薩摩藩では約2ヵ月も江戸まで要したという。またその費用も1回数億~数十億も掛かったとされており、江戸幕府はこのような浪費システムを使って全国の大名に謀反する資金が溜まらないようにしていたという。

 

そして全国の大名で浪費された参勤交代に掛かった費用はそれがその通り道に落ちて、街道の整備や途中の宿場町などの発展に繋がったという。なので全く無駄だった参勤交代ではなくて、今で言う地方交付税交付金のように途中の街が経済効果を大きく受けていたようだ。

 

そしてここでは仙台城にあった、国宝の大手門復元活動の署名も実施されていた。仙台城にあった建造物の殆どは既に消え去ってしまっているが、その中でも代表的で昭和時代まで現存していた大手門の復元を行いたいようだ。

 

仙台城にはかつて多くの建造物があったけど、その中には詳細な図面などの記録が残っていない建物もあるが、この大手門は第二次世界大戦までは現存していた事もあって、正確に再建できる自信があるのだろう。このように署名欄には署名が記載されているが、沖縄県や兵庫県など色んな場所からここに観光客がやって来ている事が分かる。

 

今では大手門は消えてしまって代わりに道路が走っている場所だけど、この大手門が再建された暁にはこの道路は撤去して欲しいと思う。そうしないとこの大手門の下を道路が走っていて車が通る景色を見ると、古き良き時代の景観に思えないからである。

 

なおこのような地道な署名活動の影響もあって、2021年2月には『仙台城跡の大手門復元、脇櫓の建て替えを盛り込んだ整備基本計画』の最終案が承認されたようだ。しかしこの計画は2038年に完了する見込みとなっており、最終的なお披露目は今から約16年後となるのであるが。。

オカン
オカン

16年後なんて、生きているかな・・・?!

 

 

そして資料館を出ると、1階に設置されているお土産コーナーを通るようになっている。もうこれでとりあえず予定していた1日の計画を済ませたので、ここでゆっくりどんなお土産が販売されているのかを眺める事にする。

 

こちらには仙台らしく、牛タン味の柿の種が早速見える。仙台と言うと”牛タン”というイメージが強いだけど、冷静に考えれば牛の舌なんで、牛を食べれる場所であればどこでも食べる事が出来るんだけどね。。

 

 

こちらにも「牛タン:粗挽きサラミ」という、1,080円となかなかにいいお値段がするサラミも販売されている。ただこれも丸々が牛タンで造られている訳ではなくて、その一部僅かに牛タンが混ざっているだけの商品なんだろうけども。。

 

そんなお土産の中でもオカンが反応したのが、こちらの伊達政宗が刻まれているクリスタルガラス。オカンはこの3Dレーザーで加工されているクリスタルガラスが大のお気に入りで、家にも色んな所で買ってきたのが並べられているのだ。

オカン
オカン

ついつい見てしまうのよ!

 

仙台らしく凛々しい騎馬に乗った伊達政宗が彫刻されている。中サイズで1,100円、小サイズで550円となっていたが、迷いに迷って買わなかったオカンであった。。

オカン
オカン

やっぱりエエわ、買うのやめとこ!

 

こちらには伊達政宗の鎧と兜のレプリカが展示されている。こちらは『黒漆五枚胴具足』という伊達政宗所用の鎧で、本物は仙台市博物館で保管されているという。そして黒色を基調としたカラーになっていて、落ち着いた戦国人だった事を思わせる雰囲気が出ているのであった。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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