「青葉城資料展示館」でかつての仙台城にあった建造物を眺める【仙台旅行記⑦】

仙台旅行記2020年秋-⑦

 旅行期間:2020年11月3日~5日
(Visit the Aoba Castle Museum to see the buildings that once stood at Sendai Castle.)

復元の正当性?!

さて引き続き、仙台城本丸敷地内に設置されている「青葉城資料展示館」の見学は続きます。勿論有料の施設だけど、乗り放題チケットに付いてくるクーポン券や、ホームページにあるクーポン券などで団体料金割引にもなるので、そういう方法を駆使して割安に見学しよう。

 

【青葉城資料展示館】

住所:宮城県仙台市青葉区川内1
営業時間: 9時~16時前後(※年中無休)
電話番号:022-227-7077
入場料金:大人700円/中高生500円/小学生300円
※仙台まるごとパスに付いてくるクーポンか、HPの割引チケットを提示すると団体料金に割引になります

 

 

 

「青葉城資料展示館」の見学!

こちらにはこの仙台藩を治めていた伊達氏宗家の系譜が書かれている。伊達氏と言うとやっぱり伊達政宗がダントツに有名だけど、伊達氏宗家は初代の伊達朝宗を始祖として、現代でも第34代当主が引き継いでいる。

 

ボクは昔戦国時代のゲームをしていた時に、伊達政宗のお父さんで先代の伊達輝宗を知ったけど、それ以外の名前には全く見覚えが無い。江戸時代の仙台藩主の名前もボクが見る歴史本などには殆ど名前が出てこずに、知っている名前は1つもない。。

 

伊達政宗の跡を受けて、仙台藩主として14代まで続く事になる伊達氏だけど、全国的に有名な名前は皆無のようだ。中には比較的早死にした藩主などもいて、その際に幼子を残したまま死んでしまい、跡取り問題でお家存続の危機に陥る機会も多かったようだ。

 

こちらには伊達政宗の歴史と共に、戦国時代に天下を取った織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の歴史とも比較するように書かれているのが見える。伊達政宗は非凡な能力を持っていたが、彼が天下を取れなかったのは織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などから遅れて生まれたからだという見方をする歴史評論家もいる。

 


 

『花の慶次 -雲のかなたに-』より

この意見については人それぞれだけど、歴史に「もし・・あの時・・・」は存在しない。こちらはボクが大好きな漫画『花の慶次 -雲のかなたに-』の印象的なワンシーンであるが、伊達政宗や真田幸村などの名武将が風呂に浸かって「あと数年早く生まれいれば、天下を取れたのに!」と言っている所に、天下を取った秀吉が入ってくるシーン。

 

『花の慶次 -雲のかなたに-』より

この中で秀吉は天が決めた通りの筋書きになっているだけで、伊達政宗が10~20年早く生まれなかったのはそういう運命だったという事と諭している。ただ個人的には伊達政宗が天下を取れなかったのは、それだけの野心が無かったからだと思う。秀吉の北条攻めや関ヶ原の戦いなど天下を大きく左右する出来事に乗じて、天下取りをするチャンスがあったのにそこで反旗を翻さなかった。ただそういった守りに入った行動のおかげで江戸時代には仙台藩を存続させて、現代まで伊達氏が生き抜いている事に繋がっている訳でもあるが。。

仙台の政
仙台の政

天下を取る事だけが一番ではないでござる!

 


 

そしてこちらには定番の兜と鎧セットが展示されている。ただ上の方に「戦国の世にJIS規格導入」という文字が見えるけど、どういう事だろうか?

 

説明によると、鎧の腹部中央部分に凹みと点のような色が剥げた部分が見られる。こちらは銃弾が当たった跡らしく、仙台藩下で製造されていた鎧には、このような箇所が見られるという。

 

その鎧の凹み部分のアップ写真だけど、このように銃弾が撃ち込まれたという跡が見える。何も説明が無ければ、戦で使用された鎧で銃弾が当たったのかと思ってしまうけど、そうではないようだ。

 

 

現代でJISマークの付いている製品は、決められている一定基準の標準規格をクリアしているという証拠であるが、勿論この当時はJISマークは生まれていないけど、このように鎧が仕上がった際に銃を試し打ちして鎧を銃弾が貫かないかをテストしていたという。

仙台の政
仙台の政

ワシの時代は、既に銃の時代となってたでござる!

 

こちらは「裃(かみしも)という、上衣の肩衣と下衣の袴でセットで武家が礼装として着ていた衣装である。この裃は江戸時代などを描いた時代劇を見ていると、必ず役人達が着ている衣装で、あの遠山の金さんなどもこの裃の肩衣を肌いて、毎回櫻の入れ墨を見せている。

 

日本全国でみると江戸時代のお城を全体的に再建/復元したお城というのも、殆ど見られない。しかしこのようなミニチュアなら、その当時の城の景色などを再現する事が出来る。

 

このように俯瞰な視線から仙台城本丸を見ると、平山城で高台の上に造られていた強固な城だった事が分かる。山を背にして東側は崖となっており、本丸に攻め込むのは東側しかなかった。しかし城の東側にはいくつもの門や櫓が設置されており、簡単に侵入できる場所ではなかったようだ。

 

この黄色になっているエリアが伊達政宗統治時代の領域で、想像ではもっと広い領地があったのかと思っていたけど、東北全部を支配していた訳ではなく、現代の宮城県エリアだけだったようだ。ただ地図をよ~~く見ると赤い太いラインが会津の方まで描かれており、最も領地がある時はこの会津地方までを手中にしていたという。

 

伊達政宗の時代は種子島に伝来した火縄銃がどんどんと進化して、戦の主流が騎馬戦ではなく、銃を沢山用意して戦略的に扱える兵隊を整える事が勝敗を決める時代に突入していた。なのでこのような火薬入れもドンドンと普及したようだけど、右側の丸い火薬入れは奄美大島で見た藻玉(モダマ)の種が使われているようにも見える。

※藻玉(モダマ)の種は江戸時代に薬入れなどに使われていた。

 

 

こちらは『大坂夏の陣図屏風』という、1615年に起きた豊臣家と江戸幕府との国内を二分した大戦を描いた絵であるが、この中に「竹に雀」という伊達家の家紋の旗が見えており、伊達家が活躍した様子が描かれているようだ。こちらの屏風は現在大阪城天守閣にて保存されて重要文化財にもなっているが、元々は東軍で参加していた福岡藩の黒田長政が描かせた絵で、屏風全体には5,000人を超える人物が描かれているという。

 

この「大坂夏の陣」は大阪城の外堀を埋められていた豊臣軍が敗北し、豊臣家が滅びた闘いであった。徳川家康は前政権の家系を残しておいても火種としかならない事を理解しており、豊臣家という敵を徹底的に排除したのである。それもあって江戸時代は安泰な時代を約250年間に渡って守れたのでもある。また幾多の戦いに参戦した伊達政宗も、この戦いが最後に戦った戦いとされている。

 

こちらには数点の伊達政宗の書状が展示されている。今から約400年程前に実在した人物が書いた物が目の前に見れる事に驚くけど、それにしてもこの時代の人達は達筆過ぎて全然読めないのであるが・・・。

 

 

伊達政宗というと戦の天才だったイメージが強いけど、実は戦の才能以外にも文化人として多彩な才能があったようだ。茶道は古田織部に学んだり、絵画は勿論の事、意外に料理にも凝っていたという。これだけの有名な大名でありながら、「御馳走をもてなすという事は、自ら料理を作る事!」とか言っていたそうだ。

仙台の政
仙台の政

実は刀よりも包丁が似合っていたでござる!

 

こちらには伊達政宗が使っていたとされる茶器や、伊達政宗が描いたという屏風も飾られている。晩年は戦が無くなった代わりに、このような茶や絵画や料理などに精を出して、1日たりとも暇する日が無かったとも言われているそうだ。

 

こちらは大坂夏の陣で伊達政宗が書いた書状。伊達政宗は豊臣秀吉が存命の時には裏切り疑惑が掛けられて、生まれ育った米沢城から岩出山城に転封されてしまうけど、徳川家とは懇意にしており高齢になっても江戸参府を続けていて、徳川家光の時代まで仕えてとても気に入られていたという。

 

江戸時代には大名の血を途絶えないようにと、各大名は正室(本妻)以外に側室という子供を作る役目を何人も抱えていた。大名によっては30~40人の子供を設ける事もあったけど、当時はそれだけ子供を設けても無事成人まで存命する確率が今と比べると圧倒的に低かった。だからこそ沢山子供を設けた訳だけど、仮に40人生まれた子供の内、半分の20人が成人になったとしても跡取りになれるのは男子の1人だけ。

 

その跡取り以外は男子なら他家の養子になり、女子であれば将来大名となる跡取りの元へ嫁入りとなる。しかし現代とは違って大名の子供が婿入りや嫁入りとなると、このような調度品を用意しなければならなくて、また教育費用などでも沢山の費用が掛かったという。

 

イスラム教などでは一夫多妻制が今でも行われているけど、冷静に考えれば仮に4人の奥さんが居るとして、それぞれ均等に生活費やその子供の養育費などを捻出しないといけない。だから沢山の側室や子供を抱えるという事は、それだけ明るい未来が待っている反面、強大な出費の必要があるという事でもある。だからそれなりの数の子供を作れるという事は、それなりに収入や資産があるという事か、それともそういった金銭的な事をあまり考えていなかったかである。

仙台の政
仙台の政

ワシは14人、子供を作ったビッグダディでござる!

 

伊達政宗の血はその14人の子供によって広がり、仙台藩の跡を継いだのは長男ではなく、次男であった。伊達政宗の長男:伊達秀宗は正室ではなく側室の子であり、次男の伊達忠宗(仙台藩第2代目藩主)は正室の子だったのもあって長男:伊達秀宗は家督を継がずに、代わりに「大坂冬の陣」参陣の恩賞として贈られた飛び地である宇和島で初代宇和島藩主となるのであった。

だから四国に居る大名なのに、伊達という名前だった訳なんだ!

 

こちらは本丸の建物に使われていた「九曜紋」の入った瓦が置かれている。前回の宮崎県旅でも九曜紋(十曜紋)を伊東家が使っているのを見たけど、当時の大名は1つの家紋ではなくて、複数の家紋を使い分けていた。その中でもこの九曜紋を使っている武将が多く、この九曜紋は藤原氏を源流としているので、伊達家もその藤原氏の流れを継ぐ一族だそうだ。

 

こちらは1646年に起きた大地震によって倒壊し、その跡は再建される事が無かったという「本丸脇櫓」である。さっき大手門脇にあった脇櫓なる再建された建物を実際に見たけど、この本丸の入口にもこのような大きな櫓が当初は構えられていたようだ。

 

こちらがこの仙台城本丸の入口にあったとされている、詰ノ門と左右の櫓のミニチュア。今ではこの足場である石垣しか残っていなくて、確かに何もないままだと防御面からして弱いと思っていたけど、伊達政宗時代にはこのようなしっかりとした防御要塞が築かれていた訳だ。これらの建造物を見ると、確かに乱世にはいいけど平時の平穏な時代には不要な建造物だった事だろう。だから1646年に倒壊した後に、これらの建物が再建される事は無かった。

 

こちらには本丸跡の発掘調査で地中から出てきた、色んな瓦の欠片などが展示されている。手前には「金箔軒丸瓦」という、金箔が張られた豪華な瓦もあったようだ。

 

文化人としても名高い伊達政宗だけあって、このような陶器などの芸術品にも凝っていた事だろう。こちらも中国から輸入された景徳鎮などの陶器の欠片が置かれている。

 

こちらは本丸にあったとされている大広間を再現したミニチュア。伊達政宗の御殿というよりは、使者などの謁見の場とされていた場所。

 

こちらのミニチュアは先程通ってきた大手門で、第二次世界大戦までは現存していた大手門と脇櫓が見えている。戦火で燃えてしまった国宝の仙台城大手門だけど、そろそろ本格的に復元する動きが出てきているようで、10年後ぐらいにはこの大手門が復活しているかもしれない。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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