仙台旅行記2020年秋-㊲
旅行期間:2020年11月3日~5日
(Learning at the Sendai City Museum (Part 3), Onomatopoeia of the Sendai Bridge and books from the Edo period)
仙台のお勉強タイム3!
今回も引き続き、仙台城三ノ丸に造られている「仙台市博物館」での見学が続きます。この博物館には中世から現代まで続く伊達家から、伊達家に代々伝わる貴重な文化財など数千点も寄贈されており、見所たっぷりの博物館となっている。
仙台市博物館の見学!
こちらの巻物に描かれている絵は仙台藩第5代藩主:伊達吉村が描いた作品とされている。この伊達吉村は伊達政宗の曾孫にあたり、仙台藩主として約40年間に渡り藩政を行い、傾きつつあった藩政を立て直した人物として仙台藩主の中でも高く評価されている人物である。
そんな伊達吉村は狩猟好きだった影響で、その趣味も高じて絵画でも狩猟の様子を描いていたようだ。また昔の藩主の跡取りとなると厳しい英才教育が行われていたので、このようなプロ顔負けの絵を描ける程の能力があった藩主も数多い。
こちらも伊達吉村が描いた狩猟図で、この時代には性能が向上してきた銃を使っての狩猟がメインだった様子が描かれている。銃も日本に入って来て間もない頃は命中率が低かったが、その後に度重なる改良を重ねて段々と命中精度が上がっていったという。なので単なる狩りというよりも自分の射撃の腕を確認する場としても、狩猟が気に入っていたのかもしれない。
当時は江戸時代は平穏だった為に戦も無くなってしまい、普段鍛錬している銃を撃てる機会が狩猟時ぐらいしかなかったのかもしれない。ただ撃たれる動物側からしたら、たまったものではないのだが・・・。
『奥州仙台領国絵図』という幕府から命じられて仙台藩が自国領土内の地図を作成して提出した物を、後年に複写した物の複製品が飾られている。高さ約5m×幅約8mという複写した物ながらとても大きな地図であるが、こういった自国の地図を江戸幕府は江戸時代に合計4回ほど全国の藩に提出させていたという。
幕府側が自ら領地に乗り込んで地図を作製すると大変な作業と膨大な時間を取られてしまうので、その領土を持つそれぞれの藩に作らせるというのはなかなかにいいアイデアだと思う。そして地図には細かく渡し船のルートや坂の勾配や本道と脇道なども描かせており、意外と精密な地図になっているようだ。
このような精密な地図を各藩に作らせる事によって、藩側でもこの地図を参考にして自領民に配布したりなどして、旅や移動の難易度を下げる事が出来た事だろう。
仙台藩では江戸幕府に許可を貰って、自国領土内で使える「銀札」なる独自紙幣を発行した。江戸時代には財政難に苦しむ藩がこのような藩独自の紙幣を作る事によって、それをお金と交換して藩の大きな収入に充てる作戦が行われた。現代でいうと記念硬貨が発行されるようなもので、仮に10万円記念硬貨を原価5万円で造って販売すると、販売側が5万円もその場で儲かるというカラクリである。なおこの銀札は自国領土内でしか有効ではなかったので、その為に全国で使われている正規のお金に比べて価値が下がってしまい、半年で使われなくなってしまうのである。
独自の通貨は作るのも、価値を守るのも大変なんやけ!
こちらは1783年頃に発生した「天明の飢饉」の様子を描いたもので、蔵に泥棒が入って米を盗もうとしている姿が見られる。特に江戸時代には現代と比べて気温が少し低かったらしく、そこに更に冷害によって約1年程作物が上手く育たなかったという。
こちらは木箱のフタに天明の飢饉の様子を記録した物だが、東北地方では岩木山や浅間山が相次いで噴火した事もあって、その降り注ぐ噴煙が太陽光を遮断してしまい、気温の低下と直射日光が低減してしまい、農作物が育たなくなってしまったようだ。
そしてその影響は東北地方に拡がるが、その中でも弘前藩は甚大な被害が出て、ある記録によれば10万人以上も飢餓で亡くなったともされている。またそれが全国的に飢饉となっていたので、あまり東北地方に回せる米もそんなにはなく、物や食料が余っている現代では考えられない位に悲惨な世界となっていたようだ。道端では死体が多数並んでいて、その人の死肉を食べている人や、その死肉に混ぜ物をして犬の肉として販売している者もいたそうな。
こちらはその天明の飢饉の約50年後に発生した、”江戸三大飢饉”の中でも最大級だったと言われている『天保の大飢饉』の様子を描いたもの。この物語に書かれている生き物は何も知らない人が見れば、河童のようにも見えるかもしれない。特に仙台藩では米作メインの政策を行っていた為に米が不足した際の代替え食料に乏しく、他の藩に比べて大きな被害が出たという。
次に見えるこちらの物体は鐘ではなくて、橋の欄干に取り付けてあった擬宝珠という飾りである。この擬宝珠というのは庶民がメインで使う橋ではなくて、高貴で位の高い人物が渡るのに使われる橋に飾られていた物で、現代の橋にもその名残りが見られる。
こちらの擬宝珠は先程渡ってきた仙台城と城下町を繋ぐ仙台橋に取り付けられていた擬宝珠らしく、仙台城が建造されている1601年頃に作製された物。ただ広瀬川は度々氾濫を起こしており、そこに架かっていた橋も何回か流されており、この擬宝珠も橋と一緒に流されてしまったもの。
そんな流されてしまった擬宝珠が大正時代に、下流地域の地中から発見されたという。そして擬宝珠の側面にはこのように仙台橋が造られた当時に彫られたとみられる文字が入っているのも見える。
こちらの文字の後ろに「藤原政宗」という名前が見られるが、これは藤原氏の流れを汲む伊達家であった為に、わざわざ藤原という名前を付けているようだ。
こちらは教科書でも勉強した記憶が頭の片隅にある、あの杉田玄白が訳したとされる『解体新書』である。この解剖書は元々はドイツ人医師のヨハン・クルムスが発行した物で、それをオランダ語に翻訳した本が当時唯一貿易が許可されていたオランダから日本国内に持ち込まれたもの。
この当時はまだオランダ語を翻訳できる蘭学者というのが乱立していた時代ではなく、徳川吉宗時代に西洋文化が記されている洋書の輸入を認めたものの、まだオランダ語を理解しているのはほんの数人程度だった。そんな時代に訳の分からない暗号の文字のような物が記載される書物ではあったが、挿絵が非常に正確な描写がなされていた為に杉田玄白はとても興味を示した。またこの解体新書は杉田玄白1人で仕上げた物ではなくて、数名が翻訳や挿絵などを手伝っているので著者は「杉田玄白ら訳」と複数人を対象としている表示となっている。
こちらは『大舜命契図』という古代中国の伝説上の皇帝だった舜という人物が、今で言う文部省の大臣を任命している場面を描いた絵である。この絵は江戸時代後半に仙台藩の絵師だった「東 東洋」という画家が描いて、仙台藩校に飾られていたものだそうだ。
見所たっぷりの仙台市博物館だけど、まだまだ半分も見終わっていないけど、既に写真の取れ高は上々。見学している最中に写真を撮るのは楽だけど、帰ってからブログにアップする際に写真の枚数が多いと編集に掛かる手間が増えるのであるが、その後手間を分かっていながらも写真を撮ってしまうのである。。
今この時しか見れない物が沢山目の前にあるので・・・
こちらも仙台市と松島周辺の地図であるが、大正時代に造られた地図なのでさっき見た江戸時代の大きな地図に比べると、精密さが格段に向上しているのが分かる。また大正時代になると鉄道も敷かれているので、仙台城から名勝の松島海岸までの行き方が分かり易く描かれているようだ。
こちらは昭和前半に作られた仙台市内の地図だけど、現代でも作られている街の地図みたいな構図になっていて、隅っこに広告欄が登場してきている様子も見られる。江戸時代にはこういった広告という概念はあまり考えられていなかったが、20世紀に入るとこのような印刷物が安易に出版できるようになった事で、紙面での広告の効果が大きくなっていったようだ。
そしてお次の額に入って飾られている地図も、川の形からして仙台市内の様子を描いているものに見えるけど、さっきの地図とも違う感じに見える。
更にその地図を近づいてよ~~く見てみると、このように日本語表記ではなくて、アルファベットの表記で文字が記載されているのが見える。どうやらこの地図は日本ではなくてアメリカ軍が製作した物らしく、戦時中に日本国内の正確な地図を作製していたようだ。
太平洋戦争の終盤、グアムやフィリピンなど日本に手の届く範囲の領土をアメリカ軍に奪取されてしまい、その後に日本国土に向けてB29による爆撃が度々行われる事になる。このように事前に精密な日本全国の都市で地図を作成し、また兵舎や軍需工場などの在り処を正確に把握した後に爆撃を行っていたのである。
この仙台市博物館には収容作品数が多過ぎて、全部展示する事は出来ずに、常時展示されている有名な作品以外は常にその時のテーマによって展示品が交換されている。
今回訪れたタイミングでは『藩主が描いた絵画』がこの部屋で展示されていた。さっきも仙台藩主5代目の伊達吉村の作品があったけど、彼以外の藩主も色んな絵を描いていたようだ。
こちらはさっき訪れた瑞鳳殿で復元された霊廟も見学してきた、仙台藩主3代目の伊達綱宗が描いたもの。ただこの伊達綱宗は藩主としての素行が悪く、家臣団から文句が続出して藩主になってから約2年程しか経過していないにも関わらず、江戸幕府から隠居を命じられてしまう。
当時の江戸幕府からの隠居命令は絶対だったので、それを出されてしまうとその藩主の藩主人生は終わりを迎えた事を意味した。しかしこの伊達綱宗は隠居した後に品川の屋敷に籠って絵画作成などにいそしみ、その描いた絵が人気となって欲しがる人が多かったとか。
こういう絵画なども普通のバランス感覚を持った人間よりも、何かが欠けていて社会生活をまともに送れないぐらいの人間の方が独創的な絵を描ける事が多い。人々を唸らせる絵というものは常人の発想からほど遠くかけ離れているものが多く、ある意味キチガイに近い感覚を持っている人間にしか創り出せないものなのだろう。
こちらの日の丸のような絵は、仙台藩主4代目の伊達綱村の作品。現代の日本人であればこのような構図を見れば、「あっ、日の丸だ!」と思ってしまうかもしれないが、日の丸が日本国の国旗として認識されたのは江戸時代末期の事なので、この絵が描かれた当時は日の丸としてではなくて、高く昇っている太陽を表していたのかもしれない。
この絵もじっくりと観察すれば単なる赤い丸が描かれただけではなくて、薄く色んな色を使って明るい部分や暗い部分を表現しており、太陽が織りなす明るさと、影の暗さを表現しているかのように感じる絵である。
こんな旅はまた次回に続きます!
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