【スリランカ旅行記⑯】ダンブッラ石窟寺院から見えるシギリヤロック

スリランカ旅行記:3日目
クラブツーリズムツアー「お1人様参加限定:スリランカ6日間」-2020年2月6~11日

 

三角地帯の真ん中

ダンブッラ寺院の洞窟寺院の内部

ここはダンブッラ石窟寺院で元々は仏教の僧侶が人里離れて、瞑想を行っていた僻地。そこに紀元前1世紀にタミル人の侵略を受けて逃げてきたシンハラ人の王様が隠れた場所で、ここで戦力を整えて後年タミル人を撃退する事に成功する。
そしてその戦勝記念も兼ねて、その時の王様がここに石窟仏教寺院を造ったのである。

 

ダンブッラ石窟寺院にて

ダンブッラ寺院の第三洞窟寺院の内部

既に第一と第二洞窟寺院内を見学し、ここは第三洞窟寺院内の様子。ここは第五の洞窟まで造られているが、それぞれに造られた時代が全然違う。時代が変わると宗教観も昔とは変わっていたのだろう。

 

ダンブッラ寺院の第三洞窟寺院の内部の天井

カトリックの教会とかでは天井裏にまでも絵が沢山描かれている光景などをよく目にしたが、ここの寺院でも壁だけではなくて天井裏にもこのように仏陀だらけの絵が描かれているのである。

 

ダンブッラ寺院の第三洞窟寺院の内部-2

そして仏像ばかりかと思っていたら、中央に見える像は王様のような感じであった。こちらの像はこの第三洞窟寺院を造った、キャンディ王朝の王様だった「キルティ・スリ・ラージャシンハ(Kirti Sri Rajasinha)」である。

仏像だらけの部屋に王様の像を飾るというのは、いかさか趣向が違うような気がするけど・・・

 

ダンブッラ寺院の第三洞窟寺院から次の洞窟へと移動

すでに三つの洞窟を見たけど、一応ここまで来たからには全部の洞窟内を見てみるようです。

 

ダンブッラ寺院の第三洞窟寺院から次の洞窟へと移動-2

インドから伝来した仏教もスリランカのシンハラ人の中に拡がり、スリランカでの一大宗教へと成長します。そして東アジア諸国へとその仏教は伝わっていったものの、欧米諸国からの植民地支配を受けた結果、彼らのキリスト教普及活動などの為に仏教が弾圧されて、スリランカ内での仏教は衰退していくのであった。

 

ダンブッラ寺院の第三洞窟寺院から次の洞窟へと移動-3

そんな衰退する流れの中に、仏教の救世主でもあり、シンハラ人のナショナリズムを形成したのがアナガーリカ・ダルマパーラ(Anagarika Dharmapala)である。シンハラ人として生まれた彼は衰退する仏教と共にシンハラ人の将来の見据えて、仏教再興を唱えたのである。

 

 

第四洞窟寺院にて

ダンブッラ寺院の第四洞窟寺院の様子

こちらは第四洞窟寺院内の様子。こちらもキャンディー王朝時代に造られたもので、先程見てきた部屋よりかはちょっと狭くなっている。

 

ダンブッラ寺院の第四洞窟寺院の様子-2

ここは今までの部屋と何が違う訳でもなく、同じような部屋となっているだけ。

 

ダンブッラ寺院の第四洞窟寺院の様子-3

キャンディ王朝時代(1469~1815年)の1505年にポルトガルが来島し、最初は単に貿易相手だったが段々とスリランカ国内に侵略を始めてきた。そしてその後を受けたオランダやイギリスといった海外勢と、最後まで闘いを繰り広げたキャンディ王国。

 

ダンブッラ寺院の第四洞窟寺院の様子-4

キャンディ王朝が誕生した時代はコッテ王国ジャフナ王国と3つに王国が分裂して、国力も弱まっていた頃。その王朝の中でも一番最後まで欧州勢と闘いを繰り広げたキャンディ王朝も、内部抗争で分裂して勢力が弱まっていた時にイギリスに支配されてしまう。

 

ダンブッラ寺院の洞窟内で並ぶ仏像

そして1815年にイギリスの植民地となり、約2700年続いたスリランカ王国は滅びてしまったのである。

 

ダンブッラ寺院の第四洞窟寺院内にある仏像

そんな最後の王朝であるキャンディ王朝が造った、この洞窟の部屋は最後のスリランカ人としての意地が表れているのかもしれない。

 

ダンブッラ寺院の第四洞窟寺院内にある仏像-2

キャンディ王朝がスリランカの王朝として最後まで残れたのは、1800m程の標高にあった高地都市だったので欧州勢も攻めあぐねていたからだという。しかし産業革命が起こり、最新の戦艦や大砲などを揃えたイギリス軍の前に屈してしまうのであった。

 

ダンブッラ寺院の第四洞窟寺院内にある仏像-3

そんなスリランカ人の意地が詰まった仏教寺院などが、欧州勢に破壊されなくてよかったと思う。ある程度近代に征服されたからこういった遺跡などが残されたけど、十字軍の頃のような中世だったら、この辺りの遺跡も破壊され尽くしていたかもしれない。。

ブッダ君
ブッダ君

宗教というのは人々の争い事に利用されてきた歴史があるんじゃ!

 

ダンブッラ寺院の第四洞窟寺院内の天井に描かれているフレスコ画

この辺りのフレスコ画も18世紀頃に塗られたものだけど、比較的綺麗に見える。

 

ダンブッラ寺院の第四洞窟寺院内の天井に描かれているフレスコ画-2

”輪廻転生”じゃないけど、栄えた国や文明もいつかは滅びる。そしてまた新しい文化や国などが出てきて”諸行無常”にもあるように、常に変化していき最後にはまた滅びるだけ。。

 

ダンブッラ寺院の第四洞窟寺院内の見学終了

流石に四つ目の洞窟になってくると、見終わるスピードが速くなってきました。狭い洞窟内はもっとひんやりしているのかと思っていたけど、高い場所にあり日差しが照り付けている為か、洞窟内は生温い不気味な感じがするので皆さん早々と部屋を出たかったみたい。

 

ダンブッラ寺院の第四洞窟寺院内の通路の上にむき出しになっている岩

大岩の隙間にこの寺院を造っている為に、このように建物内に岩が突き出している部分も見えます。

 

 

第五洞窟寺院にて

ダンブッラ寺院の第五洞窟寺院内の入口

そして最後の五番目の洞窟に入って行きます。入る前から現地ガイドさんから「ここはあまり重要じゃないけど、一応見ておきます!」とのアナウンス、そしてそろそろちょっとしたお疲れが出てきたツアー参加者さん達。。

 

ダンブッラ寺院の第五洞窟寺院内にある涅槃像

ここは20世紀初頭に造られたようだが既に他の部屋で見てきた仏像ばかりで、かつあまり広くなくて部屋内も温いので中に入らない人まで出てきた。。

 

ダンブッラ寺院の第五洞窟寺院内にある涅槃像の足元

目が開いて足先が揃っている涅槃像は、涅槃に入る前の最後の説法をしている様子を表しているという。既に何回も見てきた光景である。

 

ダンブッラ寺院の第五洞窟寺院内にある仏像群

スリランカはキャンディ王朝が征服された後は欧州勢の植民地となり、次第に仏教熱は衰えていく事になる。

 


発見のモニュメントにあるセイロン島の地図

ポルトガルのリスボンにある発見のモニュメントで、そこの世界地図にあるセイロン島がポルトガルによって発見された年が示されている

1505年にスリランカに上陸したポルトガルは最初はいきなり島を支配する様子もなく、ゴールの港を使ってシナモンなどの香辛料を輸出するのが主であった。しかし次第に欲が出てきたのか、セイロン島に進出しだして1565年にはコロンボを支配し、その後コロンボの街はセイロン島では長い間首都となるのである。

そんな侵略してきたポルトガルに危惧を示していたキャンディ王朝は、ヨーロッパの中で急速に台頭してきたオランダと同盟を結ぶ。16世紀終盤になるとポルトガルはお家騒動で跡継ぎがいなくなり、スペインの支配下に入らざるを得なくなり落ち目に入る。

 

の時に東アジア貿易を奪い取ったのがオランダで、ポルトガルが支配していた東アジア貿易地を次々にポルトガルから奪取していった。日本も元々はポルトガルが最初にヨーロッパから訪れて貿易をしていたが、鎖国してからはポルトガルを追い出してオランダとだけ貿易するようになったのも同じような時期である。

 


ダンブッラ寺院の第五洞窟寺院内にある仏像群-2

そんな風に17世紀に入るとアジア地方の貿易はオランダが優位に立ち、セイロン島にもやって来ていたオランダにキャンディ王朝が同盟を申し込む。そして見事ポルトガルの追い出しに成功したが、次はそのオランダと争う番が来てしまうのである。実はこの時オランダを助けてポルトガルを駆逐したら領土はキャンディ王朝に譲るという密約があったらしいが、蓋を開けてみたらオランダが今までいたポルトガルの代わりに略奪を始めたのであった。

結局目先の利益を求めて、人々は行動するだけである・・・

 

ダンブッラ寺院の第五洞窟寺院内にある仏像群-3

そしてオランダの統治下になりながらもセイロン島でキャンディ王国のみ、オランダと闘い続ける。結局オランダがセイロン島を統治していた1658~1796年の間にはキャンディ王国を打ち破る事が出来ずじまいであった。ちなみにオランダ統治下には仏教やヒンズー教への理解があり、弾圧される事は無かった。しかしポルトガルの持ち込んだカトリックはプロテスタントだったオランダによって弾圧される事になる。

 

ダンブッラ寺院の見学を終えて、道を戻る

そしてヨーロッパでは次々と争いが起こり、主導権がどんどんと変わっていくのである。1795年にフランス革命戦争でオランダはフランスの支配下になると、今度はイギリスがオランダの支配していた植民地を奪取していく。そして翌年にはオランダの植民地だった場所は殆どがイギリスの手に渡るのであった。

 

ダンブッラ寺院の見学を終えて、道を戻る途中に岩を眺める

そしてセイロン島内での唯一の反対勢力であったキャンディ王朝もイギリスの度重なる攻撃の末に陥落し、1815年にセイロン島は独立した国としての歴史は終焉する事になる。そしてその後セイロンは独立を果たす1948年までイギリスの統治は続くのである。

 

ダンブッラ寺院の見学を終えて、道を戻る途中に岩を眺める-2

そのイギリス時代の統治時にキャンディ王国があった高台はプランテーション農業地として開拓される。そこに最初はコーヒーを栽培していたが、”さび病”という植物に発生する病気にコーヒーの木が侵され、かつ南米産のコーヒーとの抗争に劣勢になり、コーヒー栽培を諦める事になる。

 

ダンブッラ石窟寺院の景色 動画

 

ダンブッラ寺院の見学を終えて、道を戻る途中で記念撮影

そのコーヒー栽培の代わりに今ではスリランカの代名詞ともなっている紅茶栽培が始まったのである。この時に活躍し”セイロンティーの生みの親”とも呼ばれた人物が、スコットランド出身のジェームス・テイラー(James Tylor)である。

 

ジェームス テイラー(James Tylor) 紅茶

ジェームス・テイラー(James Tylor)

ジェームス・テイラーはインドではお茶の栽培に15年かかったのを、約2年で栽培に成功させたという。そして紅茶栽培が軌道に乗り、それに目を付けたスコットランド人の実業家トーマス・リプトン(Thomas Lipton)が買い取り、世界に売り出したのが今でもよく目にする「リプトン・ティー」である。

 

紅茶といえばイギリス人が古くから飲んでいるイメージがあるけど、実際にイギリス人達が紅茶を飲み始めたのは1880年頃で約140年前である。そしてセイロン・ティーの高級ブランド品は海外専売品として国で決められていたので、スリランカ国内では飲めずにイギリスなどからの逆輸入品しか飲めなかったという。しかし今では法律が変わり、一部の高級セイロンティーはスリランカ国内でも流通するようになっているという。

 

ダンブッラ寺院の見学を終えて、道を戻る途中で記念撮影-2

今まで何気なく飲んでいたセイロンティーだけど、その紅茶栽培に至るまでは色んな歴史が積み重ねられて出来上がったものである。そんな歴史を少しずつ紐解いていき、日々セイロンティーが飲める有難味を噛み締める男である。

 

ダンブッラ寺院の見学を終えて、道を戻る途中にて

さてこれでダンブッラ石窟寺院の見学は終了し、記念写真タイム。ただ日差しが強くて、地面はその太陽熱を吸収して熱くなっていたので、大半のツアー参加者さん達は奥の大きな菩提樹の下に逃げ込んでいた。。

 

ダンブッラ寺院の見学を終えて、道を戻る途中で記念撮影-3

ついでに仏旗を持ちながら、更に腹も出しながら記念写真を撮る男。スリランカに行くまでは日本国内でもこの仏旗を見かけても全然気付かなかったけど、この旅行後は「あ~~これ仏旗や!」と分かるようになった。

これもスリランカに行ったおかげである、ありがたや、ありがたや!

 

ダンブッラ寺院の見学を終えて、道を戻る途中に見えた景色

スリランカ国内の仏教もキャンディ王国が最後の砦となって護っていたが、キャンディ王国が滅んだ後はイギリスの統治下で庇護する後ろ盾を失う。更にイギリスが英語を公用語として教養した為に、イギリスが建てた学校に通う率が高かったタミル人が英語を習得し公務員などの仕事に就くようになり、スリランカ国内で力を増していった。

 

 

ダンブッラ寺院の見学を終えて、道を戻る途中に見えた景色-2

19世紀末にシンハラ人の為の国という”シンハラ・ナショナリズム運動”がその後起こり、シンハラ人の宗教である仏教は国内で廃れていたので、わざわざ東南アジアで繁栄していた仏教を逆輸入したのである。元々はスリランカから東南アジアに普及していった仏教が逆輸入されて、また仏教が復興するという現象が起こっている。

これは仏陀が悟りを開いた”ブッダの菩提樹”(Bodhi tree)がインドでの仏教徒弾圧の為に取り除かれた為に、挿し木が伝来してそこから育ったスリランカの”スリー・マハー菩提樹”(Sri Maha Bodhi)の一部を、元々生えていたブッダガヤに返って行ったのと同じような原点回帰の現象である。

 

ダンブッラ寺院の見学を終えて、道を戻って入口に戻る

仏教だけに輪廻転生のように、次々と命が生まれ変わっていくように見える流れである。スリランカに来る前はこの国の歴史については全然知識が無かった。それに地図上の大きさでは日本の北海道と似たような面積しかないし、あまり興味も無かった。しかし実際にスリランカに来てみて、このように遺跡などを見学し、それらの歴史について調べてみるととても高度な文を持って繁栄していた国である事に気付いたのである。

こう思うとどこでも実際に自分で行ってみないといけない、と再認識する日々であります!

 

ダンブッラ石窟寺院からの眺め 動画

 

ダンブッラ寺院の入口周辺の景色

緑溢れるスリランカのように見えるけど、イギリスが開拓したプランテーション農業地では林や森の木々を切り倒したので、その跡に紅茶を栽培してはいるけどそれも環境破壊になっているという。人類にはなかなか見えない地球環境を生み出す自然よりも、目先の利益最優先である資本主義社会を優先する生き方の恐ろしさを改めて実感する。。

 

ダンブッラ寺院の入口周辺の景色-2

この辺りの場所もアヌラーダプラが首都としての機能を終えた後は、歴史に埋もれる事になったのでこれだけの自然が今でも見る事が出来るのだろう。

 

ダンブッラ寺院の入口周辺にいる物売り

そして預けていた靴を受け取り、登ってきた階段とは別の階段を降りて駐車場まで向かいます。その途中にはこのような物売りのオジサンが怪しそうなネックレスをいっぱい持って、観光客を待ち構えています。

 

ダンブッラ寺院の入口周辺にいる物売り-2

しかし全然見た目にも欲しいと思わない魅力の無いネックレスだったので、このオジサンは全然相手にされませんでした・・・。

いつも思うけど、こんな商品を売っていて生計が成り立つのかな?!

 

ダンブッラ寺院の見学を終えて、坂を降りて行く

スリランカでは昔からカレーが食べられてきたので、それに合わせて昔からお米も作っていた。だからか、スリランカで食べるお米はそこそこに美味しかった。

 

ダンブッラ寺院の見学を終えて、坂を降りて行く-2

この辺りは180m程の高さで周辺には背の高い建造物なども無い為に、このようにとても見晴らしがいいのである。

 

ダンブッラ寺院の見学を終えて、坂を降りて行く途中に見えたシギリヤロック

そしてここダンブッラから先程見学したシギリヤロックまではあまり離れていないので、肉眼でもその景色が見えるのである。

 

ダンブッラ寺院の見学を終えて、坂を降りて行く途中に見えたシギリヤロック-2

この中央に盛り上がったように見える山が、シギリヤロックである。そこまでは緑ばかりで、とてものどかな場所である。

 

ダンブッラ寺院の見学を終えて、坂を降りて行く途中に見えたシギリヤロックをバックに記念撮影

毎回海外旅行をする度に、今まで知らなかった知識がドンドンと頭に入ってくる。

このペースだと今の脳の記憶スペースだけでは、収まりきらなくなるような・・・

 

ダンブッラ寺院の見学を終えて、坂を降りて行く途中に見えたシギリヤロックを撮影する

ここでは珍しく添乗員さんも自分用に写真を撮っていた。個人的というよりは仕事の研修用としての写真だという。添乗員さんという仕事もあまり新人研修はなくて、「とりあえず出ていって覚えろ!」という教育方針が多いらしい。だからよく他の添乗員さんのレポート書類などに、目を通している姿を見かけるのである。

 

ダンブッラ寺院の見学を終えて、坂を降りて行く途中

最近パックツアーを選ぶ条件が「1人参加限定」「8日間以上の日程」だったけど、段々旅行に行き出すと両項目に該当するツアーが減ってきた。なので仕方なしに今回は6日間のツアーを選んだのだが、やっぱり海外に来てみると迷ってても行った方がいいなと感じる。

 

ダンブッラ寺院の見学を終えて、坂を降りて行く途中-2

いくら写真や動画などは見れても、このような現地の空気や匂いや気候などは実際に現地じゃないと体感できない。

やっぱり体で海外を感じる事が重要ですね!

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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