九州縦断旅:熊本編
旅行期間:2020年8月中旬
ようこそ熊本へ!
今日の朝に阿蘇の宿泊施設を出て、一旦大分県~福岡県久留米市と移動して、約6時間ぶりに戻ってきた熊本県。ただ阿蘇付近とこの熊本駅がある熊本市とは場所がかなり離れているので、同じ熊本県のようにはあまり感じれなかった。熊本県のシンボルといえば、阿蘇山とやっぱり熊本城である。2016年に起きた熊本震災の影響により熊本城の至る所が崩壊して、復興作業中らしいけど、その傷跡もしっかり見ておく必要がある。
熊本市内に到着する
そして熊本駅で早速出迎えてくれたのは、熊本県のゆるキャラであり日本国内でもダントツの知名度を誇るくまモン。2011年に開業された九州新幹線の経由地であった熊本駅であるが、終着駅では無い為に通過駅となってしまうのを危惧して、熊本県が「くまもとサプライズ」と題したPR作戦をした際に生み出されたキャラクターである。ぽっちゃりとした体型に熊本人らしい温和な顔つきが好評だったのか、「ひこにゃん」や「せんとくん」に次ぐ人気を博した。
そして熊本県がこのくまモンの著作権を買い取り、商品などにイラストの肖像権を無料提供(県内企業のみ、事前に申請が必要)した為に、更に爆発的な人気となって今では「熊本県といえば何がある・・?!」と聞かれれば、「くまモン!!」と答える人も多い程に大成功したゆるキャラとなっている。
熊本の名物と言えば、辛子蓮根ばいた!
地方に行って戸惑う事と言えば、ホテルに泊まってテレビをつけた時に画面に映るチャンネルが「どこの局、コレ・・?!」と思う事である。東京都に住んでいれば各局の大元ばかり普段から見ているので分かるけど、どの地域に行ってもその大元の系列テレビ局が色々とあって、まずはどのチャンネルが何チャンネル系列かを認識するのに時間が掛かるのである。
これは熊本朝日放送(KAB)だけん、テレビ朝日系列ばいた!
1891年(明治24年)に乗降客が利用する駅となってから、約130年後の今では2011年に九州新幹線が通り、2018年には全面高架化されて翌2019年には白川口(東側)に安藤忠雄氏設計の新駅舎が完成している。という事で熊本駅の改札を出るとまだ新しくて綺麗な内装の駅構内が見える。
熊本駅周辺にて
そしてそのまま東口である白川口を出ると、駅前広場も工事中であった。熊本県内へとやって来る県外客の受け所となっている熊本駅と熊本空港は、それぞれに受け入れ強化の為に整備中である。しかしそんな中での2020年にコロナ禍により観光客が大幅に減ってしまったので、当初換算していた経済効果を達成するにはかなり先になりそうな予感であるが。。
熊本県の、将来の為の投資ばい!
そしてこれが熊本駅の東口である「白川口」に2019年3月に新しく完成した駅舎である。こちらは日本を代表する建築家の安藤忠雄氏による設計で、熊本城の石垣で有名な”武者返し”をモチーフにした、上に上がる程に急斜面になる外壁のデザインが取り入れられている。
ただしこの時にはその外装が見渡せれる駅前広場が整備中だったので、あまりよく見れなかったけど・・
こちらは東口の先にある、大きな熊本駅前交差点でエスカレーターを完備した歩道橋が造られていたけど、雨などを防ぐ屋根は造られていなかった。屋根の無い屋外に造られているエスカレーターってのも、なかなか見られない光景に思う。それと駅前北側には、どこにでもあるビックカメラのテナントが入る「JR熊本白川ビル」が建設中である。なおJR九州は、熊本駅南側にあるビルと、この熊本白川ビルの商業エリア名称を「アミュプラザくまもと」として熊本駅周辺の集客ゾーンとして強化していくそうだ。
こちらは熊本駅前交差点の陸橋から南側を見た景色である。道沿いには熊本市電の「熊本駅前駅」周辺が工事中なのが見えている。数年前まではこの路面電車の駅の上には、おおきなしゃもじ型の屋根が付いていたのだが、撤去されてしまっている。なお熊本駅周辺の再開発整備に伴い、利用客の利便性を上げる為に今までは駅前をかすめるように走っていた市電を熊本駅東口の真ん前まで直結させる予定なんだとか。
個人的には東口から歩いて1~2分の、今の場所のままでもいいと思うけどね・・・
こうやって熊本駅周辺を見ているだけで、ここ数年間で多額の予算が投じられているのがよく分かる。全国的には知名度が低く、年々増加する海外からの観光客などを呼び込もうとする必死さが伝わるような工事現場である。
知名度は低いかもしれないけど、いい所は多いばい!
さて今晩宿泊するホテルは熊本駅前の繫華街にあって、この路面電車に乗っていけば熊本城前まで行けるけど、大好きな歩きで行くかを少し考える。この8月中旬の真夏時期の炎天下の日中に熊本駅から熊本城まで行く人の殆どは、徒歩ではなくこの路面電車を使うハズ(もしくはタクシーか)。
人があまりしない選択肢を選ぶボクの答えは、すぐに出ましたね!
熊本駅周辺を流れる川沿いを歩く
という事で炎天下の、本当に暑い時間帯に1人黙々と歩く事に決めて、熊本城の方角まで歩いていると途中に川が見えてきた。こちらは坪井川と呼ばれている二級河川で、熊本市内を流れて有明海とへ流れていく。なおこの坪井川は熊本城本丸の内堀としても使われているので、この河川を辿って行くとちょっと蛇行しているけど熊本城に辿り着く。
そんな坪井川の川沿いに建てられていたのは、水を大事にする熊本県が認定した”熊本水遺産”の一つである『石塘(いしども)』である。この坪井川は元々熊本市役所辺りで白川と合流していたのだが、1602年に城下町で洪水が発生した為に当時この地を納めていた加藤清正が指示して、この坪井川の流れを変えさせたのである。
人類というのは自分達の生活の為であれば、自然溢れる地球が何千万年も掛けて創り上げてきた大地を改造してしまう、ある意味”地球上の破壊者”であると言っても過言ではないかもしれない。
加藤清正公は民の為に、坪井川の流れを変えたばい!
暑い炎天下の中でリュックを背負って歩いていると、そのリュックと背中の間に気付かぬ間に大量の汗をかいてしまっている。近年は夏場によく「熱中症に気を付けて」と叫ばれている時代に炎天下の中を歩く男をあざ笑うかのように、冷房が効いて涼しい社内を提供している熊本市電の電車が、横を通り過ぎていくのを眺める。。
何万年も掛けて地球上で進化してきた、人類本来の体の機能を甘やかしてはダメなのだ!
ただ周りを見渡してもこの辺りを歩いている人は、殆ど見かけない。特にこの夏場は35度前後になる日中だけに、よほどのキチガイ的な考えの人間しか徒歩で移動しないのかもしれない。
先程のあまり川幅が広くない坪井川を渡って進むと、今度は川幅が広い「白川(しらかわ)」が見えてきた。一級河川であり、熊本県阿蘇郡南阿蘇村大字白川の白川水源から湧き出る天然水は”名水百選”にも認定されている、熊本県を代表する水である。
白川沿いの景色 動画
こちらはそんな白川に架かる沢山の橋の一つである泰平橋。今から約100年程前にこの橋付近に路面電車の駅があったそうだが、約40年後にその路線が廃止された為に今ではそんな駅の跡形も残っていない。
熊本城まで歩く
さて熊本城まで歩くルートとしては、さっき見た坪井川の流れに沿って行くか、それとも路面電車の路面に沿って行くか、あるいは熊本城までの方角を目安に気ままに進むかというルート選択に直面する。
勿論、最後の「気ままに進む」です!
一応は約100年程前から熊本市内の市街地を形成してきた熊本市電の幹線ルートを辿って、まずは歩いてみる。熊本城以外を知らない人間からすると、昔から発展してきた道路沿いを歩くと何かしら発見できるハズと期待してしまう。こちらは消防訓練中のような消防車が活動している、熊本市消防局:西消防署である。
そして路面電車の線路沿いを逸れて北上していくと、途中に昔ながらのレンガ造りのような建物が見えてきた。こちらは「旧第一銀行熊本支店」の建物跡で1919(大正8年)に建てられたもので、平成に入って老朽化の為に取り壊されそうになったが市民団体の呼びかけで保存される事になったそうだ。
そんな昔から城下町として栄えてきた唐人町を跨る坪井川に架かるのは、こちらの「明十橋(めいじゅうばし)」。1877年(明治10年)に造られたので、「明十橋」という名前が付けられたんだとか。
この明十橋を造ったのは、熊本出身で江戸時代末期~明治時代初期にかけて活躍した、肥後藩の石工であった橋本勘五郎。通潤橋の建造にも関わり、その後に名前を橋本勘五郎と改め、明治時代初期には宮内省に招かれて、浅草橋や江戸橋や京橋などの建造にも関わったという。
(※ただし浅草橋/江戸橋/京橋はいずれも解体されている)
彼が建造に関わった国の重要文化財にも指定されている「通潤橋」は、今でも上益城郡山都町に現存しており、今では橋から定期的に放水されていて観光客にも人気の橋となっている。
古い橋というのはそれだけ長い間そこに架かっている橋だけあって、当時の優れた石工が技術の粋を集めて築いた芸術作品なのである。技術の発展した現代では「そこに架かっていて当然!」と思ってしまうけど、足元にも色んな歴史が埋まっているのだ。
目線を下に下ろすだけで、色んな発見が出来るばい!
この唐人町周辺は第二次世界大戦時の空爆を免れた為に、昔ながらの商人の町屋などが残っている地区でとてもレトロな雰囲気を感じれる場所だった。そんな場所を味わいつつ、かつ汗だく状態で更に進んで行くと、こちらはレトロ感は一切感じられない熊本中央郵便局の建物が見えてくる。そしてここで再び見えてきた市電の路線は、先程熊本駅前で見た路線(市電A系統)とは異なり、JR上熊本駅まで続く別の上熊本路線である。
そんな郵便局の横で再び坪井川と交差する場所にも、橋が掛けられている、こちらの橋は「船場橋」という名前が付けられている。この橋は元々木造の橋が掛けられていたが、1929年(昭和4年)に市電がこの橋上を開通するのに合わせて鉄筋コンクリート造りの橋に架け替えられている。
橋の横に説明板が設置されていて、この辺りは坪井川の船着場だったので「船場橋」という名前が付けられている。そして「あんたがたどこさ~~」のフレーズでも有名な童歌『肥後手まり唄』の舞台としても出てくる場所である。
※ただし諸説があり、別の「せんば」という場所の可能性もある
あんたがたどこさ【歌あり】童謡・手遊び歌
そんな船場橋の欄干に設置されていた、このようなエビらしきオブジェも実は『肥後手まり唄』の歌詞に出てくる「せんば川にはえびさがおってさ」という歌詞から来ているようだ。
エビというよりかは、イカに見えるオブジェでしたが・・・
熊本市内を流れる動脈と静脈のような、白川と坪井川。そしてそれらにまたがるように市内各所に架けられている橋。橋の数が多ければ多い程に、この地域が発展していた事を表している。
今では平穏な坪井川も過去に城下町を整備したお殿様の計画があってこその物。川の流れまで変えてしまうという秘策を思いついた先祖は、尊敬にも値する。
『肥後手まり唄』に因んだ船場橋だけあって、橋中には関係するオブジェやレリーフなどが敷き詰められているのであった。
熊本城手前に到着
さて炎天下の中を坪井川の流れのように蛇行しながら、熊本城の城下町だった場所をなんとなく満喫して歩いて行くと、やっと熊本城の近くに辿り着く。そんなお城の手前にあるのは、天下のNHK熊本放送局の建物。こちらの綺麗な建物は2016年に建てられて、まだ新しい放送会館。
そこから熊本城本丸へと繋がる道の手前に陣取っている銅像は、いまだに熊本県民が尊敬して止まないという加藤清正公である。加藤清正というと肥後熊本藩の初代藩主であり、元々は尾張出身で秀吉の配下として出世していった有名な武将である。
住所:熊本県熊本市中央区花畑町2−15
信長が本能寺の変で没した後の、1583年に起きた豊臣秀吉勢力と柴田勝家勢力との戦いである「賤ヶ岳の戦い」で武勲を挙げて”賤ヶ岳の七本槍”とも称された豪傑でもある。190cmを超えるという長身であったとされていて、さらにこのような長帽子を被っていた為に更に上背があると思われていたようだ。
そんな加藤清正がこの熊本の地へとやって来たのは、1585年以降に九州制定を企んだ秀吉が送り込んだ佐々成政が一揆などに苦しみ隈本地方の制圧に失敗し、それに激怒した秀吉が佐々成政に切腹させて佐々家を改易させた後。ただ加藤清正はその時点で一国の城主になっていた訳でもなかったので、肥後約20万石を与えられたのは大出世だったようだ。その背景には秀吉と遠い親戚関係もあって、小さい頃から気に入れられていた影響もあったのかもしれない。
だけど逆に隈本(今の熊本)に転勤を命ぜられても、大した家臣団を持っていなかった加藤清正。転勤先の隈本には切腹した佐々成政に仕えていた家臣団が残っていて、それらを召し抱えて隈本地方の制圧に尽力したようだ。
そんな加藤清正というと、別名”築城の達人”とも呼ばれる程に城づくりでも有名な人物。隈本を制圧すると共に隈本城を整備して「熊本城」に改名し、氾濫する危険性があった坪井川や白川の流れを変えた。これは単なる川の流れを変えただけではなく、坪井川を内堀に、白川を外堀とする城の守りを固めるという地盤づくりも兼ね備えていたという。
そんな加藤清正公像が設置されている坪井川の手前にある、ちょっとした広場の奥には別のこのような人物像と記念碑が設置されていた。
こちらの銅像は下の説明板にもあるように”民生委員の父”とも呼ばれた林市蔵氏のもの。この林市蔵という人物は明治時代~昭和初期に活躍した官僚で、日本銀行の頭取や三重県知事~山口県知事~大阪府知事を歴任。大阪府知事在任中の1918年には、今の民生委員の前身にあたる方面委員制度を設置した人物でもある。
そしてそんな銅像が設置されている広場から熊本城を眺めてみると、さっそく手前に見えている建物の石垣が2016年の大地震によって崩れてしまっているのが見えている。しかしここで注目なので石垣の全部が崩壊している訳ではなく、角の部分がしっかりと残っており建物を支えているのだ。
ここには昔「下馬橋」という名前が付いた橋が架かっていて、城内に入る際は馬を降りないといけなかった為にそういう名前が付けられたそうだ。当時は殿様などの身分が高い人の前では乗っている馬から降りるのが当然の事で、もしそんな場所で馬に乗り続けていたら”斬り捨て御免”と切り捨てられてしまう時代だったようだ。
そんな風に馬を降りずに斬り捨てられた「生麦事件」は、日本の文化を知らなかったイギリス人が殺されたんばい!
今熊本城本丸跡との間に架かっている橋は「行幸橋(みゆきばし)」で、この橋が明治35年に架けられた為にここにあった先程の絵にもある「下馬橋」は撤去されてしまって跡形すら残ってないのである。なおこの行幸橋とここから本丸まで登る幅の広い行幸坂はこの明治35年(1902年)に明治天皇が2度目に熊本を訪れたタイミングで、旧来の道だと幅が狭くて車が通れなかったので新しく整備された道なのである。なおその際に合わせて行幸坂の左右には桜の木が植林されて、今では春の時期に桜が咲き誇る景色の起源となっているようだ。
こんな旅はまた次回に続きます!
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