2020年に復元された鶴丸城跡の正門「御楼門」から、城内へと進む

九州縦断旅:鹿児島編

 旅行期間:2020年8月中旬~下旬

 

鹿児島の中心だった城

照国神社近くにある鶴丸城へ向かう

九州旅も本日がやっと最終日、そんな最後の1日は鹿児島市内で薩摩藩ゆかりの史跡を巡る日としました。照国神社を朝イチに訪れた後は、隣にある鶴丸城(鹿児島城)跡にやって来ました。

 

 

 

鶴丸城(鹿児島城)跡地にて

鶴丸城跡地の正門「御楼門」

そしてこちらが鶴丸城(鹿児島城)跡地に造られている正門の「御楼門」。この正門はまだ2020年4月に復元して造られたばかりで、ここを訪れたのはその年の8月だったのでまだ出来立てピカピカの頃。

 

 

鶴丸城跡地の正門「御楼門」1

2017年から復元工事に取り掛かり、掛かった総工費は10億9千万円(うち6億2千万円は民間からの寄付)だという。明治6年(1873年)に発生した火災の影響で焼失してしまってから、約150年振りに復活した「御楼門」。ただその復元に関しては、この門無し状態で150年程が経過していたので「今更巨費を投じてまで、復元する必要があるのか?」などと賛否両論だったという。しかし鹿児島県外からやって来る人にとっては、本城が無い鶴丸城を象徴する写真スポットともなるので喜ばしい復元だと思う。

東郷どん
東郷どん

数えきれん位にこの御楼門を通ったでごわす!

 

鶴丸城跡地の正門「御楼門」の前に拡がる水連

鶴丸城の堀にはこのように、一面に蓮の葉っぱが生え渡っている。真夏の暑い太陽もこのように緑が広がる蓮の葉達が、その日差しを受けて命を繋いでいる光景が目の前に広がっているのである。

 

 

鶴丸城内へと進む

鶴丸城跡地の正門「御楼門」を入る

先日来た時には時間が遅すぎて門が閉まっていたけど、今日はまだ午前10時頃だったので開いている「御楼門」。ここを訪れた時には、この御楼門がまだ出来立てとは全然知らなかった。そして国産のケヤキ大径木で造られている城門を進んで行きます。

 

 

鶴丸城跡地の正門「御楼門」を入った城内にある石垣

城内に入るとまずは石垣が造られており、正門から入ってくる人を直進させずに一旦右折させる役目をしている。こういった形は日本のお城にはよくある造りで、敵の侵入を想定して造られているというのがよく分かる形状となっている。

 

鶴丸城跡地の正門「御楼門」を入った城内にある石垣に見える、西南戦争時の銃痕の説明

そしてそんな石垣には、何やらボコボコと穴が空いているのが見えます。先日この鶴丸城跡近くの石垣でも同じような場所があったのを思い出す。

 

鶴丸城跡地の正門「御楼門」を入った城内にある石垣に見える、西南戦争時の銃痕の説明

こちらは明治10年(1877年)に起こった西南戦争で、薩摩軍を追い詰めた新政府軍がこの城を取り囲み、無数の弾丸を打ち込んだ痕である。その弾丸痕からは当時使われていた銃弾の破片なども発見されているようだ。その西南戦争では鹿児島にあった新政府軍の武器庫を襲撃し銃弾などを奪取した薩摩軍であるが、新政府軍は最先端の銃などを所持していたので長期戦になるとその武器の差が顕著に表れて、次第に鹿児島中心部に追い詰められていく。

 

鶴丸城跡地の正門「御楼門」を入った城内にある石垣に見える、西南戦争時の銃痕の説明1

明治維新の立役者である西郷隆盛は、自分の理想を目指した世界観が明治政府高官たちに認められずに、ソッポ向いて下野する事になる。大久保利通とは違って西郷隆盛は相手に合わすスタイルではなく、自分のポリシーを頑なに突き通すスタイルだった。そして愚直で優しい心を持ち、政府高官になって給料が増えたり多額の賞与を貰ったりしてからも質素な生活を続けていた彼の元には、彼を敬愛する者達で溢れていたという。そんな西郷が下野して鹿児島に戻ると、彼の信者のように崇拝する薩摩出身の若者たちも一緒に鹿児島に引き上げてきた。

 

鶴丸城跡地の正門「御楼門」を入った城内にある石垣に見える、西南戦争時の銃痕2

そしてその後に発覚した西郷隆盛の暗殺未遂事件が発端となり、血気盛んな薩摩隼人達が新政府軍の武器庫などを襲撃する事件へと発生していった。その時、西郷隆盛は鹿児島の端の方へ狩猟などに出掛けていて、この事件には一切関与はしていなかった。しかしこの事件を聞きつけてその事の重大さに、自分が抑制しなかった事を悔やんだが、もう後には引き下がれないので薩摩隼人達と新政府軍を相手に戦う道を選ぶのであった。

鶴丸城跡地の正門「御楼門」裏側

こちらは「御楼門」の内側である。この大きな扉は岐阜県関市で製作されたもので、高さは約5.2m/幅は約2.5m/厚さは18cm/重さは1.4tにもなる巨大な扉。そして大きな扉が設置された後に、漆の焼付け塗装された沓巻金物が取り付けられて、このような大名の城っぽい扉が完成するのである。

 

鶴丸城跡地へ進む

城内に入ってすぐに石垣にぶつかり、右へとL字ターンして進むと、鶴丸城本丸跡に到着する。この島津家の居城だった鶴丸城は山城ではなく、平地に造られた平地城。そして城にはよく見られる大きな天守閣という物は存在しなかった。昔から島津家は地方に沢山城を築き、それを城壁代わりにしていたので熊本城のような強固な城を造る事はしなかった。

ただ熊本城とこの鶴丸城はそれぞれに西南戦争時に決戦が行われた場所だが、熊本城で籠城して堅守した新政府軍と、鹿児島城で最後を迎えた薩摩軍の命運を握っていたのもこのお城の造りが影響を与えたのかもしれない。

東郷どん
東郷どん

あの戦いは城の差ではなく、戦力が違い過ぎたでごわす・・・

 

 

本丸跡に造られている「黎明館」

鶴丸城跡地にある黎明館

1874年頃に焼失した鶴丸城本丸御殿は、その後は修復されずに造士館や鹿児島県立大学医学部などを経て、今ではこちらの1983年に開館した「鹿児島県歴史資料センター:黎明館」が建てられている。ここでは鹿児島の歴史/民俗/美術・工芸などが見られる場所となっている。(有料施設だが、一部無料コーナーもあり)

 

鶴丸城跡地にある篤姫の像

そしてそんな黎明館の建物を眺める場所に陣取っている、こちらの像はNHK大河ドラマで一躍有名になった「篤姫(天璋院)」の像である。2008年に放送された大河ドラマでは主演の宮﨑あおいが、最年少で主演を務めたとして話題にもなった作品。

 

 

鶴丸城跡地にある篤姫の像2

そんな大河ドラマでは過去10年間に放送された作品の中でベストの高視聴率を弾き出して、大成功に終わった大河ドラマ『篤姫』。その影響を含めて、放送後の2010年12月19日(篤姫の誕生日)にこの像の除幕式が行われた。なおこちらの像は文化勲章受章者である彫刻家の中村晋也氏が制作したもので、製作費は限定的に開催されていた「篤姫館」の売り上げからの過剰金から4,000万円を費やして作られた。

 

 

鶴丸城跡地にある篤姫の像1

大河ドラマに取り上げられるだけで全国的に大幅な知名度アップに繋がるので、先日訪れた熊本城で約10年間に渡って加藤清正を大河ドラマの主役にするという署名活動が継続されているのも理解が出来るのである。

からし蓮君
からし蓮君

加藤清正公よりも、辛子蓮根を主人公にした大河ドラマを作るばい!

 

鶴丸城跡地にあるベンチ

この鶴丸城敷地内に設置されていた、こちらの木のベンチも鹿児島ならではの個性が入ったデザインとなっていた。この鹿児島市内から見える”鹿児島の象徴である桜島”と、島津家家紋マークのがうまい事調和していた。

桜島火さん
桜島火さん

ワシはもっと大きいハズやド~~ン!

 

鶴丸城跡地にある説明板

御楼門を復元する前に鶴丸城跡の調査を行った際に、石垣の内側に排水溝が発見されたとこちらのパネルに説明がある。単純に石を積み上げているようにも見える石垣だが、その裏側には長年の歴史に裏打ちされた綿密な機能があり、何百年と持ちこたえる石垣となっているのだ。

 

鶴丸城跡地の正門「御楼門」を反対側から眺める

こちらはさっき通った来た「御楼門」の内側から見た景色である。この2階は立ち入る事は出来ないが、昔は石落としできる構造になっていたとか。それと屋根に取り付けられている鯱2体は、富山県高岡市で約10ヶ月に渡って製作されたものだそうだ。またそんな鯱には台風などの強風で飛ばされて仕舞わないように、中に屋根から突き出る芯(鯱束)が造られており、そこに被せるように設置されているのである。

 

 

鶴丸城内にある「七高生久遠の像」

鶴丸城跡地にある七高生久遠の像

鶴丸城本丸跡に建っている黎明館の脇には「七高生久遠」という像が設置されているのが見える。こちらは明治時代になって焼失した本丸跡地に造られた「第七高等学校造士館」の卒業生らによって、昭和60年(1985年)に”開校85周年”を記念して建てられたもの。

 

鶴丸城跡地にある七高生久遠の像1

自分達が卒業した学校が無くなるという事はとても寂しい事だとは思うけど、このようにその学校があったという記念碑を建てる事によって、その歴史をいつまでも刻んでいける記念碑なんだろう。

 

鶴丸城跡地にある七高生久遠の像2

明治の終わりに開校してから約50年間に渡って、実に9,000人以上の卒業生たちがここから巣立っていったようだ。そして大正~昭和初期時代の学生の恰好なので、このように下駄を履いていたり、西洋チックな長いオーバーを着ている姿が何とも違和感を感じる。ただ現代の人々からは違和感を感じる服装だけど、この当時はこういった学生服が当然だったんだろうけども。。

 

鶴丸城跡地にある像など

このように鶴丸城本丸にあった御殿は明治初期の火事によって焼失した後は、再建される事なく今に至っている。ただ本丸跡地中心に建っている黎明館の老朽化で建て替え問題が出てくる頃合いに、本丸御殿再建の動きが出てくるのかもしれないがまだ当分先の事だろう。。

 

鶴丸城跡地の説明板

鶴丸城跡に復元された正門「御楼門」では鹿児島県産の材木を使用しているが、メインの柱に使われる直径1mを越える大径ケヤキ材(7~10mの長さ)は鹿児島県内で調達したものではない。この大径ケヤキ材は1754年頃に多くの犠牲を伴いながらも施工された『宝暦治水工事』(木曽三川改修工事)後に、懇意な関係となった岐阜県から提供されたものだそうだ。

東郷どん
東郷どん

この治水工事では薩摩藩に大きな打撃を与えたが、後世にいい影響が残ったようで何よりでごわす!

 

鶴丸城跡地の正門「御楼門」に使われている鬼瓦

そして黎明館の玄関前には、御楼門に使われている鬼瓦なまこ壁のサンプルが展示されていた。実際に御楼門に取り付けられている鬼瓦はちゃんと見なかったけど、近くで鬼瓦を見ると口の中からも牙がはみ出してきているのが見える。

 

鶴丸城跡地の正門「御楼門」に使われている鬼瓦1

海外のお城とかでもそうだけど、このような鬼や魔物を建物の一部に設置する事によって、”魔除け”として昔から長年使われてきたのだ。自分達が怖がる存在を置いておけば、それにビビッて魔物がやって来ないと考えていたようです。

開聞茸
開聞茸

魔物には毒キノコを!

 

鶴丸城跡地の正門「御楼門」に使われている鬼瓦2

このように御楼門復元に使われた瓦も手の届く位の位置に置かれていて、間近に眺める事が出来る。御楼門に取り付けられている瓦などはこのような近くから見る機会がないので、こういった配慮は正直有難い。

 

 

鶴丸城跡地の正門「御楼門」に使われている鯱

こちらは富山県で約10ヶ月の期間を掛けて造られた鯱。これも近くで見る機会というのが少ないから、ここに設置されているのが有難い。実際に設置されている鯱は遠くから見る事しかないので、こうやって近くで見ると意外とその大きさに驚くのであるが・・・。

 

鶴丸城跡地の正門「御楼門」に使われている鬼瓦などの説明

御楼門は今どきのお城のように鉄筋コンクリート造りの建物ではなく、昔ここにあった城門を忠実に再現して”日本古来の伝統技術”を用いて造られたもの。日本では戦後に全国でお城が復元されていったけど、工事の手間や耐震性なども考慮してコンクリート造りが多い。しかし21世紀になってからはそういった城造りではなく、過去の伝統技術を引き継いで後世に残していく為に、このような手間は掛かるけど昔ながらの構造をした建造物が増えていくかもしれない。

 

鶴丸城跡地の正門「御楼門」に使われているなめこ壁

こちらは「土壁」とも言われる、漆喰塗の外壁サンプル。この漆喰で塗り固められた外壁も、昔からの日本の伝統技術である。

 

なまこ壁の説明

そして御楼門の2階部分の外壁には「海鼠(なまこ)壁」と言われる、伝統技術の壁が再現されている。それは土壁の上に”なまこ瓦”という板状の瓦を設置し、その隙間を漆喰でかまぼこのような形で盛り付ける建築技術である。この技術により、台風や嵐などからの被害が減り、更には従来の建物よりも防火性能が高い為に、蔵などの重要な建物などによく用いられている。

 

鶴丸城跡地の正門「御楼門」に使われているなめこ壁1

そんな土壁と言っても、このように「①小舞竹」という骨組みがあり、その上に「②荒壁」という土に藁草を入れたものを塗り込む。さらに「③中塗り」という砂の入った土を塗り込み、「④仕上げの漆喰」を外壁に塗り上げる。そしてこの上に更になまこ瓦を取り付けるので、一般家庭では裕福な家にしか見られなかった造りである。

 

鶴丸城の見取り図

こちらの壁に掛かっていたのは「天保年間鹿児島城下絵図」。1830~1840年頃に書かれた鹿児島城下町の俯瞰図である。 「薩摩は城を持って守りと成さず、人をもって城と成す」という有名な言葉が薩摩にはあるらしいけど、このように鹿児島城には堅固な石垣や豪華絢爛な天守閣は無い。”薩摩隼人”と言われた独特の鹿児島人気質が培われていたので、それが石垣代わりだったようだ。ちなみに薩英戦争で錦江湾まで攻め込んできたイギリス海軍は、敵の本拠地である城だと思って大砲を打ち込んだが、その建物は鹿児島城の本丸ではなくてお寺だったという。

東郷どん
東郷どん

薩摩に華やかさはいらんでごわす!

 

鶴丸城跡地にある黎明館の池

こちらは黎明館脇に造られていた内堀・・・ではなくて、そこまで深くはない人工的な池。こんな所に水があると内堀のように思ってしまうけど、真夏時期は案外このような水が周囲の温度を下げてくれていたのかもしれない。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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