愛媛/松山旅行記⑥
旅行期間:2020年9月23日~26日
松山市内の高台にそびえる松山城
こちらは松山市内で標高約130mという少し高台に位置している松山城の本丸へと、登る為によく使われるロープウェイ/リフト乗り場の建物。階段を登るのはしんどいという人には最適な移動手段であるロープウェイ/リフトが、日中運行されている。
こちらではロープウェイとリフトの2種類が運行されていて、今回選んだのはスキー場などに設置されている事が多いリフトを選択。ここのリフトは1人乗りなので、コロナウイルス感染対策としても最適である。
コロナ禍での旅行も、何よりも感染対策を心得た上で行く必要があります!
本丸へと登るリフトに乗り込む
この松山城本丸へと導いてくれるリフトに乗っている時間は、約5分程。箱に入るロープウェイとは違ってリフトは下手したら落下する可能性があるので、下には落下した際に怪我しないようにネットが張られている。
そしてリフトが昇っていくと、そんな下に張られているネットに横断幕が張られていて、それら一つ一つにメッセージが印刷されてこちらに問いかけてきているのが見える。
このような意味深いメッセージも俳聖である正岡子規を輩出した松山市だけに、より一段とその言葉に深みがあるように感じてしまう。
正義のヒーローも悪役が居ないと、ヒーローになれないという感じかな?!
リフトを登る際に見える光景 動画
運行しているリフトもこのようにガラガラで運行しており、2020年はコロナ禍の影響で観光業が大赤字だったのが見て取れる。2021年は一部の国にワクチン接種が始まり、世界的に新型コロナウイルス感染が早期に抑え込まれるという期待があったが、新たな変異ウイルスなども各地で生まれて長期戦になりそうな雰囲気である。。
このリフトの左側で運航していたのがロープウェイで、比較的年配の人ほどリフトよりもロープウェイを選択する傾向がありそうだった。若い程にスリリングなリフトを選び、歳を重ねる毎に落下リスクの少ないロープウェイとなるのであろう。
普段はこれぐらいの高さであれば基本的に階段を登って来るので、リフトを使って登ってしまうとその高さや道中をイマイチ体感できない。という事でまた今晩も再び松山城を訪れて、その際は階段を使って登ろうと決意した瞬間でもあった。
この松山城ではロープウェイ/リフトで到着した場所が本丸ではなくて、そこからもう少し徒歩で登っていった場所が本丸である。だから少々体を動かしては登る必要がある場所。
こんな松山城近くにも俳句の街である松山市だけあって、このように俳句が彫られた記念碑と俳句ポストが設置されているのが見える。現代人はすっかり俳句などを読むという文化が少なくなっているので、古き良き文化を守り続ける松山であった。
ロープウェイ/リフト降り場から進んで行くと、段々と本丸の石垣が見えてくる。なお一般的には左側の階段を進むのであるが、右側には車用の道も造られているのが見える。なおこの車用道は一般には解放されておらず、業務的な車しか入れない場所となっている。
この松山城では1950年に、江戸時代に建てられてからその後の焼失を免れた建造物のうち、21棟が国の重要文化財に指定されている。第二次世界大戦中には空襲で11棟が焼失し、1949年にも3棟が焼失しているが、それでも21棟の江戸時代の建物が現存している松山城。明治時代に廃城となったものの、本丸周辺を公園として保存された為に建物の解体は最小限となった。
江戸時代からの現存する建物が21棟も残っている場所は、京都の伏見城に次いで全国2番目の規模を誇る松山城。なお岡山にある備中松山城も同じく現存する天守があるので、似たような名前で混同されやすいので備中松山城は「備中高梁城」とも呼ばれている。
明治維新が起こって明治時代に突入し、日本全国にあった何百という城が解体されて、軍事拠点や学校や病院などに置き換えられていった。明治時代初期には全国に溢れる程にあったお城は当時としては全く珍しいものでなかった為に、各地で解体される事になる。しかし今となっては日本全国の城の多数が解体されてしまった為に、このように現存している天守を残す城に希少価値が出ているのである。
松山城では江戸時代から現存する建物が多いだけにどうしてもそれらに目が行きガチだけど、お城で最も重要な物はそれら建物を支える石垣である。昔の城には欠かせないものが強固な石垣であり、その石垣の上に建物を造る為には強固な石垣が必須条件でもあった。
石垣について知識がないと、このような石垣は外から見えるように大きな石ばかりを上手く積み上げたようにしか見えない。しかしこのような石垣では外側部分には大きな石が積まれているけど、石垣内部には砂利や小さい石などで埋められている。石垣を維持するのに雨や地震などからの衝撃や排水などを上手く受け流す工夫などが、この石垣には込められているのだ。
まさに昔の日本人が造り出した、建築物の芸術品である石垣だ!
このような石垣を一見すると全国のお城でも同じように見えるけど、城マニアからするとそれぞれの城の石垣もその城を造った時代や造らせた大名で、それぞれの特徴が出てくるという。
まだまだそんなマニアのレベルには、程遠いです・・・
この松山城を造らせたのは下に銅像があった加藤嘉明であるが、”賤ヶ岳の七本槍”の一人でもあり秀吉のお気に入りだった加藤清正と似通ったイメージがある。だからか熊本城の石垣のような武者返しとも呼ばれるものに、近い雰囲気を感じる石垣でもある。
ここは本丸の石垣に近づいて来た訳だけど、肝心の天守閣はまだまだ先。そして昔の城は基本的に防衛機能が幾層にも施されていた建物なので、写真左側奥に小さく見えている天守閣まで辿り着くには、まだまだクネクネと曲がりくねる道と何個もの門を通過していく必要がある。
まず本丸へと向かう道で最初に対峙する建造物が、この石垣の上に見えている太鼓櫓である。この太鼓櫓は江戸時代から残っている建造物ではなくて、第二次世界大戦時に空襲によって焼失してしまった建物。今見られる太鼓櫓は1973年に復元されたものである。なお太鼓櫓とはその名前からも分かる通り、本丸の中でも見晴らしのいい場所に造られていて、敵が近寄ってくるのを確認すると太鼓を打ち鳴らして城内に知らせていた事からこの名前が付いている。
現代人にとっては城というとお殿様が住んでいた豪勢な建物だという印象を持ちやすいけども、それはあくまでも天下が徳川家によって統一された平和な江戸時代のイメージであって、それまでの戦国時代では常に隣国から攻め入られる事を恐れて、守りに特化した機能が盛り込まれた建造物の塊であった場所である。
松山城の本丸に到達
「本丸に到達!」と言いたい所だけど、正確には本丸のすぐ外側まで到達したという感じの方が正しいだろう。ここまでやって来るとやっと天守閣を肉眼でそれなりの大きさで見る事が出来るが、攻城戦をもしするとなるとここから天守閣まで辿り着くのが一番困難な戦いとなる所である。
昔のお城が防御力に秀でていた造りというのを感じれるのが、本丸へと進んで行く入口がこのように反対方向に切り替えされている所ではなかろうか。城に攻め込む軍団は一直線に本丸へと進軍したいのであるが、このように180度切り替えされた進路を進まされて、勢いが落ちてしまうのだ。
そして180度ターンして登っていくと最初に見える門が、こちらに説明板のある「戸無門」である。この「戸無門」は江戸時代に建造されたものとして現存しているもので、国の重要文化財に指定されている1つである。
そしてこの戸無門には門を取り付けていた鉋跡が見当たらない為、「戸無(となし)門」という名前からも分かるように扉が元から無かった門だったようだ。
普通に考えれば守りを最大限に固めているハズの城にある門が、このように扉が付いていなかったというのはちょっと疑問に感じる。勿論この扉が無い門には、それなりの秘策が当然込められている訳で、その理由は攻める側の気持ちを持ってこの門を通り抜けて先に進まないと理解できない。だからここではその扉が無い理由は、一旦パスして進んで行く。
そしてこの扉が無い「戸無門」を通過すると、目の前には松山市内を一望できる見晴らしが待ち受けている。攻め込んできた敵が戸無門を抜けてこの素晴らしい景観を目に入れると、思わず戦意が一時的に失われてしまう・・・のを予想していた訳ではないと思う。。
ただ単に高台にある城だったから、必然的にこのような一望できる景観となっていた訳で。。
松山城の戸無門の先から見える景観 動画
その戸無門を通り過ぎるとまたL字の通路となって進路を曲げる必要があり、ここでまた進軍してきた勢いが削られる。そしてそこにはまた別に大きな門が見えてくる。こちらは「筒井門」と呼ばれる櫓がセットになっている門が、待ち受けているのである。そしてこの筒井門の上にある櫓の建物には銃や弓を放つ穴が沢山空けられており、戸無門を勢いよく通り抜けてきた敵をここにおびき寄せて一気に集中砲火で叩く罠となっていたのである。
この松山城のように天守閣だけではなくて、その本丸そのままが現存しているお城だけあって、当時の城に秘められていた防御のノウハウがとても学べる松山城。もし松山城を見学する機会があれば、ただ「へぇ~~!」と言いながら何も考えずに進むのではなくて、NHK番組に出てくる城マニア教授のように”自分がこの城を攻略しに来た敵兵”の立場になって進むと、とても勉強になって一段と面白く城を見学できると思うのでオススメです!
こんな旅はまた次回に続きます!
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