宮崎県旅行記2020年-54
旅行期間:2020年10月18日~22日
(Visit the Matsuo-no-Maru area on the grounds of the Obi Castle to study the life of the leader of the Ito family.)
復元された飫肥城の城門!
宮崎県の南部に位置する日南市、そして江戸時代に存在していた飫肥城は今ではその城門などが復元されている。ただし明治時代になってからの廃城令によって城は廃棄されてしまっており、城門は復元されているけど本丸天守などは復元されておらず、城の雰囲気を楽しむだけの場所となっている。
飫肥城跡を訪問!
こちらは飫肥城周囲に広がる堀だけど、このように埋められてしまっているのが見える。堀も防御面ではとても重要なものであるけど、平穏な時代になってくると全く無駄なものになってしまう。
こちらの大手門は明治6年(1873年)に取り壊されてしまったが、城門脇の石垣はそのまま残されていた。その石垣からは「正徳3年(1731年)と記載されたの碑文」が発見されており、この石垣が構築された時代を表しているようだ。そして日南市の町興しを兼ねて、1978年にこの大手門と歴史記念館が再建された。なおこの城門は完全木造で釘は一切使わず、樹齢100年を超える飫肥杉が4本も使用されているという。
人気番組「出川哲朗の充電させてもらえませんか?:南国“宮崎”縦断SP」の2019年放映分で、この飫肥城も訪問しているようでした。この旅の回ではこの飫肥城がゴールとなっていて、無事ゴールに到着となっていましたね。
その大手門を抜けると江戸時代に造られた城だけあって、守りに特化した造りになっているのが見てわかる。このように城門を通過して真っ直ぐ進める訳ではなくてL字型の入口になっていて、その正面には銃眼を備えた土塀が備えられている。
この飫肥城跡は入場料は必要なくて、自由に立ち入る事が出来る。ただ「歴史資料館」や昔の建物を再現した「松尾の丸」は別途入場料が必要な施設となっている。
その城門を入ってすぐに造られている土塀の裏側に回ると、年代物の石垣が見える。苔が沢山生えているのが見えているけど、これだけでかなり昔に造られた事が分かる。
このように飫肥城跡の塀などは白くて綺麗だけど、これは昔からの物ではなくて、再建されたものだから綺麗な訳である。このような白い壁もまたこれから年代を重ねる事に手入れをその都度していかないと、だんだん白さを失って汚れてくるのである。
こういった物を再建すると、沢山の維持費も発生するのよ!
こういった場所にやって来る観光客の立場からすると何もない城跡よりも、このように一部でも再建されている城跡の方が見た目にも分かり易いし、城の雰囲気を楽しめるので再現するに越した事がない。しかしこのような城の復原には当時の技法を再現したりするのに、今どきの建物を造るのに比べて圧倒的に建築費用が高くつく。だからそういう事を考えると何でもかんでも復元する訳にもいかないのである。
「歴史資料館」の見学
城門を入ってすぐに見えてきた、こちらの建物は「歴史資料館」で大手門と共に1978年に造られたもの。なおこちらの建物に入るには、有料となっているので入りたい人は城下町の有料施設とセットになった共通券を購入して訪れた方がいいと思う。
そしてこの歴史資料館は、なんと写真撮影禁止だった・・・。こういった博物館などは個人所有物の肖像権や、今どきは3Dプリンターなどで模倣品がすぐに出回ったりするので、写真撮影禁止の所も少なくない。個人的には写真に残す事で記憶代わりにしているので、こういった写真撮影禁止の場所を見学した事など殆ど記憶に残っていないのである。。
建物内は写真撮影禁止になっているけど、その手前の入口のドアまでは撮影してもいいとの事でギリギリのラインまで抵抗して写真撮影する。その入口のドアまで九曜紋(十曜紋)になっているので、ここでも伊東家らしさが表れている。
写真撮影が出来なかったので歴史資料館の見学は、約10分程で終了。写真を撮れなかった為にこのブログを作っている、旅行から半年以上後だと何をここで見たかという記憶が殆ど残っていないのである。。
次に見学する「松尾の丸」は昭和54年(1979年)に、江戸時代初期の書院造御殿を再現したイメージで造られたもの。昭和54年というとボクと同い年なので、何だか親近感を感じる建物でもある。
この「松尾の丸」も入場料金が必要な建物となっている。ただ今回は別途共通入場券を購入していたので、ここも勿論そのセット券で入場する事が出来る。
というよりセット券なので、見ておかないと損するからね!
そんな松尾の丸まではこのような階段が控えている。ボクぐらいの年代からするとこのような階段を見ても何とも思わないけど、高齢の方々からすると絶壁のように見える階段かもしれない。。
「松尾の丸」の見学!
こちらの昔ながらの造りの建物が、その「松尾の丸」。見た目には江戸時代の建物に勿論見えるけど、この建物自体は1979年に造られたもので比較的新しい建物である。
入口脇にはこのような飫肥杉で造られた椅子が置かれており、この飫肥城を代表する物で食べ物を除くと、この飫肥杉が代表物である。今ではそれほど価値の無くなってしまった杉だけど、これからまた杉の価値が見直されて高い価値が付く時代が来るかもしれない。
そしてこの松尾の丸は土足禁止となっており、脱いだ靴を入れる靴箱も勿論飫肥杉で造られたものである。今どきは新しい下駄箱などが設置されている場所も多いけど、このように飫肥杉を使ったレトロな下駄箱というのもまた趣があって良い感じである。
現代人は忘れがちになっているかもしれないけど、大昔の人達はこのように木を大切に活用して今まで生きてきた。そして今の宮崎県に多く見られる飫肥杉は、先祖たちが後の世代の為に植林して育ててきた宝物である。
今の時代は木造のいい面よりも、低コストで簡単に造れる鉄筋コンクリート造りの建物が日本国内には圧倒的に増えてしまっている。なのでこの飫肥杉も昔に比べれば大幅に人類の需要が減ってしまっている。
そして飫肥杉の下駄箱に靴を閉まってから室内へと進んで行くと、まずは大きな伊東氏の九曜紋旗と共に鎧が出迎えてくれる。日本人からすると見慣れた鎧だけど、外国人観光客からすると珍しくて日本らしい置物で喜ぶのかもしれない。
こちらには伊東家の家紋についての説明と、この鎧を展示した時のエピソードが張られている。特にこの鎧を展示した時のエピソード内容を見てみると、市販の鎧立てを買ってきて鎧を置いてみた所、昔の人の体格が今の人よりも小さかった為に鎧が上手く入らなかったという。
こんなエピソードを張ってあるのも飫肥らしいね!
でもそんなエピソードが張られているからこそ、このように見るだけの鎧も現代人の骨格より昔の人達が小さかったという事が理解できる訳だ。このような江戸時代の鎧なんて着る機会が無いだけに、そのサイズ感も普段見るだけだと全く意識すらしないのである。
そういう意味では良い勉強となるエピソードです!
このような鎧も約200~300年の時を経ると、紐部分が劣化して千切れたりしてしまい、補修されているのが意外と多い。だけどこんな昔の鎧などに関わった事のない現代人からすると、この鎧そのものが昔の物のままだと思い込みやすい。
この「松尾の丸」にはこのように至る所に説明書きが展示されていて、ここに勉強目的でやって来ている人に対しては優しい場所。なかなかこういった資料館のような場所で解説してもらう機会なんて無いので、こういった情報が張られているだけでより興味深く見学が行える。
この松尾の丸を見学した時もあまり他の見学客を見かけなかった。飫肥城自体がそんなに観光客が沢山訪れる場所でもないし、無料ではなく有料見学施設なだけに訪問客が少ないのも仕方ないのかもしれない。
この建物は入口側から見た時は完全に江戸時代の御殿を再現した建物のように見えたけど、このように廊下部分は障子ではなくてガラス戸となっていた。
そして進んで行くと、部屋の中に木を彫って造った船の置物が見えてくる。こちらの船はかつて飫肥藩が参勤交代の際に、大阪から京都の伏見まで淀川を遡って移動する為に使われていた「川御座船」の復元ミニチュアだそうだ。
江戸時代に幕府が全国の外様大名に課していた参勤交代は、とても大金が掛かったシステムだった。というのも今の時代とは違って、ほぼ陸路を何十人~200人規模で練り歩いて移動したからである。特に九州の大名は本州の大名に比べると江戸が遠かったので、その負担を少しでも減らす為にこのような船が使われていたようだ。
江戸時代が長く続いたのは徳川家康が築いた江戸幕府の強大な力というよりも、それをバックにして全国の大名に課した過酷な定例行事の影響ではないかと思う。江戸幕府が課した参勤交代だけでも毎年1回で50億円前後の費用が掛かったとも言われる程で、勿論今とは違って農作物位しか特産品の無かった時代なのでかなりの負担だった。
その過酷なシステムで全国の大名の殆どが膨大な借金を抱えるようになってしまうが、その中でも優秀な大名は農作物に頼るのではなくて、もっとお金になる特産物を開発する事になる。そして優秀な大名が素晴らしい特産品を開発し、利益を上げて江戸幕府に対抗する勢力となっていくのである。
そう考えると、皮肉にも投げた刀は返ってくるようです!
この松尾の丸の建物は雨樋がなくて、雨が降ると左のイラストにもあるように直接屋根から地面に垂れ落ちていた。これを「雨垂れ拍子」といって、昔の日本家屋ではこれが普通の造りで、その雨が垂れる音を楽しんでいたとも言われているそうだ。
こちらには「松尾の丸」という建物の名前の由来が説明されている。この内容によると昔はこの付近には杉ではなくて松の方が多かったので、「松尾」や「松岡」と呼ばれる事が多かったという。ただそんな松の木は昭和前半にこの近くに造られた製紙工場から発生した害虫によって、この辺りに植わっていた松の木が枯れてしまって今では見る事が出来ないという。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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