東北旅行記2020年冬-⑨:青森編
旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Shayokan, the house in Aomori where Osamu Dazai was born, was the biggest mansion in the village. [Tohoku Travelogue 9])
ここにも中村晋也さんの像が
ここは青森県でも左上の方に延びる津軽半島の真ん中付近にある、五所川原市金木町に造られている太宰治の生家でもあり、今は国の重要文化財にも指定されている建物「斜陽館」。ここは明治40年(1907年)に造られた建物が現存しており、その当時のままにほぼ保存されている。
「斜陽館」の見学!
この家は太宰治が生まれる数年前に造られた建物で、1950年に津島家の手を離れて旅館業を営む人が入手し、そこから旅館「斜陽館」として人気を博する。なお太宰治は11人兄弟の10番目として生まれて、六男だったので家業を継ぐ事はなく、大学で東京へ出て作家を目指した。
そして東京へ出た際に気に入っていた芸者を連れて行って、身内が反対するのを押し切って強引に結婚した。そしてその際に実家の津島家から除籍となったので、この家は兄が継ぎ、太宰治の所有物だった訳でもないようだ。そして太宰治が亡くなった1948年から2年後の1950年に、津島家はこの家を売却する事になる。
この1階だけでも11部屋あるというこの家は、かなりの広さである。ただ子供11人と住むからこれだけ大きかったというよりは、父親がここで個人の銀行業を営んでおり、それで多くの小作人がこの屋敷を出入りしていたからのようだ。
こちらには明治~大正~昭和初期に流行っていた「二重廻しのコート」が掛けられていた。この二重廻しのコートは当時の流行りだったので太宰治も愛用していたらしいが、こちらは勿論太宰治が使用していた物ではない。
部屋の奥には「文庫蔵」という、米を管理する蔵とは違い、帳簿などを保管する蔵も造られていて、今では展示室となっている。そこには太宰治が愛用していたというマントもあったが、ただ残念ながらその文庫蔵は写真撮影禁止となっている。
その代わりに文庫蔵の入口脇に置かれていた、こちらの太宰治の小さな像を写真に撮った。歴史的な人物の等身大に近い像はよく見るけど、この太宰治の像は控えめに造られたからか、結構小さかった。どうやらこの像は2009年に太宰治生誕100年を記念して造られた銅像の原型だったようだ。
なお、この太宰治の像はここから北側に少し行った所にある「芦屋公園」という所に設置されている。ただこの時はそんな情報は全く知らなかったので、この後に多分芦屋公園のすぐ脇を通過したのだが、太宰治の銅像が置かれている事には全然気付かなかった。。
予習不足だから、見逃したんだべ!
そしてこの太宰治の像の設計者は、あの中村晋也さん。中村晋也さんは御年90歳を超えても生涯現役を続ける彫刻家で、日本中の色んな場所でその作品を見る事が出来る。大阪市内では豊臣秀吉や五代友厚の像などを見る事が出来て、現在住んでいる鹿児島では記念館も造られている。
2021年末にはその鹿児島の中村晋也美術館に行きましたね!
この斜陽館の1階の部屋の中でも一番小さく見える、こちらの「小間」と呼ばれる部屋で1909年6月19日に後に太宰治と名乗る事になる「津島 修治」が生まれたそうだ。この斜陽館では歴史的な建造物でありながら、内部は自由に立ち入り可能となっている(勿論、土足厳禁)。
その小間の隣には「小座敷」という部屋があり、この家で宴が行われる際にはこの部屋に隣接する「仏間」「前座敷」「茶の間」と4つの部屋を襖を外して使い、その4部屋合わせて63畳の大広間に変身していたようだ。
今の若い世代は「〇畳」など言っても通じないゾ!
そして隣の「仏間」には、このように豪華に金色が目立つ仏壇が置かれている。この仏壇はこの建物が造られる時に合わせて発注された物で、その当時で400円の価値があったという。なお、この当時の400円は今の金銭価値に換算すると、およそ2500万円前後になるという。。
2500万円もする仏壇なんて殆ど目にする機会がないけど、単に金キラなだけではなくて、細かく作り込まれている作品だからそれだけの価値があるのだろう。ちなみにこの仏壇は1948年に裏の離れの家に越した太宰治の兄が移動させて、その後の旅館が営まれている時代にはここには置かれていなかった。しかし後にここが記念館となった後に津島家より寄贈されて、2004年から一般公開されたそうだ。
しかしこのような昔の家らしく、仏壇があるのが普通だった日本。しかし今では仏壇を置く家も少なくなり、若い世代にとってはお金が掛って管理も必要な仏壇をわざわざ自分の家に置きたいと思う人も大きく減っているようだ。
こちらには精巧なデザインで作られている大皿が見える。このような大皿もそれなりのお値段が付けられている作品だろうと思うが、綺麗な装飾が施されたお皿を飾るという行為が昔の贅沢の1つでもあったのかもしれない。
普通の家だったらこのような部屋だけで終わってしまうのだが、この斜陽館は豪邸だけあって部屋の奥にも通路があり、その先には広い庭まである。ただ昔はこの家の周りに農地が広がっていた程に大地主だったそうだが、今ではこの家だけの敷地になっている。
こちらは先程仏間から見えていた北側の廊下。床の木は光沢を発していて、昔から綺麗にワックスがけをされてきたかのような輝きにも見える。ただ洋風建築物っぽい建物だけど、廊下のサイズなどは日本人らしい狭さになっているのが、何とも日本らしさを感じたポイントでもあった。
そしてその通路を進んで家の入口の方へと進んで行くと、また別の部屋が見えてくる。1階だけで11部屋もあるという大豪邸なので、部屋だらけの家にも思えてしまう。しかし11兄弟の住んでいた家で、更には銀行業などの商売をこの家でもしていたので、これぐらいの大きさの家でも毎日が慌ただしかったのかもしれない。
この部屋は「和室」となっていて、この奥にある銀行業の総合事務所となっていた「店」と呼ばれる部屋の隣に造られている。
そしてその先にある「店」という、銀行業の総合事務所になっていた部屋には近くに住む300人ほどの小作人が銀行の帳簿係と相談や打ち合わせをしてお金を借りたりしていた場所のようだ。小作人によっては目先に必要な資金の為に”秋払い”という、秋の収穫時期を見越しての先払いシステムもあったようだ。ただこのような金の貸し借りにはドロドロした人間性も垣間見られて、太宰治はその様子を見て嫌気が差していたとも言われている。
ただ金融業というのもお金を稼ぐ商売の1つだが、古来のヨーロッパでも金貸しという職業は卑しい商売として、キリスト教では禁じられていた職業でもあった。だから虐げられていたユダヤ人がその嫌われ役の金融業を引き受け、長年に渡って金貸しを行い続けてきたのである。日本でも同様に金貸しは相手の足元を見て商売していると思われている為に、その厳しさを知らない子供などからしたら見たくない光景だったのかもしれない。
金の貸し借りでは、情けを見せたら負けだべ!
その店にはこのような生地が剥げてしまっている椅子も置かれていた。どれだけの人がここに座ればここまで剥げるのかは分からないけど、文字での説明よりもこのような椅子を置いているだけで、充分にここの部屋が交渉の場所として使われていた面影を感じれる一品であった。
その部屋にはこのようなレトロな愛知時計製造製の時計も見られる。この愛知時計製造という会社は今でも存続しているが、1993年に時計事業からは撤退して、その長年時計を造ってきたノウハウを生かして歯車技術を応用した精密計測機器類を製造する会社となっているようだ。
そしてその「店」の入口前の「前座敷」には、このような大きな衝立が置かれている。今の家庭ではまず見られなくなった衝立だけど、昔の日本家屋は隙間風が入ってきたりを防ぐ為に、このような衝立などが家に置かれていたそうだ。
そしてこの家は2階建となっているので、これからその2階部分も見学してみる。ただ和風の1階部分とは打って変わり、2階部分へ繋がる階段から一気に洋風建築物らしい光景に変化している様子が見られる。
この建物を設計した堀江佐吉は、多くの洋風建築物を手掛けているので、このような造りはお手の物だったのかもしれない。ただそれにしても畳の日本的な家っぽい1階とは、全然風景が変わる2階部分。
江戸時代とは違ってこの家が造られた明治時代には西洋の文化が大きく日本国内に流入してきて、このような建造物にも西洋式のスタイルが大幅に用いられる事になる。ただ一般家庭でこのような西洋式の建物に住める事はまずなかったので、特に目立つ家だっただろう。
斜陽館2階からの眺め! 動画
2階の階段を登って正面にあった部屋は「洋室」で、実際に暮らす部屋というよりは、要人を持て成す部屋のような豪華な場所になっている。天井裏にはこのように漆喰で塗り尽くされて、シャンデリアを吊るしていたりと、津軽には似合わないような雰囲気の部屋だった事だろう。
津軽を馬鹿にしてはいかんべ!(怒)
こちらは2階の窓から周辺を覗いてみた景色だけど、この窓ガラスも今どきの窓ガラスというよりも、ガラスに歪みがあって昔らしい個性のある窓ガラスになっていたのである。
こんな旅はまた次回に続きます!
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