東北旅行記2020年冬-⑩:青森編
旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(The second floor of the Shayokan in Aomori, where Osamu Dazai was born, was also luxurious [Tohoku Travelogue 10])
和洋折衷の豪邸!
ここは昭和前半時代に生きた文豪:太宰治の生家だった青森県五所川原市の「斜陽館」という、明治40年に建てられた建物が今では記念館として保存されています。太宰治については全然知識が無かっただけに、今回の訪問で少しぐらいは太宰治について勉強しようと意気込む。
太宰治の生家:斜陽館にて
この記念館「斜陽館」があるのは、青森県五所川原市金木町という津軽半島の真ん中付近の場所だが、この太宰治が生まれた津島家はこの辺りでも特に名家として大きな家が造られた。彼の父親が個人銀行を経営していたので、建物内部には当時の最先端を走るような和洋折衷な内装になっている部屋も見られる。
日本家屋では屋根裏にお洒落をするという文化はなかったようだが、西洋式建造物には天井にも装飾を施し、花などのデザインが散りばめられているのが見える。高い天井に大きな空間でより豪華に見せる仕組みだったのかもしれない。
ここは「洋間」となっていて、奥に見えているソファーで中学生時代の太宰治が寝っ転がってサイダーなどを飲んでいたという。彼の小説には子供の頃の話も色々と記載されているようなので、今までは彼の作品を全く読んだ事がないだけに、今後彼の作品にも目を通す事が必要に思えてくる。
この太宰治が生まれたのは津島家という、この地方でも大きな家だった。金持ちの子供に生まれると小さい頃から良い事尽くしだろうと貧乏人は思ってしまうけど、どんな境遇で生まれ育っても劣等感というのは生まれてしまう。金持ちの家でも兄弟で10人目の子供だった太宰治は、そこまで期待される程ではなかったので、精神が少し捻じれた感じになってしまったのかもしれない。
こちらは2階部分の廊下だけど、旅館として使われていた事もあってか、100年以上も前に造られた建物には見えない程に綺麗な内装になっている。そしてその旅館が廃業してから記念館として開業する前にも改修工事が行われているので、特に汚れたり壊れたままになっている箇所は目に付かなかった。
こちらの部屋は太宰治の母親である津島タネの部屋で、「書斎」とも呼ばれていた場所。ただ母親のプライベートルームという訳ではなく、子供の遊び部屋になっていたそうだ。正面に見える襖には漢詩が張られているのが見えるけど、この一番右の中に「斜陽」という言葉があり、太宰治は昔からこの部屋で遊んでいる時代からその文字と馴染んでいた可能性があるようだ。
2階の北東にあったこちらのあまり大きくない部屋は「主人室」と呼ばれた、太宰治の父親である津島源右衛門の部屋だった場所。津島源右衛門は1912年に衆議院議員に当選してからは東京生活となって、この家に帰って来るのが1~2ヵ月に1回となる。また2階には豪勢な和洋折衷の部屋を造りながらも、主人がプライベートな時間を過ごす場所が和風だったのが、何とも日本人らしい雰囲気が感じられる。
1階は11部屋でこの2階にも8部屋もある豪邸だけど、先程の洋風の部屋以外にも金襖の豪華な部屋も見えている。町の有力者から国政に携わる衆議院議員にまでなると、色んな人を迎える必要があったからか、豪華な部屋があるのだろう。
こちら2階部分の廊下も床も綺麗にワックスがけされているからか、ツヤツヤに輝いているのが見える。昔の津島家では子供たちがこの廊下を雑巾がけしていたのかもしれないけど、現代の子供はそんな足腰を鍛えて生活していないので、満足に床の雑巾がけすらできないかもしれない。
昔の風習は自然と体が鍛えられてたゾ!
さっき奥に見えていた金襖があるのが、こちらの「金襖の日本間」という北側にある部屋。説明板によると、津島源右衛門が議員となった為に遠方から訪れた客人などを迎える貴賓室に使われていたそうだ。このような金襖は昔の大名が住んでいた御殿などでしか見た記憶がないけど、人を持て成すには”金”という景色が本当に必要だったのだろうかと思うが。
人を持て成すよりは、自分を誇示して見せる為の金だべ!
ただそんな金の襖や銀の襖も小さな子供達が多く居た家では、毎日穴が空いていたのじゃないかと想像してしまう。子供は注意しても活発なので簡単に襖や障子を破ってしまうし、11人兄弟の子供が居た時代は常に穴だらけの金の襖だったかもしれない。。
このような豪邸だが、現代人からするとこの建物自体にトイレや手洗い場などが無いので、少し不便に感じるかもしれない。現代人のある程度までの若い世代は生まれた時から家にはトイレや風呂などがあるのが当たり前になっているかもしれないけど、昔の家はトイレなどは建物内には無くて、別に造られていたのである。
こちらの部屋はその「金襖の日本間」の西隣の部屋で、金ではなく「銀襖の日本間」という感じの部屋だった。こちらの部屋は銀一色の襖ではなく、それぞれに風景画が描かれているのが見える。
子供が11人も居る家で、このような襖を破らずに維持できたのだろうか?と思ってしまう。もしかしたら普段はこの襖は外されて保管してて、客人が来る直前にここにこの襖を設置していたのかもしれないな。
こちらは西側の廊下で、こちらの床もツヤツヤになっているのが分かる。昔は掃除機が無かったのでこのような廊下を掃除するのには、ひたすら雑巾がけをしていた事だろう。
そして2階の西側には和室が2部屋並んでおり、こちらは北西側の和室の景色。ここは主に訪問してきた議員などの御付きの人や一般客などを通した場所とされており、また襖には「真野 暁亭(まの ぎょうてい)」という明治時代に活躍した浮世絵画家の作品が描かれている。
こちらの襖に書かれているのが、その真野暁亭という浮世絵画家の作品である「四季図襖絵」。日本らしく四季によって移り変わる景色が、この襖4枚に描かれており、この部屋にいるだけで日本の四季を楽しめるというコンセプトだった事だろう。
そしてこちら側の襖にも四季が描かれており、 合計8枚の「四季図襖絵」がここ斜陽館で保存されている。地元の有力者の家だけに、このような高名な浮世絵画家による襖がより部屋の格式を上げていた事だろう。
ただ襖絵の上の方に、モヤモヤとした雲っぽいような物も見える。子供が沢山居た家で旅館としても使われていた建物なので、その長い年月の中で大事な作品がちょっと汚れてしまったのかもしれない。
こちらはその和室の南側に隣接している部屋で、この津島家に仕える行儀見習いが茶道や華道などを勉強した部屋だそうだ。明治時代にはある程度の家柄の娘は、嫁入り前に礼儀作法などを学ぶ為に良家の家庭に住み込み、行儀作法や料理などを学んでいたそうだ。
そして2階も堪能して階段を降りていると、1階と2階の間にこちらの別の階段を見つける。この先には津島家の離れに繋がる通路があって、かつては太宰治の曾祖母が隠居していた部屋だったという。そんな部屋は今では記念館の事務所となっており、これより先には入る事は出来ないようになっている。
こちらがその階段で、大きな建物だけど階段はこの1箇所にしか造られていない。神戸の異人街の建物だったら明治時代にこのような造りの建物があっただろうが、本州でも最北に位置する青森の津軽半島に、このような和洋折衷の豪華な家があるとは思わなかった。
その階段の手すりにはこのようなマークも描かれていて、日本家屋っぽくない雰囲気が溢れている。しかし金持ちの息子というだけで学校ではイジメられる事もあるので、このようなお金持ちの子供に生まれるという事が必ずしも幸せだったとは限らない事だろう。
今では建物内には暖房が設置されていて冬場でも暖かく見学できるけど、昔は勿論そのような暖房器具など無くて、このような囲炉で暖を取るレベルだったのだろう。そう思うと昔の人達は寒さに慣れていたというか、慣れざるを得なかった時代だったのだろう。
こちらのレトロな時計は、服部金太郎が創業した服部時計店(現在のセイコー)からスピンオフされた精工舎の時計。『大きな古時計』の歌にもあるように昔のこのような柱時計は、壊れても修理が出来た為におじいちゃんよりも長生きしていたようだ。
今は壊れると買い替える奴が多いけど、昔は何でも直してたんだべ!
この家が造られた明治時代には冷蔵庫はまだ国内に持ち込まれていなかったので、保存食糧などはこのような床下収納などをしていたのだろう。ただ子供達が多い家だと、このような床下収納庫もかくれんぼの遊び場所となっていただろうが。。
そして1階にあった黒い二重回しのマントで、記念撮影を行ってみた。なお、こちらの黒マントは記念写真用に用意されていた物で、太宰治が実際に使用していたマントではない。このようなマントは初めて着用したけど、いつも着ているジャンパーは上半身部分しかカバーしてくれないけど、このマントだと足の部分まであるので雪国ではこのような丈が長い防寒具の方が良さそうだった。
青森に来る前は12月だと雪が積もっている景色が普通に見られると思っていたけど、意外とまだそんなに雪が積もっている訳でもなかった。このように太宰治の生家である斜陽館の庭にも、残念ながら楽しみにしていた雪が見られなかったのである。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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