高知県旅行記2021年3月-35
旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)
龍馬フィギュア!
前回に引き続き、高知市の太平洋側に面する桂浜を一望できる高台に造られている「坂本龍馬記念館」の見学は続きます。今回からさっき見てきた新館ではなく、1991年に建てられた古い方の本館側を見ていきます。
坂本龍馬記念館:本館の見学!
この古い方の本館は新館と比べて、実際に龍馬に関する史料の展示が少なくて、その代わりにこのような説明パネルのブースが多く用意されている。この坂本龍馬記念館を設立した際には龍馬に関する史料が少なかったので、その代わりにこのような説明だけのブースを設置したのだろうか?!
人と言うもハ 短気して
めったニ死ぬものでなし
又 人お ころすものでなし
by 坂本龍馬
こちらのブースでは、龍馬が残したとされる名言が壁一面に記されている。時代の風雲児として幕末を駆け巡った龍馬だけに、色んな見聞を体験して、そのエッセイが籠められた言葉となっている。
龍馬は今までの江戸時代の固定観念から脱却し、進歩的な考えをどんどん吸収していき、江戸幕府を転覆させる道筋を作った。その龍馬の考え方のルーツは、江戸遊学をして多くの賢人などと直接触れ合った事から来ているようだ。土佐国内に留まっていれば、龍馬も全く違った人生を送っていた事だろう。
日本を今一度 せんたくいたし申候
事ニいたすべくとの神願ニて候
by 坂本龍馬
こちらは龍馬の有名な名言「日本の洗濯」で、1863年に姉:坂本乙女宛に書かれた書状の中にあった文章。
こちらの右側に掲げられている名言には、「きん○ま」の文字も見られる。このような公的な資料館で平気で「きん○ま」が使われている所も、龍馬らしいのかもしれない。
恐らく資料館側も悩んだ末に、龍馬らしさを表現する為に選んだのかもしれんぜよ!
土佐の裕福な家に生まれた男が、それまで約250年間も続いてきた江戸幕府を倒壊させるキッカケにまで成長したのは、”土佐藩からの脱藩”と”勝海舟との出会い”が大きく影響したのだろう。
そして坂本龍馬記念館を約30分見学してきて、そろそろ飽きが来ていたオカン。この本館でこちらの坂本龍馬の等身大フィギュアを発見すると、何も言わなくても勝手に「記念写真を撮ってよ!」というポーズをしていた。
まだ見学続けるんかいな・・・?!
この龍馬の等身大フィギュアを製作したのは、大阪府門真市に本社を置くフィギュアなどの模型製作会社「株式会社 海洋堂」である。フィギュア模型メーカーとして、世界的にも有名な会社である。
龍馬像というと、色んな場所にブロンズ像などは置かれていたけど、こちらは綺麗に着色もされているので、今後はこのようなフィギュア像が増えてくる可能性もある。昔は過去の偉人の業績を称える為に台の上に設置されていて一緒に記念撮影出来なかったけど、最近はスマホで簡単に写真を撮れる時代なので、このような記念写真向きのフィギュア像が喜ばれる事だろう。
コロナ禍になってから国内を巡って、その度に江戸時代前後の歴史を勉強してきたボクだけど、正直言って「坂本龍馬」という人物がどういった事をしてきた人なのかを殆ど理解する機会がなかった。幕末に討幕勢力の中心的存在だった鹿児島に行った時も、薩摩藩の偉人は紹介されていたけど、龍馬の名前は全然見る事が出来なかったからだ。
薩摩藩は龍馬を利用しただけぜよ!
現代に生まれた日本人からは想像もつかないけど、昔の日本という国は階級社会だった。古代インドから続くカースト制度のように生まれた家の環境によって、将来の生き方が限定されていたのである。下剋上の世の中となった戦国時代には群雄割拠で庶民生まれの秀吉が天下を統一するまで大出世したが、平穏な時代となった江戸時代にはそのような大出世はほぼ不可能になってしまった。
しかし平穏な江戸時代には資本主義も導入されて、一介の庶民だった商家が商売で稼いで、”郷士株”を買い取る事もあったという。龍馬の先祖も一介の庶民であったが、商売で大成功して、”郷士株”を購入して郷士の仲間入りをしたのである。
脱藩ブースにて
そしてこの本館には、このような個室っぽいブースが設置されている。狭いブースの中には、壁一面に龍馬に関連する事柄が記載されており、そのインパクトを見学客に与える為にこのようなブースを設置したと勝手に推測。。
龍馬が激動の時代に引きずり込まれていくキッカケともなったのが、1853年に起きた”黒船来航”だったのだろう。それまでも度々外国船が日本に対して通商を求めてきていたが、江戸幕府は鎖国を建前に”のらりくらり”とその交渉を交わしてきた。しかし日本側のやり方と文化や歴史を事前に詳しく研究して対策を練っていたペリー提督が、正面切って厳しい姿勢で突っ込んできた時には、日本側にそれを跳ねのける力など無い事が証明されてしまう。
江戸幕府が誕生してから早200年以上が経過していた江戸時代後期には、もう江戸幕府の絶対的な支配力は無くなりかけていた。参勤交代や大名普請などによって散財させられて、全国の300近い藩の多くが苦しい藩政を送っていた。そんな全国から江戸幕府への不満が徐々に蓄積していき、海外情勢の情報なども入ってくるようになって、進んで行く西洋文化を知った人々が日本を変えようと立ち上がる時期だったのだろう。
ただ江戸幕府が健全な政策を行い続けていれば大きな問題は起きなかったのだろうが、長期政権の帝国というのは世襲制などによって、組織が腐敗して衰退していくのは過去の例を見れば明らかな事実である。しかしながら、江戸幕府では徳川家康を神様と崇めて、その血筋が権力を握り続けていくのであった。
しかし世襲制というのも長く平穏な時代が続くと、生まれ持った特権階級の人間が努力せずに良い暮らしが出来たので、自分に都合の良い政策ばかりを行い、それで平民が苦しもうとも気にしなくなっていく。ただ江戸時代初期まではそれでも反乱は一揆程度であったが、江戸時代中期になると全国の藩で「藩校」が開設されるようになっていく。
その全国の藩に「藩校」が次々と創設されていき、一気に学問ブームが訪れる事になる。この藩校では藩士などの限られた上級階級の子供しか学べなかった所も多かったが、そこで教育を受けた人物達がそれぞれに私塾を開いて、学んだ知識が枝葉のように広がっていった。
そして学問を授けられた新世代達は、それまでの世代のように”生まれ育った環境の中で生きる道”以外の選択肢がある事に気付いていく。更には産業革命が起こったヨーロッパなどの書物なども流入してきて、それを研究していた蘭学者などにより、日本が諸外国勢から遅れを取っている事にも気付いていく。
このように徐々に腐敗していく幕府と共に、その場所に新しく根付いてきた学問教育を受けて、進歩的な考えを持つ新世代がブツかる時代が江戸時代後期だった。この地球上では”栄枯盛衰(えいこせいすい)”という絶対的な法則があり、その法則の前では植物も動物も人間も抗うことができないのである。
そうして江戸幕府に陰りが見えかけてきた江戸時代後半になって、交わし続けていた海外勢からの国内侵入を許してしまう。この時に交わした諸外国勢との通商条約により一気に日本は開国し、欧米の武器商人などから最新鋭の武器が輸入されてくる事に繋がる。
鎖国状態ではありながらも江戸幕府はオランダ経由で、海外情勢の情報は常に得ていた。大航海時代以降に東アジア地方に侵略してきて、植民地を拡げているヨーロッパ勢の中でも力を付けてきた大英帝国が、中国を支配する為に「アヘン戦争」を仕掛けていた。
アヘン戦争後は、日本をドコが奪うのかが注目されとったぜよ!
日本を狙っているのは大英帝国だけではなく、シベリア半島を制覇して蝦夷地にも手を伸ばして来たロシア帝国、そして捕鯨ブームに乗って太平洋での補給地として触手を伸ばしていたアメリカ合衆国が顔を揃えていた。ロシア帝国も度々日本に軍艦を送り込み開国を迫ったが、日本の”のらりくらり作戦”にかかって侵略できずに終わっていた。
そんな江戸時代後半に、ベテラン提督だったペリーが日本遠征を命ぜられる。ペリーがその日本遠征時に書き残した航海日誌が『ペリー提督日本遠征記』として後に発行されたが、その本を読むとペリーが平安時代頃からの日本の歴史を詳しく調べていて、行った事も見た事もない日本人の特徴などもしらみつぶしに調査済みだったのである。
この遠征記を読むと、ペリーの前では日本は裸状態にしか思えんぜよ!
そしてアメリカ合衆国の思惑通りに日本を開国させて、いち早く通商条約を結ぶ事に成功する。すると江戸幕府はもう鎖国にはしがみ付けないので、防衛の為にオランダに蒸気軍艦船を建造させる。この時に発注したのが「咸臨丸(かんりんまる)」で、勝海舟が操縦して”アメリカ本土に渡った日本初の軍艦”ともなるのである。
勝海舟が操縦した「咸臨丸」は、聞いた事ある名前や!
しかし歴史というものは過去を振り返って見てみると面白いもので、この日本を開国させた時のアメリカは順調だったが、1861年に南北戦争が勃発して、世界に出ていくハズだったのが自国内に釘付けとなってしまった。もし、この南北戦争がもっと早く始まっていれば、ペリー提督が日本に来る事も無かったのかもしれない。
歴史に「もし」は無しぜよ!
そして開国に踏み切った日本に大きな風が通り抜けていき、それまで順調に育ちだしてきた小さな芽が一気に各地で大きく花開いていくのであった。龍馬は旧形態のしがらみが続く土佐藩を脱藩し、自分の理想を形に変えるべく行動を始めた。そして勝海舟という人物に出会い、当初は彼を返答次第では斬り捨てるつもりだったとされているが、そのような出会いが運命の出会いとなるのである。
第一印象が悪い出会い程、逆にその後に”いい付き合い”になる事が意外と多いぜよ!
優れた人物と関係を持つ事のメリットは、その人物が持つ”更に他の優れた人々”とのコネクションを持てる事である。優れた人物との出会いで、次々と進歩的で行動力のある人物と知り合いになり、その力を借りて日本を大きく動かしていく原動力になるのである。
こちらは『薩長同盟』の小部屋みたいなブースで、一時は敵対した薩摩藩と長州藩が手を組む事になった経緯が紹介されている。薩摩藩は薩摩藩11代藩主だった「島津 斉彬(しまづ なりあきら)」の意向を引き継ぎ、公武合体を目指して動いていくが、京で勢力を増していく幕府の意向に対抗する長州藩が目障りになっていく。
そして1863年8月18日に薩摩藩は会津藩と協力して、”八月十八日の政変”と呼ばれた長州藩の勢力を京から追放する事件を起こす。するとその翌年に長州藩は京に出兵してきて、”蛤御門の変(禁門の変とも)”と呼ばれる戦が起きるも、長州藩は薩摩藩に撃退されてしまう。
そして京に攻め込んだ長州藩は”朝敵”と見なされて、幕府が中心となって「長州征討」が行われる事になる。周りが敵だらけになって追い詰められたように見えた長州藩であったが、その影で海援隊長:坂本龍馬と陸援隊長:中岡慎太郎が暗躍して、敵対していたはずの薩摩藩と長州藩が同盟を結ぶ運びになるのであった。
「昨日の敵は今日の友」ってやつぜよ!
こんな旅はまた次回に続きます!
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