信州松本旅行記2022年3月-8
旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)
木材の素晴らしさ!
長野県松本市内にある、江戸時代から現存する天守の1つで国宝にも指定されている「松本城大天守」。
そんな歴史ある建造物内に足を踏み入れる事が出来る喜びと幸せを体感しつつ、建物内の見学は続きます。
松本城の天守閣内を見学!
江戸時代から現存する天守の”建物内アルアル話”として、どの城でも出てくるのがこのような急傾斜の階段である。
天守という建造物は藩主が生活したり藩政を行う建物ではなく、万が一敵が攻め込んできた際に逃げ込む砦という建物だったので、建物内には敵が侵入しにくいように角度がキツい階段が設置されていたのだ。
この松本城大天守は五層六階もの大きな天守なので、角度のキツイ階段を5階も登って行かないといけない。
ただ現代では登り易いように階段脇に手摺が設置されているので、大昔に比べればそれでもまだ登り易い階段となっているが。。
2階には個人で集めたコレクションが寄付された品々が展示されていたけど、それ以外の階には特に展示品などがなく、またコロナ禍という事もあって順路が決められていて、自由に室内を動き回る事が出来なかった。
その為に順路案内に沿って、順番に進んで最上階を目指していく。
江戸時代から現存する天守では、昔の木材などが使われているのを眺めるのが楽しいポイントでもあるが、この松本城大天守の建物は、昭和30年頃に『昭和の大修理』として解体大修理が行われており、このような木材も劣化していた物は新しい木材に取り替えられているので、どれが昔からの木材かまでは専門家でないと見分けがつかないが。。
そして2階の見学には時間が掛かったけど、特に展示品の無かった3~5階へはあっという間に到達した。
この5階は大天守が砦として使われた際に、家老などの重役が作戦会議を行う部屋として造られているようだ。しかし、松本城は戦火に巻き込まれる事が無かったので、重役の作戦会議が行われる事は無かったのかもしれない。
この松本城がそびえていた江戸時代には、松本城天守閣よりも高い建造物が無かった事だろうが、今ではこのように同等くらいの高い建物も存在している景色が見られる。
なお、近年には松本城を世界遺産にしようという運動が起きており、その為に松本城近くの松本市内に高層マンションなどの建造を規制する法案が導入された。
建造物の高さを規制すると、その手前に駆け込み需要が出来て逆に大きな建物が造られたりするんだが・・・
最上階6階に到達!
そして急かされる様に階段を次々に登っていくと、最上階の6階に到着する。天守閣の最上階は下の階に比べても小さい空間となっていて、元々は物見台から発展した建造物という名残りを感じる光景でもある。
そして松本城の大天守最上階フロアは、このようにシンプルな空間ともなっていて、特に何かしらの展示品も置かれていなくて、透明感のある場所ともなっている。
また部屋の広さは階段部分を除くと、約16畳の広さになっているようだ。
こちらは最上階から、松本市内の北側を眺めた景色。右側中央に見えている大き目の建物は、かつて明治時代まで二ノ丸御殿が建っていた場所に造られた松本裁判所が移転し、三の丸跡に移転した「長野地方裁判所:松本支部」となっている。
そして最上階には、こちらの昭和27年(1952年)に現在の文化財保護法で再度”国宝”に指定された際の『国宝指定書』(写し)が飾られているのが見える。
複合連結式天守となっている松本城天守では、大天守に付随する「乾小天守」「渡櫓」「辰巳附櫓」「月見櫓」を合わせた五棟が国宝に指定されている。
その脇にあったのは「天守櫓拝借懇願書」と「建言書」(共に写し)で、明治時代に入って取り壊される予定だった大天守を守る為に活動してくれた人々が提出した書類となっている。
明治5年に売却されてしまった大天守の取壊し中止を訴え、そして大天守内で博覧会を5回開催して、その利益で大天守を買い戻す事に成功したのである。
今でもお城が残ってるのは、頑張って保存してくれた人が居たからじゃんよ!
この大天守では、部屋の周りに廊下のある「勾欄」は見られない。
元々の計画では勾欄を設置する予定だったが、降雪なども多い松本市では雪の重みに耐えられない事もあって、勾欄の建設が見送られたという話が伝わっているそうだ。
そんな外に出れない最上階でやっぱり目が行ってしまうのが、最上階の天井に剥き出しになっている「桔木(はねぎ)構造」である。
”井桁梁”とも呼ばれる構造で、降雪がある地域では屋根に重量がかかる為に、それを支える必要があった。
このように全国には同じような天守閣の建物が築かれているが、詳しく見てみると、地域の気候などによってそれぞれに色んな特色が見られる。
こういった一見同じように見える城の建造物も、じっくりと観察する事によって、それぞれの特徴が見いだせるようになってくると、城見学がより一層楽しくなってくるのである。
そんな天井裏に見られたのが、こちらの「二十六夜神」という文字が見られる月待信仰の神棚。
1617年頃に移封されてきた戸田氏が、関東で盛んだった”月齢26日の月を拝む信仰”の一環で、設置した物だとされている。
そしてちょっと残念だったのが、最上階の窓にこのように金網が設置されていた事。
最上階は地上から数十メートルもある高い位置にあるので、ここからの落下物などで下にいる人に危険が及ぶ可能性なども考慮しての事だろうが。。
そして木造建築物なので、このように隅には消火器も設置されていた。国宝にも指定されている建物なので火気には最大限注意しているのだろうが、万が一落雷が直撃すれば、炎上してしまう可能性もある事だろう。
松本城大天守の最上階まで登ってきたものの、そんなに広い空間でもなく、また他の天守閣によく見られる外側の勾欄も設置されていないので、一通りの方角の景色を眺めた後は素直に階段を降りていくしか、選択肢が無くなってくる。
しかし城好きからすれば、せっかく国宝の松本城大天守の最上階までやって来れたので、この幸せをかみしめるように長居したい気持ちとなる。
こちらは松本城の東側の景色。長野県は山脈に囲まれた国だけに、このように遠くを見渡せる景色ではなく、奥の山脈がゴツゴツと存在している景色となっている。
ただ最上階には、このように過去にこの場所を訪れた”低能な人物”達の、馬鹿げた行為跡が残されていた。個人的には観光名所や歴史的な建造物に落書きなどをしたいという考えを理解できないのであるが、そこまでして歴史にまず残る事の無い自分の名前を残す事にどれほどの意味があるのかと問いたくなる。
以前にスリランカのシギリヤロックという歴史的な場所を訪れた事があるが、その場所にも大昔の人が落書きをしていた箇所があった。
しかし、そんな大昔の人達の落書きも、1000年以上の時間が経過すると、価値が出る落書きとなっていて、時代が経過するとこのような落書きも価値が出る可能性も排除できないかもしれないが・・・。
国宝に落書きは、極刑に値しやす!(怒)
最上階の景観! 動画
4階部分にて
そして他の見学客よりは粘ったものの、写真も撮り終えて、最上階の景観を目に焼き付けて階段を降りて、帰路に就く。
ただ松本城の大天守内は順路が決められているので、登りの際に見学できなかった4階フロアの「御座所」は、帰りの際に見学する事が出来た。
4階フロアの「御座所」という広めの間は、藩主がこの天守に入城した際に鎮座する場所として設けられた部屋となっている。
大天守内では居室風に造られている部屋であり、有事の際に藩主が滞在するに相応しい内装が用意されていた。
江戸時代から現存する天守閣の建物も、本当にそれぞれに設計内容に個性があり、その個性に興味を持つ事で色んな知識を得れてとても勉強になる場所でもある。
なので天守の建物内を登る事をシンドイ行為だと思って登るよりも、「何故、こんな造りになっているのか?」という事を考えながら興味を持って城見物していくべき場所なのである。
こんな旅はまた次回に続きます!
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