信州松本旅行記2022年3月-10
旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)
城は人の結晶!
長野県松本市内にある、外から見ても美しく、中から見ても美しい”国宝”の松本城。
コロナ禍の現在では、天守閣内の見学順路が一方通行で決められており、出口近くの最後に見られるのがこちらの「月見櫓」となっている。
松本城を見学!
約30分間かけて松本城天守内を見学してきて、最終地点の月見櫓に到達。
ここを過ぎれば出口に向かうだけなので、少しでも長く居たいという気持ちが出てくるけど、月見櫓内の写真もタップリ撮り終わったので、そろそろ諦めて外に向かう事にする。
同行しているオカンはこの月見櫓で、息が苦しくなって座り込んでいたけど、若者達はそんな様子も全く見られずに、足早に去っていった。
約590mの標高にある松本市だが、息が苦しく感じるかは個人差の範囲となっているようだ。
長野県に行く人は、気を付けてください・・・ハァ
こちらはさっきまで滞在していた月見櫓の下に築かれている石垣。
石垣の上に少し見えている壁部分に、石落としや狭間などの穴が見られなく、平穏な江戸時代に築かれた為に防御用の仕掛けが無かったという。
それに比べて大天守側は、このように石落としの穴や、狭間の穴が沢山設置されているのが見える。
このように城の外観を注意して見ていくだけで、その城の個性がよく理解できる。
全く同じ城は、この世には存在していないよ!
この石垣だけを見ていれば簡単によじ登れそうに思うけど、もし戦乱時にこの城を襲っていたとすれば、防御する兵士たちが銃や矢でこちらを狙っている状況だった。
そのような”攻撃される”というプレッシャーの中で突き進まないといけなかった為に、攻城というのもそう簡単なものでは無かった事だろう。
戦国時代に築城されただけあって、野面積みとなっている松本城の石垣。
プレッシャーが無ければ簡単に登る事が出来るけど、実際に戦いが起こったとしても、敵がこの天守の石垣に辿り着くだけでも奇跡的な確率だっただろうが。
こちらは下から見上げた月見櫓。天守の最上階などにはこのような外欄付きの部屋が見られる場合もあるけど、このような2階部分に設置されているのは珍しい。
こうやって見れば、如何にも”接待用”として造られたという説に納得である。
この本丸には昔に本丸御殿が存在していたが、江戸時代中頃に焼失してしまっている。
ちなみに天守閣と本丸御殿が両方とも江戸時代からのまま現存しているのは、全国に高知城のみの1箇所だけとなっている。
本丸御殿跡には植木が並べられており、こちらは雪国の冬場によく見られる「雪吊」のように紐が掛けられていた。
ただ、もう3月となっていて、他の木々には「雪吊」が見られないので、この木の形を矯正する為に取り付けられていたのかもしれない。
それとその植木前にあったベンチに座って休憩していたオカンも、そろそろ酸欠状態が回復してきて、歩けそうなサインを発していた。
そろそろいけるわ、多分やけど・・・
松本市では松本城を世界遺産登録する活動を進めており、合わせて江戸時代の姿を再現する為に城郭の復元活動も行っている。
しかし、この本丸御殿があった場所は、幕末時代には存在していなかった建物なので、現在の復元計画には含まれていないという。
いつもは旅先の知識を予習する事は殆ど無く、毎回ぶっつけ本番で見たままに見学していく事が多い。
しかし、今回はこの旅行の半年前に放送していたNHK番組『ブラタモリ』で、この松本城を訪れた回を見て少し勉強していた。
NHK番組の『ブラタモリ』も以前はそこまで興味が無かったけど、国内を旅行してその歴史や経緯などに興味を持ってくると、とても面白く見れるようになってきた。
天下のNHKだけあって、歴史考察も充分行われているし、単に旅行に来ただけでは得れない知識を得れる番組となっている。
過去の分の再放送が見たいです!
そして近くには大きな仮設テントとベンチが置かれていて、その脇には全国の城の写真が数多く飾られていた。
しかし、オカンはそんな城の写真を見る力もなく、再びベンチに座り込んでいた。。
アンタには、このシンドさが判らんやろ!(怒)
重要文化財などがある場所で、こちらの看板がよく見られる。今までは全く気にしていなかったけど、よ~~く看板を見てみると、下の方に「HITACHI」という文字を発見した。
そして何故「HITACHI」の名前が入っているのかを調べてみたら、どうやら昭和41年に京都の大徳寺で起きた火災に因縁があるという。
昭和41年の大徳寺での火災で重要文化財の壁画が焼失してしまった事を受けて、文化庁が株式会社日立製作所に依頼して、全国の国宝や重要文化財が置かれている寺院などに「火気厳禁」と書かれた看板を配布してもらっているという。
ただ大人の世界には、”見返りの無い無料(タダ)”というものは存在せず、この看板も少なくとも数万円で設置できる物でもないそうだ。
という事は裏で何かしらの取引があったのかな?
この看板で火災が防げるとも思わねえが・・・
それはさておき、再び美しい外観の松本城天守を眺める。この松本城が美しく感じたのは、外壁の黒い部分が毎年黒漆で塗り直されているからである。
毎年夏の終わりの9月から10月にかけて、松本城では風物詩のように外壁の黒漆塗り替え作業が行われている。
漆を塗る時に一番問題になるのが”塗った漆の乾燥”で、室内のように乾かす事が出来ない大天守では、最適な環境となる秋前に漆が塗られて自然乾燥されているという。
『昭和の大修理』から約70年近くに渡って、毎年黒漆が塗られている松本城の天守閣。
毎年黒漆が塗り直されている城は他には存在しないのもあって、より綺麗に見えてしまうのにも納得である。
松本城は世界一美しい城じゃんよ!
昔と違って現代は色んなペンキなどが開発されてきているが、昔のやり方にこだわっている「黒漆塗り」。
このように昔ながらの技術がいつまで続けられるのかは分からないけど、この黒漆が塗り続けられている間は、松本城は美しいまま存在する事だろう。
さて大天守の見学を終えたので、そろそろ昼飯の時間ともなってきた事もあって、外に出て良さげな飲食店を探す事にする。1人で来ていれば昼飯は二の次なのであるが、オカン同行の旅であれば、オカンの
「腹が減った・・・!」
も相手しないといけないのである。。
『孤独のグルメ』のドラマ、見過ぎだな・・・
そんな風に本丸を立ち去ろうとしていたら、黒門の脇にこのようなレリーフが飾られているのが見えてきた。
この松本城を居城にしていた松本藩は、江戸時代に7回も家が入れ替わった為に、銅像が造られる程に有名な藩主もいないようだ。
しかし、こちらは銅像ではなく、このような石の中にレリーフが嵌め込まれた形となっていた。
まず左側に見えた、チョンマゲ姿の人物は「市川 量造(いちかわ りょうぞう)」という、明治時代になって払い下げられて取壊し寸前となっていた松本城の保存を訴えて、私費も費やして保存に尽力した人物である。
松本の地のシンボルである「松本城の天守閣」の取壊しに反対し、天守最上階に飾られていた『建言書』は、この市川量造が提出した文書である。
そして天守閣買い取り費用として城で博覧会を開く事を提案し、当時の人々は天守閣の建物内に入った事が無かった事もあって大盛況となった。
合計5回実施された博覧会で得た利益をもって、無事松本城天守を買い取り、そして保存される事になったのである。
それと右側にあったレリーフは、「小林 有也(こばやし うなり)」という現在の東京理科大学:創立者の1人でもある人物。
大阪出身の小林 有也は30歳頃に松本市内の中学校に校長として赴任してきて、明治35年頃に石垣を支える木材が腐って傾いてしまっていた大天守の保存会を立ち上げて寄付を募った。
そして”松本城を再び素晴らしい城にしたい!”という想いに賛同した松本市民達が協力し、費用が集められて約10年掛けて『明治の大改修』工事が行われ、再び以前の綺麗な姿の松本城天守閣に復活したのである。
今の松本城を見れるのは、この2人の偉人のおかげじゃんよ!
松本市民の想いが沢山詰まって、守られている松本城だな!
ただ近年になって、明治時代後半に撮影されたという天守が傾いた写真に疑問を呈した人が居て、その真偽についての論議が熱を帯びているという。地盤が弱くて大きく傾いた建造物として世界的に有名なのは「ピサの斜塔」であるが、松本城天守も本当に大きく傾いていたか否かが、近々解明される時が来るのかもしれない。
明治時代の松本市を写した古写真が、イギリスのオークションで売られているというのも面白いな!
そんな2人の偉人の尽力に感謝しながら、再建された黒門の出口を出ていく。
なお、コロナ禍という事もあって、城へ入城していく際には黒門の大きい扉を進んで行ったけど、帰り道はこのように狭い門が通路に指定されていた。
この松本城は内堀沿いから天守を眺めるだけでも満足するかと思っていたけど、やっぱり天守内を見学すると、もっと大きな満足度が得られた。
そしてそこに松本城の保存活動に関わる人達の歴史なども勉強すれば、更なる満足度を得れる松本城である。
こちらの建物は、黒門からすぐ斜め前にあった「松本市立博物館」の建物。城を訪れた際には合わせて歴史博物館も訪れるのを楽しみとしているが、ただ残念ながら1952年に造られた事もあって、老朽化の為に閉鎖されていた。。
なお、建て替え中の新しい「松本市立博物館」は約100億円の費用を掛けて建造中で、今年2023年10月頃の開館を目安に進行しているようだ。
2023年1月段階では、約12万点もある所蔵品の運搬作業が進められており、近々新しい博物館のオープンが叶いそうな状況となっている。
ちなみに「NEW 松本市立博物館」は、さっき通ってきた大名通りに面しており、縄手商店街のあった大手門跡付近が移転地となっている。
そして13時前になっていた事もあって、腹が減ってカラータイマーが「ピコン、ピコン・・・」とウルトラマンのように反応していたオカンは、こちらの建物に大きく描かれた文字を見て、
信州そばが、早く食べたい・・・
と力なく言葉を発した。
オカンは意外と蕎麦好きらしく、先日の出雲旅の際にも蕎麦を食べまくっていたけど、今回の旅では”信州そば”を食べれる事をとても楽しみにしていたようだ。
そこまで綺麗に思えなかった内堀は、以前から観光客にも不評で、近々本格的に堀の浚渫作業が行われるという。
松本城周辺では綺麗な湧き水が出てくるものの、堀に溜まった水が流れていく大きな川もなく、その為に堀の水に流れが無い為に泥が堆積しやすいそうだ。
そんな泥と共に繁殖した藻などが夏場に大量発生する事もあって、景観と共に悪臭も出るようになってきているそうだ。
特に松本城は内堀が素晴らしいロケーションともなっている事で、遂に松本市も重い腰を上げて、本格的に堀の浄化作業に取り組んで行くという。
内堀が綺麗な水で満たされたら、松本城は宇宙イチの城になるじゃんよ!
言われてみると確かに内堀の水が緑掛っていて、お世辞にも綺麗とは言えない状態だった。
綺麗な湧き水が湧く理想的な松本市ではありながらも、そんな綺麗な水も時間が経てば、泥などの堆積物と夏場の激しい直射日光で大量発生する藻などで、汚されていくようだ。
ただ世界遺産登録を念頭に置いている松本市としては、誇る国宝の文化財である松本城のイメージを汚す訳にもいかないので、数年すれば内堀の水がとても綺麗な城に生まれ変わってくれる事だろう。
そう思うと、また内堀が綺麗になった数年後に再訪したい場所である。
毎年、来てくれてもいいじゃんよ!
こんな旅はまた次回に続きます!
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