横須賀新港に鎮座する記念艦:三笠と東郷平八郎像に思いを馳せる【神奈川旅行記㊺】

神奈川旅行記2020年秋-㊺

 旅行期間:2020年11月24日~27日(3泊4日)
(Thinking about the commemorative ship: Mikasa and the statue of Heihachiro Togo, which sits in Yokosuka New Port [Kanagawa Travelogue 45)

今は動かない戦艦!

神奈川県旅3日目は横須賀市に来て、東京湾入口に位置する猿島の見学を終えると、既に夕方になってきていた。猿島見学と、こちらの記念艦:三笠の艦内見学と、どちらを選ぶか少々迷ったけど、猿島見学を優先してしまった。なお、この写真だけ見ると「さかみ」に見えてしまうけど、戦艦「さかみ」という名前ではないので注意!

 

【記念艦:三笠】

住所:神奈川県横須賀市稲岡町82-19
営業時間:9時~17時頃(閉艦30分前の最終入艦)
電話番号:046-822-5225

 

 

 

 

記念艦:三笠にて

この「記念艦:三笠」も見学する気マンマンだったけど、営業時間「16時30分」の閉艦30分前までの最終入場だったので、残念ながら内部見学は出来ず・・・。この時は16時13分頃で、入れれば駆け足で見学するつもりだったけど、閉まっている以上はどうしようもない。

 

という事で中には入れないけど外側から見るのは出来るので、中に入ったつもりで外から見学する事に。外側だけを見ていると昔の戦艦のまま残存しているかのように思う記念艦:三笠だけど、戦後に艦内の部品などが持ち去られた為に、部分的に復元されている箇所もあったりで、その栄光に見合わない時代を経てきた船でもある。

 

その三笠の前には、こちらの「戦艦大和型:主砲砲弾」が設置されていた。イギリスで起こった産業革命の結果、どんどん船が造られていき、それが大型化して大きな砲身を抱えた戦艦が増えていった。この三笠が活躍した時代はまさに大型戦艦が戦争を優位にしていくという頃で、その活躍があった為に超巨大戦艦:大和が生み出される事に繋がったのだろう。

 

当時の日本は日清戦争から日露戦争と、下馬評を覆す勝利を挙げて全世界を見返した。しかし、そういった鮮烈な勝利体験というのに憑りつかれてしまうと、それを是正するのは人間の特性上、とても難しい。これは初めてカジノに入った初心者が、試しに少し手を出したら勝ってしまい、続けると更に勝ったけど、最終的には勝った分を全て巻き上げられて、しまいには借金地獄に苦しむ・・・というのと同じである。

ブッダ君
ブッダ君

人間の本能に問題があるんじゃ!

 

人間は成功を収めると、自信過剰になり易い。そして一旦自信過剰になってしまうと周りからの指摘などが耳に入らないようになり、また自分のやっている事が間違えているかもとすら考えなくなる。そしてそういう状況に陥ってしまうと、自分が破滅してしまうまで止まらなくなってしまう。

「大丈夫だ、オレは間違ってないから。絶対最後に勝つのはオレだ!」と。

ブッダ君
ブッダ君

こう言って消えてったヤツばかり、見てきたんじゃ・・・

 

そしてそういう時程に「絶対に起きるハズがない!」とタカをくくっていた事が起きてしまって、その時点で既に取り返しのつかない状態になっている。日本軍も強国ロシアに小さなアジアの国が勝利した事により有頂天になってしまい、これからも海の覇者が世界の覇者であり続けるという固定観念を持ち続けてしまった。

 

そして第二次世界大戦では、そんな考えを引きずって世界で最大の巨大戦艦を建造する。しかし世界の戦争は既に戦艦から飛行機に流れが変わってしまっていて、固定観念を捨てきれずに新しい世界に対応できなかった日本は、そのしっぺ返しを強烈に喰らうのであった。。

 

三笠前にあった大砲は、ペリーが来航して日本が開国した翌年1854年に日露和親条約締結の交渉に来た戦艦「ディアナ号」が、下田沖で発生した安政東海地震による津波で大破してしまった、その船の大砲だとか。ちなみにこの時のロシア人乗員500人近くは全員日本人に救助された。そして彼らがロシアに帰る為の船造りの費用を江戸幕府が捻出するのだが、その裏には”西洋式造船術”を日本人に学ばせるのも目的であったようだ。

 

その頃は諸外国の脅威を肌で感じていたので、一刻も早く西洋の軍艦に負けない造船技術を手に入れる必要があった江戸幕府。下田とは別に薩摩藩の島津斉彬も西洋式船の建造に着手していたが、最終的には自国で造るには時間と費用が掛かり過ぎるので、オランダなどの先進国に頼る事になるが。

 

 

江戸幕府は唯一オランダとだけ貿易を行っていたので、戦艦をオランダに発注した。しかし幕末にはヨーロッパの支配権もオランダから”海の覇者”イギリスへ移り変わっており、明治時代になるとそのイギリス式が多く導入される事になる。なおこの三笠もイギリスで1902年に造られた戦艦である。

 

この三笠は1903年から1923年までの約20年間に渡って、日本軍の象徴的存在だった戦艦。日露戦争では連合艦隊旗艦となり、指揮を執った東郷平八郎と共に日本の英雄的存在に上り詰める。しかし三笠はここに固められてしまい、第二次世界大戦時の空爆の被害は受けなかったものの、戦後の動乱時に日本人窃盗グループの略奪の的になってしまう。

 

敗戦国となった日本国内は貧しくて、英雄的戦艦だった三笠も窃盗団の手に掛れば、お宝の山に映った事だろう。パーツによってはバーナーで切り取られ、更には廊下の木の板なども薪などに使う目的で盗まれている。いくら過去の英雄でもひとたび戦争で負けると、英雄などは存在しなかったかのように踏み台にされて終わっていくのである。

 

こちらはロシア巡洋艦に取り付けられていた15cm砲の盾。日露戦争で活躍した三笠だけあって、その周辺にはロシア海軍に関連する物が置かれている。ただこの三笠と戦った船の盾という訳でもなく、単なるロシアの1巡洋艦の穴が開いた盾であるが。。

 

その盾の真ん中に穴が空いているのが見えているけど、この部分の厚さは7.5センチもあるそうだ。しかしそんな厚みの盾でさえも、大砲から放たれた砲弾で簡単に穴が空いてしまう。

 

なおこの三笠は戦後に略奪された以外にも、ディスコや水族館などが造られたりと、かつての輝きを失ってしまった。そして日本国内でも三笠の保存に関しては意見が真っ二つに分かれて、大きな鉄屑として売り払う案もあったという。しかし、三笠と共に全世界にその名を轟かした東郷平八郎のネームバリューによって、海外からも三笠の保存活動を後押しする動きが強まっていく。

 

そして1959年から約2年掛けて復元作業が行われて、アメリカ軍が持ち帰った物は全て元に戻されたが、盗まれてしまったものは戻らなかった。なので復元した物ではあるものの、昔の戦艦:三笠のそのままの状態で保存されているのではない。

 

そして足元はコンクリートで固められているので、係留されている訳ではなくて、地面に固定されている記念艦:三笠。だからもう船という存在ではなく、陸にあがった船型の博物館という認識の方が近い物となっているようだ。

 

こちらは船首に付いている菊花紋章だけど、戦後の窃盗でも盗まれる事は無かったそうだ。何でもかんでも盗む窃盗団も菊の紋章だけは、恐れ多かったのかもしれない。ただこの菊花紋章は昔からの物ではなくて、1987年にレプリカに置き換えられている。ちなみに昔の菊花紋章は、この三笠の艦内に展示されているという。

 

そんな記念艦:三笠の近くで見つけた、いつも旅先で仲良くしてくれる双眼鏡クン。この双眼鏡クンの担当は、先程まで滞在していた猿島らしく、緑しか見えない島をわざわざ100円払ってまで見る人がいるのかと聞きたくなる程だった。。

鎌大仏君
鎌大仏君

見る人がいるから、設置されていると思うよ!

 

 

三笠公園にて

こちらは記念艦:三笠が展示されている三笠公園で、思ったより広い公園となっていた。1949年にこの場所に「みかさ園」という遊園地が造られていた場所でもあり、その遊園地の一部として記念艦:三笠の艦上にディスコや水族館などが造られていたようだ。

 

この三笠公園では横須賀市が”戦後ジャズ発祥の地”とも言われている事もあってか、音楽が鳴る噴水も造られていた。この時はそんな音楽が鳴るシーンを見れなかったけど、HPで調べてみると機器が調子悪いらしく、今は人手で機器を動かしているので、最初と最後の時間帯には行わないと書かれていたが。。

 

そんな公園にはこのような蒸気機関車のような置物も見える。大きな戦艦があったり、このような蒸気機関車のような物が置かれていたりと、横須賀チックな世界観が見られるような光景にも思える。

 

実はこの蒸気機関車は緊急用に100トンの水を蓄えている貯水槽で、海辺で地下に貯水槽を設置できないので、仕方なしに地上に設置せざるを得なかった。しかし公園に設置すると景観を壊してしまう可能性があったので、このような「国鉄D51形蒸気機関車」という機関車に似せた貯水槽にしたという訳みたい。

 

関東では関東大震災(1923年)を初め、過去に何度も大地震に見舞われているので、次の大地震が起きた時用に備えておくのはとても大事である。特に日本は地震が多い国だけど、その分地震が発生した際への対応にも慣れているのである。

 

その三笠公園の一番いい場所に立ちはだかる東郷平八郎像は、1967年に「清水 多嘉示(しみず たかし)という彫刻家によって造られた物。右手に持っている双眼鏡は東郷が愛用していたというカール・ツァイス社製の双眼鏡で、日本海海戦時には何度もこの双眼鏡で敵船の状況などを確認していたようだ。この双眼鏡は発売されて間もない頃に、小西屋六兵衛店(今のコニカミノルタ)が輸入した物らしい。

 

なお、この双眼鏡の現物は記念艦:三笠内に保存されているという。またカール・ツァイス社でメンテナンス作業をし、約17km先が見える状態になっているそうだ。

 

こうやって興味を持ってしまうと、やっぱり艦内に入ってみたかった記念艦:三笠。明日は神奈川旅最終日だがこの横須賀に戻ってきて記念艦:三笠を見学するという事も検討したけど、明日は当初から横浜市内の博物館巡りを計画していたので、それを優先する事に。

 

そしてアメリカナイズされた横須賀の街を味わう為に、ドブ板通りの場所をネットで調べて向かう事にした。その途中にこちらの「よこすか海軍カレー」という看板を見て、「今晩はカレーを食べないと!」と思ってしまったのでもある。

 

そしてこちらの遊歩道を歩いていると、全裸の少女という道徳的に「どうなの?!」と思ってしまいそうな像の奥に、また帆船のオブジェのような物が見えてくる。横須賀はアメリカ軍と日本の軍港があるので、やっぱり軍艦が代名詞となっているのだろう。

 

このような遊歩道に水路を造って、そこにわざわざこのような帆船を部分的に設置して、何なんだろうかと思ってしまう光景。神奈川に来てから代表的な船を見て来たけど、それと関係する物なんだろうか?

 

その近くにあった説明板を見ると、「大型帆船:日本丸、誕生記念」という内容だった。でも日本丸というと昨日横浜のみなとみらい地区に係留されていた船で、確か横須賀ではなくて、兵庫県で造られた船だったハズ。そう思いつつ、この説明板をよ~~く読んでみると「昭和59年」と書かれているのが見える。

 

この説明板を見てると勘違いする人が多いかもしれないけど、この船のモデルとなった「日本丸」はもう引退した初代の船ではなく、今も現役で運航している2代目:日本丸が横須賀で建造された記念オブジェだったのである。だからあまり歴史に詳しくない人はこの説明板を見てもスルーするけど、本来なら「2代目:日本丸」と記載すべき案内板に思えたが。。

朋ちゃん
朋ちゃん

みんな、そこまで気にして読まないのよ~!(笑)

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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