神奈川県&東京旅(2022年12月中旬)-15
訪問:2022年12月中旬(2泊3日)
7番目!
こちらは神奈川県小田原市にある、戦国時代に関東を席巻した北条氏(後北条氏)の巨大な居城だった「小田原城跡」。
小田原城跡にて
小田原城跡には、江戸時代から存在していた天守閣が明治初期まで現存していたが、廃城令を受けて残念ながら解体されてしまっている。
その為に今見られる天守閣の建物は、1960年に鉄筋コンクリート造りで再建された建物となっている。
そんな天守閣内部に進んで行くと、まずはこちらの【全国天守高さ比べTOP10】というパネルが見えてくる。
全国に今見られる天守閣の中で最も高さが高いのは、我らが「大阪城」である。
戦前に鉄筋コンクリート造りで再建された大阪城で、天守閣の高さは41.5mとなっているが、江戸時代に再建された徳川の天守閣(後に焼失)はこれより更に高い約44mだったとされている。
今より高い天守閣を完全木造で造ってた訳やから、めちゃくちゃ凄いな!
第2位は御三家の尾張藩が居城にしていた「名古屋城」である。
名古屋城の天守閣は明治時代の廃城令を逃れて戦前までは現存していたが、空襲の際に焼夷弾を受けて残念ながら焼失してしまっている。
なお、今見られる天守閣の姿は戦後に再建された鉄筋コンクリート造りの建物だが、近年は老朽化もあって立ち入り禁止となっている。
老朽化の為に新たに木造での天守完全復元計画が持ち上がっているが、消防法や耐震基準を木造ではクリアできない為に天守復元計画はとりあえず10年も後送りにされてしまった。。
デカい天守ほど、木造ではシンドイよな・・・
そしてお次の3位は、こちら長崎県にある「島原城」。
「全国的にもマイナーな島原藩の居城がなぜ3番目に入ってくるか??」というのは、誰もが疑問に感じる事であろう。
江戸時代初期頃に築城された島原城は、「松倉 重政(まつくら しげまさ)」が有馬氏の代わりに転封されてきて、与えられた城が手狭だった為に、新たな城を築く事にした。
島原藩は約4万石の小さな大名に過ぎなかったが、藩主となった松倉重政は大大名レベルの規模の城を築く事にした。
5重5階の天守と約40基の櫓を建造した為に、領内検地では実際の石高を倍に報告し、その為に農民は過酷な状態に追い込まれていく。
デカい天守を建造するのは、完全に藩主の自己満足だぜい!
更にはそれまで見逃していたキリシタンも家康からの御達しを受けて、徹底的に弾圧し、雲仙地獄での拷問・処刑を断行した。
その為に島原の領民は過酷な状態に追い込まれてしまい、最終的には”島原の乱”が発生し、それを受けて松倉家は改易になってしまったという。
領民に大きなストレスを与えると、倍返しで返ってくるゼ!
第4位の城は、”加藤清正の城”としても知られる「熊本城」である。
熊本城は西南戦争の前夜に火災で焼失してしまい、再建されたのはここ小田原城と同じ1960年。
しかし、2016年に発生した熊本地震で被災してしまい、それから約5年後の2021年4月から新しい天守閣がお目見えしている。
5番目になって、やっと現存天守の1つである「姫路城」が出てくる。
江戸時代から残る”現存天守”も戦争前までは20基も残っていたが、戦争で8基の天守が焼失してしまった為に、今では12基しか見られなくなっている。
その中でも一番大きいのは、世界遺産にも指定されている姫路城天守閣で、これだけ目立つ大きな建造物が戦争を生き抜いたのが奇跡にも思えるような天守閣でもある。
もう、戦争はこりごりだぜい!
そして7番目になって、この小田原城がランクインしてくる。
小田原藩は最盛期には約11万石もあった為に、それなりの規模の天守閣を造っていたようだ。
また、徳川家将軍が上洛する際の宿泊地にもなっていた為に、ある程度大きな天守が必要だと思っていたのだろう。
3重4階の”複合式層塔型”天守は1633年頃に建てられたが、1703年頃の”元禄大地震”で倒壊してしまったという。
その為に1706年頃に新しい天守閣が再建され、こちらはその時代に「小田原城再興碑」として作られた物となっている。
小田原城の石垣の中から見つかったみたいよ~!
こちらは1705年に天守閣再建工事を始める前に行われた「上棟式」の際に、制作された「棟札」である。
棟札には工事に関わった職人や奉行の名前などと共に、当時小田原藩主だった「大久保 忠増(おおくぼ ただます)」の名前もあるが、この約2年後に記録に残されている富士山の噴火の中でも最大級だった『宝永大噴火』が発生し、小田原藩は苦境に立つ事になるのだが。。
大噴火が先に起こってたら、天守閣再建も夢の彼方だったタマ!
「上棟式」は今でも建築現場で見られる儀式だが、昔はこのように「上棟式用大工道具箱」なども用意されていて、藩の中でも一番の建物をこれから造る事もあって、特に念入りに行われたようだ。
日本人はおまじないが好きだな~!
こちらの絵は江戸時代末頃に、徳川家茂が上洛する際に増築された、二ノ丸御殿増築時の上棟式の様子を描いたもの。
日本人は建物にも神様が宿ると思っているぜい!
こちらには普段の大工仕事ではまず使われないような、家紋が入った手斧なども見られる。
新たに家を建てた事のある人は、このような手斧で簡単に土を掘る仕草をして、「エイっ、エイっ!」って仕草をした事がある事だろう。
小田原藩は徳川家康の忠実な家臣であった「大久保 忠世」の子孫がその大半を治めたが、途中で大久保家は家康の怒りを買って改易処分を受けてしまった為に、約66年近くは他の譜代大名が治める時代があった。
秀吉の小田原城攻めで滅びた北条氏も、最後の当主であった「北条 氏直(ほうじょう うじなお)」は切腹を条件として降伏したものの、徳川家康の次女を娶っていた事もあって家康からの助命懇願を受けて、秀吉に赦免され1万石の大名として存続が許された。
しかし北条氏直は嫡男を残さず1591年頃に死去してしまった為に北条氏宗家は途絶えてしまうが、北条氏康の五男「北条 氏規(ほうじょう うじのり)」が跡を継ぎ、”河内国狭山藩”を興して12代に渡って江戸時代を治め続けた。
有力者との繋がりがある事が、生き残る秘訣じゃよ!
小田原藩で大久保家が改易された後に入ってきた阿部家に次いで、その後に転封されてきた稲葉家の「稲葉 正勝(いなば まさかつ)」は、母親(春日局)が江戸幕府第3代将軍:徳川家光の乳母となった事もあって、大いに重宝されて老中まで務めた人物。
将軍の『乳兄弟』ってヤツやけ!
エロ坊主おじさんが言うと、イヤらしい兄弟にしか思えないよ~!(笑)
こちらは江戸時代に作られたと考えられている、建物の屋根に取り付けられていた「鯱(しゃちほこ)」で、二ノ丸にあった櫓に設置されていた物だと推定されている。
江戸時代初期は大久保氏のように、本来なら妥当に思える改易処分ではなく、取って付けたかのような内容で改易される大名が大幅に増加した。
その背景には晩年を迎えた徳川家康が江戸幕府の地盤強化をする為に”将来芽が出て来そうな草を摘み取った”とも、側近の本多正信・正純父子が自分達の勢力を守る為に”政敵を排除した”からだという説もある。
権力争いも、”現れては消えていく”が繰り返されるタマ!
稲葉家は2代目の「稲葉 正則(いなば まさのり)」は、徳川家光の乳母だった「春日局(かすが の つぼね)」の孫として可愛がられ、江戸城大奥の礎を築いた春日局の庇護下で出世して老中も務めている。
春日局さんって、怖いイメージしか無いよ~!(汗)
このように小田原城は譜代大名が守る場所で、将軍が上洛する際の通り道でもあったので、江戸幕府にも一目置かれていた場所だった。
その為に全国的にも大きな規模の天守閣が築かれていた場所でもあった。
こんな旅はまた次回に続きます!
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2022年12月中旬に『どこかでマイル』を使って訪れた、2泊3日の神奈川県&東京旅です。