耳なし芳一の像がある赤間神宮は、壇ノ浦の戦で敗れた平家を祀る寺

九州縦断旅:北九州編

 旅行期間:2020年8月中旬

 

平家の怨念を鎮魂する場所

関門海峡の下関側にある赤間神宮

関門トンネルを渡って下関側に来てから西の海岸線を歩いて進んでいると、竜宮城のように見える赤間神宮が見えてきました。この竜宮城のような建物もただ単にそういうデザインをした訳では無く、それに至るそれなりの訳があるようです。

 

赤間神宮(旧:阿弥陀寺)

 

住所:山口県下関市阿弥陀寺町4-1

 

 

 

安徳天皇を祀る赤間神宮

関門海峡の下関側にある地域は壇ノ浦町にある、プレージ壇ノ浦にある赤間神宮-2

壇ノ浦の戦いの約1年後に源頼朝の命令により、その際に幼くして亡くなった安徳天皇を祀る為に建てられた阿弥陀寺の本堂。本堂は安徳天皇の本来居場所となるべきだった京都御所を眺めるように、正面を東に向けて造られているという。

 

関門海峡の下関側にある地域は壇ノ浦町にある、赤間神宮の鳥居

元々は阿弥陀寺と呼ばれていた仏教寺院であったが、明治時代に起こった廃仏運動により阿弥陀寺は廃止されて”神道”である赤間神宮へと姿を変えたのである。

 

関門海峡の下関側にある地域は壇ノ浦町にある、プレージ壇ノ浦にある赤間神宮はまるで浦島神宮みたい

こちらは竜宮城をイメージした門が見える。と言っても竜宮城を見た事がある訳ではないので、あくまでも想像上の竜宮城のイメージで造られた物なんだけども・・・。壇ノ浦の戦い時に幼い安徳天皇とその幼い孫を抱いて投水した平時子は、自殺したのではなく、”海の下にある竜宮城に行ったのだ!”とされている。だからこの竜宮城はその意味も込めて、死んだのではなく竜宮城へ旅立った安徳天皇の魂を鎮魂する為に造られているのである。

 

壇ノ浦町にある赤間神宮の入口

神宮の入口にある大きな絵馬に描かれている、この「五穀豊穣」とは米・麦・粟あわ・豆・黍きびが豊かに祈る事である。昔は悲劇で死んだ人物を祀る事によって、その人が持っていたパワーを享受できるという考えがあったようだ。

 

壇ノ浦町にある赤間神宮の入口-1

さて境内の方へと階段を上がって進んできます。この赤間神宮は勿論無料で境内に入れるので、ちょっとここで水分補給も兼ねての休憩的な神社の見学をする事に。

 

赤間神宮には壇ノ浦の戦いで投身する様子を描いた絵が飾られている-1

そんな赤間神宮にはこのように壇ノ浦の戦いで、安徳天皇を抱いて投身水入する平時子の絵が飾られている。これから何が起こるか理解できなかった、たった6歳の孫の安徳天皇に対して平時子は「水の下の都に行くのだ!」と言い放ったという。勿論当時数えで6歳だった安徳天皇には、この時の状況はまず理解出来なかっただろう。

 

赤間神宮には壇ノ浦の戦いで投身する様子を描いた絵が飾られている

その平時子の娘で安徳天皇の母である平徳子も関門海峡に身を投げるものの、右側の絵にあるように源側の熊手のような取っ手に引っ掛かり、死ぬはずだったのに命を助けられる。この時に多くの平家側の女性が同じように関門海峡に身を投げたが、それは自分の潔白な体を源家に汚されたくないという想いもあったという。だからこうやって源家に救い出される事も、平家の女性達には地獄の始まりという気持ちだったのかもしれない。

 

赤間神宮には壇ノ浦の戦いで投身する様子を描いた絵が飾られている-2

現代に近づくにつれてこのような船上での戦いは少なくなったけど、この船の上での戦いが有名な壇ノ浦の戦いである。

 

 

赤間神宮の本宮に進む

そしてこちらが赤間神宮の本堂である。元々は安徳天皇を祀る仏教の寺だったけど、明治時代に起こった仏教と神道を切り離す”廃仏毀釈”という運動で、その際に神道に属する赤間神宮へと変換したのである。

 

赤間神宮の本宮に進む-2

今の日本国民の多くが自分は無宗教だと自覚する人は多いけど、実は日本で生きていると知らない内に仏教と神道の影響を受けて生きているのである。だからそういう意味では「自分は無宗教である!」と簡単には言い切れないのかもしれない。

 

赤間神宮はまるで竜宮城のようだ

平時子が入水する前に安徳天皇に喋った「水の下の都」をイメージした竜宮城のような『水天門』。既にこの時代には浦島太郎の童話があったのだろう。ただ残念ながらこの身を投げた関門海峡の底には、竜宮城のような建物は無かったのだが。。

 

 

境内にある「耳なし芳一の像」

赤間神宮の一角にある耳なし芳一の像-2

そしてこの赤間神宮の境内には、有名な「耳なし芳一」の像も置かれているのである。これがその像であるが、皆さんも「耳なし芳一」の名前だけは聞いた事があるハズ!

ただしその逸話は忘れてしまって、内容を知らない可能性大だけど・・・

 

赤間神宮の一角にある耳なし芳一の像

この耳なし芳一のストーリーは簡単に言うと盲目の琵琶奏者だった芳一は、この付近で壇ノ浦の戦いで滅びた平家の亡霊達(怨念)に付き纏われて演奏を続けていた。しかし亡霊相手にこのまま演奏をしているといつかは芳一の命が奪われると心配した周囲の人達が寺の和尚に相談した。そして和尚の手によって芳一を守る為に、お経が芳一の体中に描かれる事となる。

そして次に「平家の亡霊から何かを喋りかけられても、何があっても絶対に黙っているように!」と芳一に告げた。

 

赤間神宮の一角にある耳なし芳一の像-1

そしてその夜いつも通りに芳一の周りにやって来た平家の亡霊達は、お経が描かれた芳一の姿が見えなかったが、お経が描かれていなかった耳だけを発見した。芳一の姿を確認できなかった亡霊達は、仕方なしに見えている芳一の耳だけをもぎ取って持ち帰ったという。

そんな話なので耳まで無くなっている人の像がここに飾られているのであった。。

 

境内にある、壇ノ浦で滅びた平家の墓

赤間神宮境内に祀られている平家のお墓-1

そんな耳なし芳一の像を拝観した後に更に左手の方に進むと、そこには壇ノ浦の戦いで滅びた平家の武将たちのお墓がある。戦いで敗北した平家だけに、あまり立派な墓石ではなく、あくまで祀る為に地味に墓石が造られているという感じも受ける墓地である。

エロ坊主オジサン
エロ坊主オジサン

ナンマイダブ~~ナンマイダブ~~!

 

赤間神宮境内に祀られている平家のお墓

壇ノ浦の戦い自体が約800年も前だし、関門海峡に身を投げたのも多かったハズなので恐らく実際に遺骨が納められている訳では無く、あくまでも霊を弔う為の墓。

 

赤間神宮境内に祀られている平家のお墓-2

このように壇ノ浦の戦いで散った、平家一門の主な武将たちのお墓が置かれている。この位階を見ているだけで当時いかに平家が力を持っていたかが想像できる。しかしまた逆に大きくなり繁栄を極めた勢力が、平家物語にも書かれている『盛者必衰』の法則通りに、万有引力の法則並に地球上に生きる生物に対して圧し掛かって来る事を再確認するのである。

 

赤間神宮で終戦の舞が踊られていた

そして赤間神宮の本堂前ではこの日が8月15日という第二次世界大戦の終戦記念日だったので、それに合わせて戦争の犠牲者を祀る行事が行われていた。その行事ではこのようにちょうど真夏の暑い太陽光が当たる中で、舞を踊る赤間神宮の巫女さんが見えた。

こんな暑い日差しに加えて着物を着ていて踊っていたら、さすがに汗だくになっているだろうと思われる。。

 

 

赤間神宮で行われた、終戦の儀 動画

 

下関にある赤間神宮の鳥居は竜宮城のような形

そんな巫女さんの舞を眺めた後は、振り向くと赤間神宮の入口の門がまさに竜宮城のように見える。赤間神宮は本来建てられた理由に対して興味を持って訪れる人よりも、このように竜宮城に似ている神社だからそれを見る為に来る人も多そうだ。

 

下関にある赤間神宮の鳥居から関門海峡を眺める

そんな竜宮城のような水天門から、関門海峡とその先にある北九州が見える。ただ何もこの周辺で起こった歴史を知らずにこのように見る景色と、壇ノ浦の戦いで敗北した平家などの歴史を少し勉強するだけで、対岸の北九州が近いようで遠く、また多くの命が散っていった虚しさを感じれるような気がする。

 

下関にある赤間神宮境内の盆栽

この8月中旬の盆期間中の時期はとても暑いけど、このように植物もボクらと同条件で暑いハズ。それでも文句を言わずにただジ~~ッとしているので、それを見習って今年はあまり「暑い・・・暑い・・・!」と言わないようにしようと自分を戒める。

 

赤間神宮から隣の建物へと進む

そして赤間神宮の拝観を終えて、入り口には戻らずに神社の西側から伸びる細い道の方へ”エロ坊主オジサン”が進んで行く。この赤間神宮からすぐ近くの場所に下関で一番高級なフグ料理屋さん(料亭)と、日清講和条約(下関条約とも)が結ばれた場所を案内してくれるという。

 

赤間神宮の周辺に建てられている、伊藤博文の銅像

そして約3分程歩いた先に日清講和条約記念館が見えてきて、その脇にはこの時の会議に出席した総理大臣であった伊藤博文と、外務大臣であった陸奥宗光のそれぞれの銅像である。日本側の全権を握っていたのはこの2人で、1895年4月17日にここで清国側の代表と条約に講和したのである。

 

下関にある日清講和条約記念館脇に立つ銅像

実はこの清国と当時の日本帝国との間に行われた交渉で、最初に交渉の場が持たれたのは下関ではなく広島の県庁であった。その広島で行われた最初の会談では日本国代表で全権を与えられた伊藤博文と陸奥宗光に対して、清国側の代表者には清国からの全権が与えられていなかった。それを不服とした日本側は全権を与えられた特使を送らせるようにと交渉を切り上げた。

 

下関にある日清講和条約記念館脇に立つ銅像の説明板

こちらの銅像は1937年にこの日清講和条約記念館が建てられた時に合わせて、その時代に造られた銅像である。

 

 

下関にある日清講和条約記念館脇に立つ銅像-1

そして第2回目となる日清会議は清国の全権大使である李鴻章(り・こうしょう)が送られて、約1ヶ月に渡る交渉(全7回に及ぶ)が行われた。日清戦争で優位に立っていた日本帝国は、多額の賠償金と共に台湾を植民地化し、清国に朝鮮半島を手放させて新たな日本の支配地にしていくのである。

 

下関にある春帆楼

この日清講和条約記念館が建てられているのは老舗料亭であり、かつ1888年に伊藤博文がふぐ料理を解禁して免許を持たせた”ふぐ料理公認店第一号”となった『春帆楼』である。長州出身の伊藤博文はこの料亭を気に入っており、この店の名前は伊藤博文が命名したものだという。

 

下関にある春帆楼の建物

下関内でも一番高級な歴史あるフグ料理屋さんとして有名ではあるが、経営自体は20世紀前半に行き詰まり、現在ではオリックス不動産の傘下に入って全国チェーン展開をしている。その為にお金持ちしか入れないような高級料亭のイメージではなく、庶民でも足を伸ばせば利用できそうな値段になっているようだ。

 

 

下関の春帆楼横にある日清講和条約記念館

昔学校で習った歴史は殆ど詳しくは覚えていないけど、最近色んな所へ行けば行く程に近代日本の歴史に興味が湧いてきた。そこにBS-TBSで週一回のペースで放送している『関口宏のもう一度!近現代史』という番組を見つけた。この番組は2019年10月から放送しているみたいだけど、明治から昭和にかけての日本の近代史についてじっくりと説明してくれる番組なので、ちょうど日本の現代史を知りたいと思っていたボクには壺のハマる番組を見つけたのであった。

 

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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