九州縦断旅行記(秋)2020年-⑨
旅行期間:2020年10月24日~28日
(Visit Fukuoka Castle, the former residence of the Fukuoka Clan, and see the stone walls from the Edo period.)
石垣だけの福岡城跡
そして博多の街から天神の街を通り過ぎて西に向かって進んで行くと、約30分程で福岡城跡に辿り着きます。ただこの福岡市内に城があったという印象は全然無いけど、勿論全国にあった無数の藩にはそれぞれに1つの城を所有して、そこを居城として活動していたので、勿論この福岡県にもあって当然なのであるが。。
福岡城跡にて
この福岡城を居城としていた福岡藩は、黒田官兵衛(如水)を父に持つ黒田長政が関ヶ原の戦いで見せた武勲に対して、徳川家康がその褒美として筑前国約52万石を与えた事により生まれた。なおこの福岡という地名は元々この場所に大昔から存在していた名前ではなくて、この黒田長政が転封されてきた時に黒田家出身地の備前国福岡の名前をここに付けたのが始まりだという。
福岡城跡堀石垣の公開
福岡城跡の入口に向かって歩いていると、こちらの「史跡:福岡城跡堀石垣」と書かれているプレートが取り付けられている、地下への入口のような物が見えてくる。
この「史跡:福岡城跡堀石垣」とは福岡城の外堀として存在していた堀が現存している場所を保存しており、毎週の土日だけ限定公開しているという。
ここを訪れたのはちょうど土曜日だったので、このように入口が開いていた。誰か下に係員の人がいるのかと思っていたけど、入口を入ろうとすると道端に立っていたオジサンが声を掛けてきて、「無料で入れるから、是非見ていって!」と言ってくれた。
そんな地下トンネルのような階段を降りて行ってまず見えたのは、その係員のオジサンの荷物一式・・・。来訪客に係員のオジサンの荷物だと分からないようにロッカーなどを設置してもいいのではと思うけど、普通に目に入ってしまう所に置かれていたのである。。
そして目的の物は下に降りるとすぐ目に入ってきて、これが江戸時代の外堀に使われていた石垣跡だという。
外堀というからには元々この福岡城周辺をグル~~っと囲んでいたハズなんだろうけど、明治時代に入ってから路面電車の線路が敷設された時にこの外堀は埋め立てられてしまったそうだ。しかしその後に路面電車を廃止して地下鉄を導入しようと工事している最中に、この石垣が発見されてその一部がこのように保存されて、週末だけ無料公開されているそうだ。
こちらの絵は1646年に福岡藩から江戸幕府に届けられた、福岡城の間取り図。当時はこのように外堀を周囲360度張り巡らせた、いかにも江戸時代のお城となっていたようだ。
こちらの図も昔に作成された物のようだけど、海だった場所にどれだけ埋め立てて新しい土地が造られたかを見るとビックリしてしまう。約200年前までは海だった場所が今では陸地となっており、更にはそんな埋め立て地の一部には何万人も収容する大きなドーム型球場まで造られているのである。
昔の図を見ると、この外堀と隣にある大堀は外洋と繋がっていたのかもしれない。また城の堀から東側には運河らしき川も延びているように見えるし、昔は物流の為に川を活用していたのかもしれない。調べてみると福岡城の左に見える大堀(現在の大濠公園)は元々博多湾に繋がる入り江となっていたが、黒田長政が福岡城を築城した時に入り江を塞いで、その代わりに那珂川から大堀へと続く肥前堀が運河兼堀として整備されていたという。しかし今では肥前堀の跡は見られないが。。
この石垣に使われていた石は玄武岩だというが、この石はここに保管されているだけで、ここに実際に昔から置かれていた訳ではないそうだ。というのも堀の外側ではなくて堀の内側に使用されていた石で、水が張られていた堀で水に浸かっていた部分の石は変色しているという。
そして地下への寄り道を済ませた後は、福岡城跡の中心部へと進んで行きます。しかしここを訪れていた時にはこの福岡城跡には天守閣などの建物があるとかは全然知識としてなくて、この福岡に来るまでは福岡城という城が存在していたという知識すらなかったのであるが。。
もうちょっと勉強せな、いかんよ!(怒)
こちらの看板によると、この福岡城跡の堀部分には「ツクシオオガヤツリ」というカヤツリグサ科の一種で絶滅危惧ともなっている多年草が生えている場所だという。
福岡城跡に足を踏み入れる!
この福岡城は黒田長政が転封されてきてから、約7年程の歳月を掛けて築城したお城だけど、今ではその江戸時代当時の建物は殆ど残っておらずに、石垣のみしか見れない場所となっている。というのも明治時代に入ってから出た廃城令によって、全国に存在していた城の大半が解体される事になって、この福岡城も大半の櫓などがその際に解体されてしまっているという。また城の周囲を取り囲んでいた堀の面積も、当時の1/5以下に減らされている。
明治時代になってから軍用地ともなっていた事のある福岡城跡では、今では運動場などのスポーツ施設が多く見られる。昔の野球ファンなら懐かしく思う平和台球場も実はこの福岡城跡地に建設された球場だったようだ。平和台球場というとダイエーホークスが大阪球場から本拠地を変えた球場として、門田博光などがよくホームランを打っていた狭い球場という印象が残っている。そしてそんな平和台球場では当時弱かったダイエーホークスの監督をしていた王貞治氏に対して、ファンが怒って卵を投げつけた事件が起こった場所でもある。
今の九州では、王貞治は神様に近い存在やけ!
今の福岡城跡には石垣がそのまま残されており、敷地内の大半は国の史跡に登録されている。なお現存する石垣の総延長距離は3kmを越えるらしく、その石垣に使われた膨大な石を集める為に、元寇防塁の際に気付かれた石垣の石も再利用したという。
福岡城跡入口の景色 動画
福岡城内はこのように石垣は保存されているけど、大阪城のような大きな建造物は殆ど残されていない。なお、ここ福岡城も観光客を増やす目的も兼ねて天守閣の復原事業が練られているが、残された福岡城の資料には天守閣が存在したという確かな証拠が出ていないので、天守閣を造る計画がいつまで経っても進まないという。
さきほど地下の石垣が見れる部屋に飾られていた1646年に幕府に提出された福岡城の地図の中にも、天守閣という建物の記載が無くて、代わりに「天守台」という記載しかなかった。その天守台とは本丸の中でも一段と高い場所に造られた所で、大体はそこに天守閣のような櫓が造られているハズなんだけど、一説には元々はあった天守閣が取り壊されたという話もあるそうだ。なお、江戸時代には外様大名は大きな天守閣を造ると、江戸幕府から反逆する可能性があるとして睨まれる事を恐れて、天守閣を造らなかった城も多かったという。
この福岡藩の初代藩主である黒田長政も戦国時代には有名な武将だったけど、いまいち現代ではその名前はあまり知られていない。それよりもNHK大河ドラマの主人公として取り上げられた黒田官兵衛の息子というと、今どきの人々でも分かり易いようだ。
福岡城むかし探訪館にて
ここは福岡城跡敷地内に小さく造られている建物の「福岡城むかし探訪館」という、福岡城についての歴史を調べたり、資料などが置かれている場所。
黒田官兵衛というと、この赤い漆が塗られたお椀を反対にして被っていた兜『朱塗合子形兜』が有名でもある。勿論黒田官兵衛というとこの兜よりも戦国時代の名軍師として、負け無しを誇った天才武将だったから有名になっているのであるが。
こちらの建物内には江戸時代の福岡城を再現したミニチュア模型が飾られており、今とは全然違う景色になっているのがよく分かる。そして城の中には50個近くの櫓もあったという。
なおこちらのミニチュアの天守台には、ちゃっかり天守閣のような建物が載せられているのが見える。説によると大天守・中天守・小天守と3種類の天守閣を備えていたという話もあったりで、未だに議論の多い福岡城跡である。
こちらは松ノ木坂御門という、敵がこの福岡城に攻め込んできた時にまず入ってくる門の写真。この福岡城内には門だけで、10個ほどが存在したとされている。
こちらは武具櫓という武器庫となっていた建物の、大正時代に撮影された写真。明治時代に入ってからの廃城令の後に陸軍の管轄地となった福岡城跡にあった使われない無駄な建物は、取り壊されたり、解体されて移築されたりした。この武具櫓は大正時代に旧黒田家別邸に移築され、この写真はその黒田家別邸に移築した後の写真だという。ただこの武具櫓は太平洋戦争時に空襲によって焼失してしまって現存はしていない。
この福岡城むかし探訪館では、この福岡城を造った福岡藩初代藩主である黒田長政よりも、やっぱり現代人に知名度が高い父親の黒田官兵衛の方をクローズアップしている。勿論この福岡城を築城していた時代には黒田官兵衛は隠居の身ではあったものの、築城の名手でもあったので色々と口出ししたハズである。
福岡の街と博多の街というのは同じ街だと思ってしまうけど、実際には昔から栄えていた「博多の街」は商人の町で、後から黒田長政が築城した福岡城に合わせて城下町が造られた「福岡の街」は武士の町という風に分けられていたようだ。その境目が先程歩いた西中島橋の袂に造られていた枡形門で、商人が福岡の町に入ろうとすればそこで徹底的に調べられたという。
こちらに貼られているのは「黒田二十四騎」という、官兵衛/長政親子に使えた武将の中でも、とりわけ活躍した人物である。こうやって見るだけでみんな同じ軍団の一員なのに、兜の形がバラバラなのが個性があって面白く思える。
戦国時代の後半から築城技術は上がっていき、江戸時代に入ってからは優れた築城技術で造られた城が沢山増えた。そこには勿論築城を指導した名武将の活躍もあったけど、城造りの職人のレベルも平穏な世の中になって、集中して仕事が出来た為に格段に向上したのも影響しているのだろう。
この昔の地図を見ると、今の福岡ドームも昔は海だった場所に造られているという事が分かる。ちなみにボク世代からすると「福岡ドーム」という呼び名が染みついているけど、今の若い子達には「ヤフードーム」とか「ペイペイドーム」とか言わないと通じないのだろう。。
このように城の周囲にあった堀も大半が埋め立てられてしまい、城の西側に大きな堀として存在していた今の大濠公園も、だいぶ周囲を埋め立てられているのが分かる。ちなみにこの大濠公園の埋め立て費用は、その埋め立て地に造設された住宅地などを売却する事によって、その資金を捻出したという。
こんな旅はまた次回に続きます!
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