福岡城跡に残された、一段と高い天守台から福岡の街を眺める【九州縦断秋旅行記⑩】

九州縦断旅行記(秋)2020年-⑩

 旅行期間:2020年10月24日~28日
(A view of Fukuoka City from the higher tower of the Fukuoka Castle ruins.)

天守閣はあった?!

ここは江戸時代に黒田家が藩主となっていた福岡藩の居城があった、福岡市内にある福岡城跡。訪れてみるとその福岡城跡の敷地が広かった事が分かり、その敷地も今ではこのように公園が運動場などの施設が多く占めている。なお昔にこの敷地内に平和台球場というプロ野球チームの本拠地球場が存在していたけど、その改修工事中に地下から「鴻臚館」という、平安時代に築かれた迎賓館の遺構が見つかった為に今では取り壊されている。

 

 

 

福岡城の本丸にて

現在の福岡城跡はご覧のように石垣は保存されているけど、江戸時代当時に建てられていた建物の殆どは姿を消してしまっている。しかしこの残されている石垣だけで、総延長距離にすると約3,000mを越えるという。

 

この福岡城は1601年頃からこの地に約52万石を加増されて転封されてきた黒田長政が、約7年程の歳月を経て完成させた城。この時代に造られた城の石垣には、このように”算木積み”と呼ばれる角を強くする技法が用いられている場合が多い。

 

この福岡城が造られた場所は元々丘などがあって自然に高低差がある場所で、その地形を利用して城を築いた。その為に平城ではありながらも、自然の高低差を利用して4重の石垣が構築されている。

 

約52万石だった福岡藩の居城だけに、かなりの広さを誇る福岡城跡。九州の中でも一番発展した博多の街を持つ福岡で、その既に発展した博多の街を上手く取り込む形で、その隣に福岡城を築城したのである。

九州チャン
九州チャン

昔は那珂川から運河も引かれていたのよ!

 

広い敷地だった福岡城跡地では今は運動公園のように、芝生広場やこのように多目的グラウンドや陸上トラックなどが整備されていて、福岡市民にとっては小さい頃から親しみのある場所に変わっている。

 

東御門があった場所から本丸を目指して進んで行くと、まずは二ノ丸跡が見えてくる。しかしここにあっただろう建物は今では存在していないので、開放感のある場所という感じしか見受けられない。

 

この二ノ丸は少し高い場所にあるので、このように眼下の景色を見渡せる場所でもあった。なお奥に見えているグラウンドの辺りには、家老の屋敷などが並んでいた場所でもあった。

 

福岡城跡に初めて来る人は、やっぱり天守閣のような城っぽい建物を見れると期待してやって来る人が多いと思うけど、この福岡城跡にはそんな観光客を喜ばせる建物は存在していない。現代の日本人は城跡だった場所には何かしらの城っぽい建物が再建や復元に関わらず存在していると思い込んでしまうけど、その大半は町興しや観光客を増やす為に無理やり造られた物も多い。

 

この福岡城跡でも天守閣の建物を復原する動きがあったけど、ただ残された福岡城の資料などを見ると、ここに天守閣があったという証拠が出てこないという。昔はともかく最近は考古学研究も進んで、あまり証拠も無しにバンバン城を復元するのが出来にくくなっている。本来復元という行為は元々あった物を限りなく近い形で再建する事であるが、元々ここに存在しただろうの建物の資料が無いままに再建してもそれは自己満足であって復元とは呼べない。

 

 

そういった事もあってこの福岡城跡には天守閣やそれに準ずる櫓なども再建されていないので、全国的にもあまり知名度のない城跡となっている。だから福岡と言われて頭に浮かんでくるイメージで、まず福岡城跡が浮かんで来る人はまずいないだろう。

 

このような江戸時代前半に築かれたであろう石垣も、そのまま現存している物は意外と少ない。というのは日本は地震などが多かったりするので、その被害を石垣も当然受ける。それで崩れてしまった石垣などは過去に補修されているので、今目の前に見えている綺麗に積まれた石垣が江戸時代前半から残っているものとは断定できない。

 

現代人のイメージにあるお城って大きな建物がド~~ンと建てられていたのが浮かぶけど、実際には江戸時代には日本全国にそこまで大きな建物は建てられていなかったと考えられる。江戸時代は徳川幕府が支配していた時代だったので、大きな城を築けるのは徳川家に由来する一族か、特別な理由があって幕府に赦しを得れた藩しか、大きな城を造れなかった。

 

もし江戸幕府の許可を事前に得ずに大きなお城を勝手に造ると、幕府に反逆したとしてお家断絶の目に遭わされた例もある。江戸時代はそのように常に全国の大名達は江戸幕府の顔色を伺う状態だったので、自分の威光を見せつけるという行為自体が出来なかったのである。

 

福岡城の本丸へ進む!

福岡城跡の中心部へと進んで行くと、本丸の入口に辿り着く。こちらの看板には昔この場所に天守閣があったという前提でのCGで復元したイメージ図が嵌め込まれているけど、天守台という石垣の高台になっているので何かしらこういう建物があったと推測されている。

 

そして今ではすんなり進んで行けるけど、ここに城があった江戸時代当時は本丸の手前に「鉄御門」という門が設置されており、不審者が通れない門があった。基本的にお城っていう構造物は住む事を想定して建てられたものではなくて、あくまでも戦いで敵が攻めてきた時に砦として応戦する為に造られた防御施設なので、快適性はなくてとことん防御にこだわった建物だった。

 

特に殿様がいる本丸の入口はこのように狭くなっており、もし敵が攻め込んできた際に一気に敵兵が乱入できないようになっている。だからもしタイムスリップして江戸時代に戻れたとしても、今みたいに簡単に本丸内に入る事は出来ないのである。

 

江戸時代は基本的に徳川幕府が支配して平穏な時代だったけど、そんな時代だったのになぜこんなに防御に特化した城ばかり建てられただろう? それは江戸時代以前まで常に内乱が続いていた日本だったから、今までに築いてきた築城のノウハウを詰め込んだ城を造るのが当時の風潮だったのだろう。

 

個人的にはほぼ戦乱に巻き込まれなかった江戸時代に殆ど攻城戦は無かったのだから、これぐらいの立派な城を建てるのに莫大な費用と快適性が無くて不合理な生活を送らざるを得なくて生産性が感じられない。例えばもっと簡略化した城にして、家来も生産性が上がるような建物にすれば快適に過ごせたのだろうけど、当時の風潮からしたら殿様は立派な建物に住まないといけなかったのだろう。

 

さきほど鉄御門を抜けて本丸内へと進んできたけど、それでゴールではなくて、このように更に一段と高くなっている石垣の上に登って進む必要がある。こういった造りは昔の人達が頭を練って造り出した、城の芸術性を感じる場面でもある。

 

 

福岡城跡の中でもこの本丸が一番の高台となっているので、天守台に辿り着くまでに周囲の景色がよく見渡せるようになってくる。ここからは福岡タワーや福岡ドームなどが見えてきているけど、実はこれらの建物がある場所は埋め立て地で、この福岡城が存在していた頃にはこれらの場所は海だったのである。

 

福岡城跡の天守台にて

さていよいよ福岡城跡の天守台に近づいてきました。今では何もない天守台だけど、これだけの石垣が造られているという事は、それなりの建物がその上に建てられていたという考えも出来る。そして一説にはこの福岡城には天守閣が存在していたという話もある。

 

黒田長政が福岡入りして城を造らせた時には天守閣も一緒に造られたという説があるが、その天守閣は早い時点で取り壊されてしまったという。それには徳川幕府に睨まれる事を恐れて取り壊したとか、大阪城再建の資材に利用する為に使われたという話もあるけど、江戸時代の大半を通してここに天守閣は存在していなかったのは事実のようだ。

 

福岡市としては観光都市を目指す為にここに天守閣のような建物を再建したい意向があるようだけど、今の時代に作り物のお飾り的な天守閣は似合わないと思う。城跡だからって天守閣があるとは限らないし、完全な作り物だと違和感しか感じない。それよりもこの石垣だけ残されているだけで充分だし、この方がロマンを感じれるし。

 

 

天守台の景色 動画

 

 

ただ客観的にみても福岡城跡の知名度が無いのは、このように天守閣のような目立つ建物が無いからもあるだろう。しかし福岡の街はここに天守閣が無くても充分に素晴らしい街なので、今更新しい建物は不要だと思う。

 

今では日本有数の大都市となっている福岡市だけど、このように中心部には城跡に沢山の緑が残されている。

 

そんな天守閣もどきのような建物よりも、実は石垣の方が遥かに価値があると思う。だから福岡城跡地は天守閣もどきの偽物を見れる場所ではなくて、このように本物の石垣を見れる場所で居続けて欲しいと思う。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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2020年10月下旬に訪れた、福岡県から開始して佐賀~長崎~大分~熊本を巡る旅の開始。なお今回は旅仲間と巡りますが、初日の福岡巡りは前乗りという事もあって、1人で巡ります!
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