東京旅(2022年11月)-19
訪問:2022年11月中旬
門の外側!
さて東京都港区の愛宕山に造られていたNHK放送博物館の見学を終えた後は、東京都の中心部にあった「江戸城跡」へ向かって、一路北上していきます。
「江戸城跡」へ向かう!
明治維新から約150年が経過して、すっかり高層ビルなどが立ち並んで昔の景観が消え去っているように思う東京でも、このように地名には「外堀通り」など、かつての江戸城を連想させる名前が今でもアチコチで見られる。
東京中心部周辺は千代田区となっていて、江戸時代には中心部の江戸城を取り巻くように、各藩の大名屋敷が並んでいた場所。
大きな藩邸があった土地ばかりなので、その跡地には広大な敷地の大きな省庁などの建物が造られている。
仕事で何回も東京都には来た事があるけど、その当時は江戸城の歴史など全く興味が無かったので、このような内堀通り周辺に見られる石垣跡など、全く目に入る事が無かった。
江戸城を取り巻く内堀通り沿いには、こちらの古そうな赤レンガの建物が見えてきた。
こちらの建物は1895年に「旧司法省庁舎」としてドイツ人建築家が設計した建物で、第二次世界大戦中の空襲で屋根などが焼失してしまったものの、修復されて今では”国の重要文化財”にもなっている。
米沢藩上杉家の藩邸跡でござる!
なお、今では「法務省旧本館」として一般公開されており、開館中は無料で内部を見学できるようになっている。
その近くには、東京地下鉄有楽町線の「桜田門駅」の入口階段と、その奥には天下の「警視庁」の建物が見える。
警視庁内の不祥事などのニュースがあれば、いつも映される建物でもある。。
閉鎖された組織ほど、不祥事が多いぜ!
今では江戸城跡周辺を多くの車が走っている光景が見られるが、今から300年近く前の江戸時代には、この江戸城を中心にして日本が動いていた。
その為に、東京の街はこの江戸城を中心にして設計されており、このような江戸城跡に繋がる道が多い。
桜田門にて
そして警視庁の大きな建物から北側にある内堀通りの道路を渡った先に、「桜田門」という江戸城跡の門でも特に有名な門が見えてくる。
住所:東京都千代田区皇居外苑1-1
この桜田門が江戸城の門跡の中でも有名なのは、江戸時代のままに現存している門でもあり、更には幕末時代に歴史を変える”暗殺事件”が起きた場所だからでもある。
そんな暗殺事件は義務教育で習う程に有名な事件だが、学校の授業ではその暗殺が行われた現場跡までは詳しく教えてくれない。
だから「桜田門外の変」という歴史だけを知っている人は、この江戸城南側にある「桜田門」の外側で暗殺されたとしか、漠然に知らない人が意外と多い。
ちなみに桜田門と言っても、昔の門は2段構えの門となっていて、中央に見える外側の門が一般的には「高麗門」と呼ばれて、その奥にある大きな門は「櫓門」などと呼ばれている。
というボクも最近まで『桜田門外の変』という歴史的な出来事に全く興味が無かったので、この訪問時にも実際にどの辺りで井伊直弼が暗殺されたかまでは、全然知らなかったのである。。
「だから適当に”桜田門外”という位だから、この外門前辺りかな??」という程度に思っていた。
なお、江戸城跡周辺の橋や門は警官の詰所が随所に設置されていて、桜田門もこの標識のすぐ右側に詰所が設置されていて、長い警棒を地面に突き立てた警官が真面目な顔して立っていた。。
世界的に警備に当たる警官や軍隊の写真撮影はNGでござる!
こちらはそんな桜田門外から眺めた、江戸城跡の内堀。
現代人からすれば「江戸城跡」というよりも「皇居」という言葉に慣れているので、皇居の内堀と言った方が理解できそうにも思う。
桜田門外周辺を眺める! 動画
『桜田門外の変』は1860年3月24日の午前9時過ぎ頃に、実行に移されたとされている。
午前8時頃から周辺の大名が江戸城に登城していき、彦根藩の藩主:井伊直弼も他の大名を追うように、この奥左手にある彦根藩邸から護衛数十人に付き添われて、籠に乗って登城の列に加わった。
江戸城の南西側にあった彦根藩江戸藩邸から、近くの桜田門までは約500m前後の距離。
井伊直弼が乗った籠一行が襲われたとされているのは、その道中の真ん中付近で、今の警視庁が建っているすぐ北側である。
江戸時代に井伊直弼以外にも大老が暗殺された事件はあったが、平和な時代が200年以上も続いた江戸時代に”平和ボケ”していた事もあって、まさかこのような暗殺事件が起きるなんて想像にもしなかったのかもしれない。
井伊直弼の籠周辺には彦根藩士の護衛が60人前後付き添っていたらしいが、当日は大粒の雪が降っていた事もあって、大半の護衛は刀が濡れる事を嫌って袋に入れて登城していたという。。
平和な時代の功罪でござる!
イメージ的にはどうしてもこの桜田門のすぐ外側で事件が起こったと、勘違いして覚えてしまっている人も多いようだ。
ただ、実際にはこの桜田門近くまで達する前に襲撃され、護衛達が油断していた事もあって、あっという間に井伊直弼は討ち取られてしまったという。
この桜田門は2重の門となっており、内側の門は「内桜田門」とも呼ばれ、それに対してこの外側の門は「外桜田門」とも呼ばれるという。
という事はこの「外桜田門」の外側で襲撃された事件なので、正確には『外桜田門外の変』とすべきなのかもしれない。。
事件名は、学校の授業で覚えやすい名前にするぜよ!
井伊直弼を襲撃した一団は主に水戸藩を脱藩した浪士達で、尊王攘夷派に陶酔していた反乱分子であった。
井伊直弼が行った弾圧事件『安政の大獄』で、尊王攘夷派の水戸藩主:徳川斉昭が隠居に追い込まれて、余計に水戸藩士から恨みを買う事になった井伊直弼。
井伊直弼が行った『安政の大獄』では多くの著名人が弾圧され、牢獄に監禁されたり、処刑されたりしたようだ。
「吉田 松陰」(長州藩士)や「橋本 左内」(越前福井藩士)などの”思想家”とも呼ばれる文化人が死罪となった。
なお、薩摩藩の西郷隆盛も僧侶の月照と共に、投獄を逃れる為に京から薩摩の地に逃げ帰ったが、薩摩藩で西郷隆盛が敬愛していた薩摩斉彬の死後に藩の実権を握っていた島津久光は、薩摩藩にとって匿うのが厄介な人物「月照」の暗殺を日向で目論んだ。
しかし自分にとって大切な人物であった「月照」が事実上暗殺される事に気付いた西郷隆盛は、殺される前に2人で海に身を投げる事(投身自殺)にした。
だが海近くの住民に見つかってすぐに引き上げられ、「月照」は死んでしまったが、西郷隆盛は奇跡的に息を吹き返したという。
この身投げ事件で「もし、西郷隆盛が死んでいたら、後の明治維新は起きなかったかもしれない・・・」と思う程の事件だった。
なお、幕府からの追手には「月照」の死体を見せて納得させ、西郷隆盛も一緒に死んだと説明したという。
しかし実際には、西郷隆盛は偽名を使って奄美大島に送られ、そこで目立たぬように暮らすのであった。。
だから、奄美大島に島妻が居たんだな!
こちらは「内桜田門」とも呼ばれる櫓門で、1663年頃に造られたとされる江戸時代の建造物。
ただ、大正12年に発生した関東大震災で門の一部が倒壊し、その後に鉄鋼などが使われ復元されている。
ただそんな立派な桜田門の櫓門内側には、このようにここが江戸城跡とは思えない、大都会の光景となっていた。
門の面影はあまり変わらないけど、その周辺は大きく様変わりしていた江戸城跡であった。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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2022年11月上旬に訪れた、2泊3日の東京旅です。