ロシア旅行記:4日目
阪急交通社ツアー「お1人様参加限定:ロシア7日間」
-2020年3月12~18日
硫酸を掛けられた絵
エルミタージュ美術館にて
by ジョヴァンニ・アントーニオ・カナール(Giovanni Antonio Canal)
さてロシア旅行4日目はひたすら、エルミタージュ美術館の展示作品ばかりのオンパレードになっております。
一見すると写真のようにも見える絵画ですが、この絵はカメラが開発される前に描かれているものです。ですがピンホール現象を利用したカメラ・オブスクラという機器を使って下絵が描かれているので、写真のように正確な背景の建物が描かれているのです。
そして現地ガイドさんからは「この細かく描かれている人達の中に泥棒がイマス。どの人か分かりマスカ??」との問いかけがあった。勿論いきなりそんな質問を振られた所で分からないので、早速答えを教えてもらう。
するとこの中央に写っている、小さな少年がスリなんだって。そういえばスペイン旅行時にツアー参加者さんがスリ被害に遭いかけた時も、そのスリは子供だった。日本人からすると可愛らしい外国人の子供が、まさか自分をスロうとして近寄って来ているなんて思わないから、警戒心が全然無いのを逆に狙われているようだ。
ベネチアのサンマルコ広場近くのゴンドラ乗り場。
この豪華に見えるテーブルの表面に貼り付けられているのは孔雀石で、このロシアのウラル山脈付近が名産地なので豪快に孔雀石が使用されている大きな壺などが多く見られる。
by ポンペオ・バトーニ(Pompeo Batoni)
マリアとその幼子キリストのみ明るく描かれて、より印象的に聖母子を見せているようだ。そして左側にいるのは父親である聖ヨセフじゃなくて、マリアの父の聖ヨアキムだそうだ。そして左下にいるのはマリアの母の聖エリサベツで、右下にいるのは洗礼者ヨハネのようだ。
by ベルナルド・ベッロット(Bellotto Bernardo)
こちらの絵は1753年頃に描かれた、ヴェネツィア生まれで風景画家カナレットの甥にもあたるベルナルド・ベッロットの作品。この画家もカナレット同様にカメラ・オブスクラを使用して下絵を描いており、とても細かい風景画を作り上げている。
なお、ベルナルド・ベッロットの描いたワルシャワの街の風景画は、第二次世界大戦でナチスドイツ軍にほぼ壊滅させられた跡地の復興に役立てられた。ワルシャワの街はこのベッロットの絵を参考に精密に再建されて、見事再建された街ながらも世界遺産に認定されるのである。
人間が一番色を判断し易いのは自然光の下だという。前職が印刷関係だったボクはよく仕事で、印刷立会いに出向く機会が多かった。勿論印刷機は野外に置かれている事はほぼ皆無なので、印刷色を判断するのは基本的に室内のライトの下。
大概の印刷物を判断するにはライトの下でも問題なかったけど、OK出すかを迷った時はわざわざ工場の外に出てまで自然光の下で、印刷した色の判断をしたのを思い出す。。
「スペインの間」にて
さてお隣の部屋へとやって来ました。こちらは先程までのイタリアの絵画とは異なり、スペイン画家の絵画が飾られているコーナーとなっています。
スペインコーナーも巨匠の作品集が展示されているのよ!
こちらのコーナーにはスペインの当時国王だったフェリペ4世に気に入られて、宮廷画家となったディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez)の絵画が数点飾られている。個人的には幼いマルガリータ王女を取り囲む人々を描写した、プラド美術館の代表作でもある『ラス・メニーナス』を見て以来である。
by ディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez)
こちらは「昼食」というタイトルが付いた3人の食事風景を描いている。1617年頃の作品とされていて、まだベラスケスが若い頃に描いたもので、テーブルの上には2個のザクロとパンとワインが入ったコップが置かれている。それらはキリスト教の”聖体拝領”を表していると考えられている。
この絵には子供と青年と老人が登場している。それと共に後ろには白っぽい布が見える。個人的にはメイドの服をイメージしてしまうけど、ベラスケスは結構作品の手直しをしているので、これもひょっとしたら後ろに立っていた人間を塗りつぶした跡かもしれない。
by ディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez)
こちらはベラスケスが仕えた、スペイン国王フェリペ4世の肖像画である。ただ1658年前後に描かれた物なので、ベラスケスの晩年の作品である。またフェリペ4世自身もベラスケスと出会った時に描かれた肖像画に比べると、約30年経過した姿なのでだいぶお歳を召されているのが分かる。
by ディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez)
同じフェリペ4世の肖像画でもこちらが1638年頃に描かれた作品なので、先程のフェリペ4世よりもだいぶ若いのが見て取れる。先程の作品を見ると逆に言えば、晩年まで国王のお気に入りの宮廷画家で居られたという証拠でもある。
by ディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez)
こちらも1638年頃に描かれたベラスケスの作品。フェリペ4世の首席大臣であった為にサンルーカル・ラ・マヨール公爵の位を与えられたものの、オリバーレス伯爵の名前を貫き通した人物。若き日のベラスケスはオリバーレス伯爵の紹介によりフェリペ4世に引き合えた為に、ベラスケスの恩人でもある。
エルミタージュ美術館内に展示されている作品は、それぞれにこのように作者名・タイトルなどが壁に張られている。
なおこのブログを作っている最中にネットサーフィンをしていて発見したのだが、エルミタージュ美術館公式ホームページ内でバーチャル見学が出来るのだ。しかもそれで作品の情報まで見れるので、見逃した作品やタイトルや作者が分からないものはそれで調べる事が出来る。
by アントニオ・デ・プーガ(Antonio de Puga)
17世紀前半のバロック画家であったアントニオ・デ・プーガ。この頃の銃はまだ命中精度が低かったので、銃剣の方が正確だったと考えられていた時代。その大事なナイフを次の戦に備えて、研いでもらっている様子。
お次の絵は、ベラスケスと共にスペインを代表する画家フランシスコ・デ・ゴヤの作品である。
by フランシスコ・デ・ゴヤ工房(Francisco de Goya)
こちらは1811年頃の作品(ゴヤ工房)で、当時のスペイン女優ドニャ・アントニア・サラテを描いたもの。サラテが死去した後に描かれた作品で、前に描いた彼女の肖像画(1805年作)を見ながら描いたもので、珍しく自筆のサインが入っているという。
ちなみにゴヤは46歳の時に不治の病に冒されて聴力を失った。だがそれ以降も筆を取り続けたが、作風はダークな暗い雰囲気が多くなったそうだ。
この作品がエルミタージュ美術館に加わったのは、1972年と比較的最近の事。元々は1900年までスペインにあったが、アメリカに売却されて今に至るようだ。
by バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(Bartolomé Esteban Murillo)
こちらは1650年頃に描かれた作品で、ムリーリョの初期”冷たい時代”と呼ばれる頃のもの。この頃は庶民の貧しい姿などに熱中して描いていたそうだ。貧しいながらも「ハハハ、もう餌はないよ!」という感じで、微笑む少年の構図である。
by フランシスコ・デ・スルバラン(Francisco de Zurbarán)
スペインの画家スルバランによって1636年頃に描かれた作品。エルミタージュ美術館には彼の作品は4点保管されているそうだ。この聖ラウレンティウスはスペインで当時はまだキリスト教が禁止されている中で、ローマカトリックの最初の助祭となったが、その後捕まり死刑に処される。そして聖ラウレンティウスは生きたまま、火に熱せられた鉄網の上に横たえられて火炙りされて殉教したとされている。
by バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(Bartolomé Esteban Murillo)
こちらもムリーリョが1665年頃に描いた作品。現イスラエルのベツレヘムで生まれたイエスは、ヘロデ王の行った2歳以下の幼児虐殺命令を免れる為に、ナザレを目指して避難する途中の暖かい休息を描いている。
by バルトロメオ・カルドゥッチ(Bartolomeo Carducci )
こちらは16世紀後半のイタリア人画家バルトロメオ・カルドゥッチの作品。イタリアで修業を積んだが、後年はスペインで作品を残した。こちらもエジプトへ避難するマリアとキリストと父のヨセフが描かれている。
ただエルミタージュ美術館公式ホームページでのバーチャル見学の中で、この部分はエル・グレコの「使徒ペトロとパウロ」の作品になっていたけど、実際に訪れた時にはこちらの絵が飾られていて、「使徒ペトロとパウロ」の絵画はありませんでした。。
by エル・グレコ(El Greco)
こちらもスペインの巨匠エル・グレコが1570年頃に描いた作品。バスク地方の貴族であり詩人でもあったアロンソ・デ・エルシーリャの肖像画が描かれている。
by ルイス・トリスタン(Luis Tristán)
こちらは1614年頃に描かれた、エル・グレコの弟子であるルイス・トリスタンの作品である。この肖像画の本人である「ロペ・デ・ベガ(Lope de Vega)」は劇作家で、17世紀頃には”スペイン最高の劇作家”と称される位の人物だったそうだ。
スペインの絵画が飾られているのは2部屋しかないみたいだけど、結構濃厚な絵画が展示されているので、このエリアも見所充分のようです。
by ヴィチェンテ・ホアン・マシップ(Vicente Juan Masip(Juan de Juanes))
1560年前後に描かれた作品で、ルネッサンス期のスペイン画家ヴィチェンテ・ホアン・マシップ作。
by ルイス・デ・モラレス(Luis de Morales)
by エル・グレコ(El Greco)
by ルイス・デ・モラレス(Luis de Morales)
エル・グレコの作品はその約9割が宗教関連で、その残り約1割は肖像画だった。ちなみにこの聖人を描いた作品は宗教関連になるのか、それとも肖像画に入るのか・・・?
by アロンソ・サンチェス・コエーリョ(Alonso Sanchez Coello)
1583年頃にこちらの絵を描いたコエーリョは、スペインの画家で宮廷画家として活躍した。中でも国王フェリペ2世に気に入られて、彼の娘の1人であるこちらのカタリーナを描いた作品である。
「レンブラントの間」にて
「スペインの間」を終えて次に向かったのは、254室のオランダ美術が集まる「レンブラントの間」に進みます。
by レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt van Rijn)
すると早速1636年頃に描かれた、オランダを代表する画家レンブラントの作品と出くわします。こちらの「ダナエ」は先程のイタリア美術の中で、ティツィアーノ・ヴェチェッリオによって描かれた同じテーマを題材としています。
エルミタージュ美術館にあるレンブラント作品の中でも、”とある出来事”で有名になった作品よ!
古代ギリシャ神話の中で、このダナエという女性が産む子供が彼女の父親を殺すという神託をうけて、その父親が彼女を地下牢へと閉じ込めたのである。この女性についてレンブラントは、まず妻をモデルとし、その後は愛人もモデルとして描いたとされる。ちなみにこの絵の修復作業中に行われたX線検査で、元々右手は手の甲が上を向いた状態だったという。レンブラントはその後に手の平を前に向けるように上げて描いたとされる。
ダナエの頭上には黄金色の天使が飛んでいるが、手の部分を手錠みたいなので縛られているようにも見える。
そしてそんなレンブラントの大作である、こちらのダナエは過去に”硫酸事件”なる傷つけられた歴史があるという。それは1985年6月15日にリトアニア人の青年が、なんとこの絵に硫酸をかけたのである。その後に更にナイフで2回も切りつけられ、そんな破壊行為から約12年にも渡ってこの絵は修復が行われた経緯がある。
こんな名画を破壊しようとするなんて考えられないよね!
今日見られるレンブラントの「ダナエ」は、その硫酸が掛けられた跡が残っている絵である。
なので近くで見ると、このように絵に掛かった硫酸が垂れ降りていく筋が、残っているのが見える。さすがに硫酸を掛けられた損傷部分は酷くて、修復はしたものの以前の状態には戻せずに、作品の輝きは損なわれてしまっているのである。
「ダナエ」の絵は硫酸が掛けられてから30分もしない間に、直ぐに硫酸を水で洗い流して応急措置が取られた。しかしその時点でもう既に手に負えない位に損傷していたようだ。
特にダナエの足元辺りは思いっ切り硫酸を浴びたようで、この辺りの損傷が酷くて修復後も近くで見るとボヤけてしまっている。
元々の「ダナエ」を見ると、それまでの作品と修復後で硫酸を掛けられた痕が絵画にどれだけダメージを及ぼしているのかが理解できると思う。その事件以来、装甲ガラスに囲まれ、手荷物検査のセキュリティーは厳しくなり、液体類は持ち込み不可となった。
by レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt van Rijn)
この作品はレンブラントが名声を得る前頃の1634年頃の物で、妻であるサスキア・ファン・オイレンブルフ(Saskia van Uylenburgh)と結婚した年に描かれた。ローマ神話に出てくる春と花の女神である「フローラ(Flora)」を自分の妻をモデルにして描いたという。
サスキアは貴族の娘だったので、その財産でレンブラントの物を買い漁る浪費癖が強くなっていったのよ!
レンブラントの作品はこのエルミタージュ美術館だけで、なんと24枚も所蔵されているという。日本にレンブラントの絵が1枚来るだけでも大騒ぎして展覧会をするレベルなので、24枚ともなったらマニアは悶絶もんだろう。。
レンブラントは自身の作品でも特に多くの自己肖像画を描いていたという。それはあくまでも販売する為の物ではなく(画家自身の肖像画は人気が無いそうだ・・)、色んな衣装や表情を表現する為の練習台として取り組んでいたそうだ。そしてレンブラントが画家として人気が出たのは、当時は写真がなくて肖像画が主流だった時代に、その人物の特徴を捉えて精密な肖像画を描ける能力があったからだ。
by レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt van Rijn)
1657年頃のレンブラントの作品で、嬉しそうにイヤリングを付ける女性の姿が描かれている。
レンブラントは最初に結婚した裕福な家柄に生まれた妻:サスキアの財力を活かして、徐々に美術品・工芸品・衣装・装飾品などを周りからすると浪費しているように収集し出す。1642年に妻のサスキアが亡くなり、それ以降は仕事が少なくなり収入も無くなりながらも借金までして、自分が欲しい物を買い続けた。
それと共に画家としても自分が納得いくまで時間を掛けて作品を作り込み、顧客を何ヶ月も待たす事が定番化していた。また自分の気に入らない要望は受け付けなく、更には飼っていた猿が死んでしまった時は依頼を受けていた家族の肖像画になんとその猿の絵を勝手に加えてしまったという。そして当然の如くそんな状態のレンブラントには、仕事のオファーが殆ど来なくなるのであった。
更に英露戦争でオランダ経済は不況となり、債権者に財産を差し押さえられてしまう。無一文となりながらも絵の創作活動だけは衰えずに、晩年にも名作を送り出すのであった。しかし妻サスキアと再婚相手の愛人、そしてサスキアとの間に生まれた4人の子供も全てレンブラントの生前に亡くなり、なんとも悲惨な晩年を送ったと思われるレンブラントの人生である。。
by レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt van Rijn)
こちらは1642年頃にレンブラントが描いた作品。旧約聖書の「サムエル記」に出てくる当時のサウル王が、ペリシテ軍の巨人ゴリアテを倒して名声を得たダヴィデの存在を恐れ、一転ダヴィデの命を狙う事になる。命が狙われているダヴィデに対して、自分の命の危険を冒してまでそれを伝えに来たサウル王の息子であるヨナタン。
無垢な心を持っていた王子ヨナタンは、まさか父サウル王が本当にダヴィデを殺そうと思っているとは考えていなかった。そしてある晩にダヴィデに言われた通りの振る舞いをして、父サウル王のダヴィデに対しての本心を探り出す。すると激怒してダヴィデへの嫉妬心を見せ付けたサウル王の姿に、ダヴィデを殺そうとする真意を見てしまったヨナタン。
そしてその事を伝えに街外れへと出向き、ダヴィデに自分が間違っていた事を泣きじゃくりながら伝えるヨナタン。そして今後は会うべきではないとして、別れを告げる。ダヴィデとヨナタンはお互いに泣きじゃくり、男同士で口付けを交わしという。そんな場面を描いたという、この作品である。ちなみに後でダヴィデは、ヨナタンとの友情は「女の愛に勝る、驚くべき愛」と言ったそうだ。なのでこの場面は昔からゲイを表現するものとして、使われる事が多かったようだ。
結局サウル王の手から逃れたダヴィデは、竪琴(ハーブ)の使い手としてサウル王に使えていたので、サウル王の前に表れて竪琴を演奏したら、サウル王から悪霊が抜けていったという。和解したサウル王とダヴィデであったが、その後侵攻してきたペリシテ軍の前に山まで追い詰められて、サウル王と息子ヨナタンと共に自害したそうだ。
それと余談であるが、このヨナタン(Jonathan)は綴りの通り、英語圏ではジョナサンやネーサンの名前の由来ともなっている。そしてちょうどこの絵が描かれた時期にレンブラントは妻を失くしており、彼女との別れとの意味合いも込めていた可能性が考えられている。
by レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt van Rijn)
1637年頃のレンブラントの作品。これはキリスト教のたとえ話で、ブドウ園の主人は街の広場へ朝早く出掛けて労働者を雇った。しかし早くブドウの収穫を終えたい主人は一日何回も広場へ労働者を見つけに行きます。そして昼頃に雇った労働者にも、夕方に雇った労働者にも同じ当日1日分の賃金を払う事を約束します。
そして1日の労働が終わり、遅く仕事に就いた労働者から先に1日分の賃金を支払い、次は昼から働いた者に支払い、そして午前から働いた者へと順番で同じ1日分の賃金を渡して行きます。すると朝早くから働いた労働者は、自分より遅く働きに来た者と同じ賃金が払われる事に不満を感じて抗議をした。
すると抗議した労働者たちにブドウ園の主人はこう言った。「友よ、あなた達には不正などは一切していない。私は契約した人達全員に、契約した通りの給料を払いたいだけだ。私の物を私がどう使おうと、私の勝手である。さあ自分の給料を貰って帰り給え!」と。
結局ブドウ園の主人が殆ど働いていない労働者にも同じ賃金を支払ったのには、下記の3つの理由がある。
①ブドウ園の主人は気前がよかった
②労働者と契約し、契約通りの賃金を支払った
③労働者には人間らしい生活を送るのに、1日分の賃金が必要だから
あくまでも労働に見合う対価という意味で賃金が支払われている訳では無く、”その労働者に必要”だという意味合いで支払われたようだ。
さてまだまだレンブラントの作品コーナーは続きます。
by レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt van Rijn)
1634年頃のレンブラント作品。十字架から外されたキリストの体はグッタリと脱力した感じの亡骸感が出ていて、そんな様子に失神したように見えるマリアの姿も描かれている。
by レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt van Rijn)
1634年頃に描かれたとされるレンブラントの作品。レンブラントは晩年に老人の肖像画を多く描いたようだが、若い頃はまだ年齢の重みに対してそこまで興味がなかったのかもしれない。
by レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt van Rijn)
1640年頃に描かれた、ある御婦人の肖像画。レンブラントが描く女性像には、彼の妻や2人の愛人がそのモデルになったとされている。やっぱり身近で普段から見続けている、愛している女性を描きたかったのだろうか。
by レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt van Rijn)
1645年頃のレンブラントの作品。大工として生計を立てていたヨセフの貧しい家庭を表した暗い感じながらも、実生活では子供が早死にしたりして幸せな家庭が築けなかったレンブラントは、理想の家庭愛を込めて描いたとされる。
by レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt van Rijn)
1652年頃に描かれたレンブラント晩年の肖像画の傑作の1枚と言われていて、キッパを被ったしわの深い老人が静かに椅子に佇んでいながら内面の落ち着いた雰囲気が溢れ出ているようにも感じ取れる作品。
こんな旅はまた次回に続きます!
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