愛媛県/松山旅行記㊷
旅行期間:2020年9月23日~26日
松山市が誇る偉人
さてJR松山駅から徒歩で伊予鉄:松山市駅まで向かっていたが、初日に訪れた時に閉まっていた「正宗寺子規堂」を先に訪れてみる事にした。こちらがその正宗寺という寺の敷地内で、その一角に「子規堂」という小さな資料館が設置されている(※見学は有料)。
ここは「正宗寺」という臨済宗妙心寺派の寺で、桑名(三重県)から移封されてきた久松松平家:初代藩主の松平定行が松山城天守閣を5重から3重に造り替えた時に余った木材を転用して、その際に造られた寺だという。
正宗寺子規堂にて
そんな正宗寺になぜ正岡子規の資料室があるかと言えば、ここの昔の住職が正岡子規と幼馴染で文学仲間であったのが影響していて、ここは正岡子規の菩提寺ともなっているからである。そしてこの「子規堂」の入場料は、なんと50円である。
ここは寺の敷地内で子規堂の入場券は子規堂ではなくて、寺の建物の受付窓口で購入する必要がある。でも入場料が50円と言う格安の値段は、個人的にはそこまで人も来ない場所だったら、わざわざこのような入場券を発行して管理している経費の方が高く付くのではないかと思ってしまう。
今回愛媛県松山市を訪れて初めて、この松山市では正岡子規がこの場所で一番の偉人として扱われているのが分かった。愛媛県以外に住んでいる人からすると、正岡子規という名前を聞くとイチ俳句人というイメージがあるけど、こちら愛媛県内では神様にも匹敵する程の扱いとなっている。
そんな正岡子規は明治時代に生きた俳句人だけど、35歳で死去しており、早逝な偉人でもあった。それだけに余計にその人生が膨らまされて未だに尊敬されているのかもしれない。
ここには「正岡子規埋髪塔」と書かれた看板が設置されていて、どうやらこの辺りに正岡子規の毛髪が埋められているようだ。このような偉人の毛髪などを後世まで残すという風習は、仏教の創設者である仏陀の時代である約2,500年前から続くものである。
2020年にスリランカを訪れた際は、そんな仏陀の歯や毛髪とされているものが保管されている場所が、未だに熱心な仏教信者たちが巡礼する聖地となっていたのを思い出す。
こちらにも勿論このように「俳句ポスト」が設置されていた。今の日本にはこのような俳句文化が薄くなりつつあるけど、愛媛県内では重要な文化である俳句を後世にも残していく活動が、このようにして行われているのである。
子規堂の前には「旅だち」と文字の入った、16歳でこの松山市を出て東京へと上京するまだ少年のように見える正岡子規の像が置かれていた。そしてこの2020年のコロナ禍のご時世もあり、銅像にはこのようにマスクが付けられていたが・・。
ここ子規堂は入場料50円と微々たる料金を徴収していたけど、無料にしていると誰でも勝手に入ってくるので、下手に室内が荒らされるのを恐れて敢えて50円という安いけど入場料が設定されていたのかもしれない。
子規堂内でお勉強!
子規堂の入口にはこちらの説明が張られてあり、この建物は正岡子規が16歳まで過ごしていた家を当時の俳句仲間だったこの寺の住職が、この場所にそれを復元して直筆の手紙などを残したのが始まりだという。
この建物自体は正岡子規が住んでいたとされる家を復元したものなので、実際に彼が住んでいた建物を移築して残されている訳ではない。なお子規堂内は土足で見学できるようになっていた。
この「子規堂」は正岡子規に関する資料が展示されており、特に注意書きとかなかったけど、これら資料は本物の直筆のものだろう。こちらには俳句が全盛期を迎えていた際に『ホトトギス』という全国的な知名度をもつ俳句雑誌に連載された、日本人なら誰でも知っている作品のタイトルが書かれている。
この『坊つちやん』を作った夏目漱石は東京で正岡子規と出会って意気投合し、その後は一時正岡子規と同じ建物に同居していた時代もあって、夏目漱石は大いに正岡子規の影響を受けたと考えられている。
この子規堂館内はとてもシンプルな展示室となっていて、かつこの時は他に見学者が誰もいなかったので、ゆっくりとリラックスしながら見学する事が出来た。
正岡子規は東京の学校を中退して松山に戻り、夏目漱石は帝国大学を卒業して、高校の英語教師として赴任する。しかしこのこの頃に漱石は神経衰弱となり、静養と正岡子規に会う目的もあって松山市内の中学校に移転する。この写真はその夏目漱石が移転してきた頃の松山中学校先生陣の写真のようだ。
この一角は夏目漱石ゾーンとなっていて、こちらに置かれていたのは夏目漱石のデスマスクだそうだ。デスマスクというのは本人が死んだ時の顔を型にとって作ったものなので、日本語に置き換えると「死顔」を再現したものでもある。
こちらの本には正岡子規が「日本新聞」という、今では残念ながら存在していない新聞会社に入社して、初めて給料で買ったという絹物の羽織生地が張り付けられている。このように一般の資料館などにはあまり見かけられない、マニアックな資料まで展示されている子規堂。
正岡子規は日清戦争の時に従軍記者として満州国へ渡ったが、帰国の際に乗っていた船で吐血し、それ以降は常に病と闘った人生でもあった。そんな後半は満身創痍な人生であったのを救ったのが、俳句だったのであろう。
こちらに置かれている写真は正岡子規の写真としてよく登場してくるもので、明治33年に撮影されたこの写真が彼にとって最後の写真になったという。
正岡子規は当時から俳句雑誌などで優れた俳句を発表していた事もあって、当時から多くの俳人仲間達から常に囲まれて、尊敬されていた人物でもあった。
そのメンバーの中には同じ松山市出身の俳句人である、「高浜虚子」なども含まれている。
こちらの夏目漱石の写真もまだ若くて、学生時代の頃のようだ。夏目漱石というと千円札にも肖像画が使われていたのもあって、口ヒゲを蓄えているイメージがあるけど、イギリスに留学した影響が大きかったのかもしれない。
左側の夏目漱石の写真は、晩年の物でこの頃にはしっかりとした口ヒゲが蓄えられているのが見える。右側の機関車は正岡子規や夏目漱石などが道後温泉を訪れる際によく乗ったとされる、伊予鉄が最初の頃に運営していた蒸気機関車。今ではその蒸気機関車が「坊っちゃん列車」と名付けられている。
仲が良かったとされる正岡子規と夏目漱石だけど、夏目漱石はイギリスに海外留学した経験があるが、正岡子規には海外に出た経験がない。だから国内しか知らない正岡子規だったけど、もし彼が海外に出ていたならば、もっと違った俳句が生まれていたかもしれない。
ここは正岡子規が住んでいた家の居間跡を再現していて、このような状態で正岡子規は俳句を考えていたとされている。今の時代とは違って約100年以上も前の生活様式が、驚く程に変わっている事が見て取れる。
昔の人達は蛍の光じゃないけど、まだあまり灯りが普及していなかった時は月明かりなどの下で読書をしていた。それに比べると、この現代はスイッチ一つで夜中でも明るくなるので、とても幸せな時代である。
こちらは明治18年に正岡子規が初めて帰省した際に、彼の母親と一緒に写った一枚。正岡子規の顔もこの写真を見る分には、そんなに男前な顔ではなかったようだ。。
この子規堂は50円という入場料の資料館であるが、そんな安い入場料金の割に結構ギッシリと狭い部屋ではあったが、正岡子規についての資料や写真などが飾られている場所であった。
こんな旅はまた次回に続きます!
よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!
↓↓↓↓愛媛・松山旅行記:初回↓↓