子規堂がある正宗寺に飾られていた、千代の富士の優勝額【愛媛旅行記㊸】

愛媛県/松山旅行記㊸

 旅行期間:2020年9月23日~26日

 

意外な物

ここは愛媛県松山市の松山市駅近くにある「正宗寺」という寺の敷地内に造られていた、子規堂という正岡子規の資料館。この寺で昔住職をしていた人が正岡子規と幼なじみで文学仲間だった事もあって、彼が暮らしていた家を復元して直筆の書物などを展示する場所となった。

 

子規堂内を更に見学!

ここで展示されているこのような書物は特に何も説明がされていないのが多かったけど、恐らく直筆のノートとかだろう。こちらには誰かが書いた俳句に配して、赤で直しが入れられている箇所が見受けられる。

 

こちらはまだ学生時代の正岡子規の写真で、学生時代の写真ってやっぱり誰でも若々しく、そして幼く見えるものである。たまに自分の学生時代の写真を見返すと、自分も若い時期があった事を思い出すのであるが。。

 

正岡子規が生まれたのは、江戸時代最後の1867年。その生まれた翌年には江戸幕府が大政奉還を行い、明治時代に突入する。そんな激動の明治時代に正岡子規は育ち、そして死んでいった。

 

そんな明治時代は西洋文明が堰を切ったかのようになだれ込んできた時代であるが、都会に比べて地方の生活には少しずつ西洋文化が入り出したけど、そこまで浸透していた訳でもなかったようだ。

 

こちらは晩年に写された正岡子規の写真を基にしたと思われる、肖像画も飾られている。正岡子規の晩年に撮られたという最後の写真はよく見かけるけど、この時は病気に侵されていて背中を真っ直ぐに伸ばせない状態だったそうだ。だから顔を上げないといけない正面からの写真ではなくて、横からの写真になっているという。

 

正岡子規の元には多くの俳人たちが慕って集まって来ており、そんな弟子たちに残したと思われる、各人にあてた俳句が見られる。

 

こちらの畳が敷かれた部屋の一角は、さっき見た居間から新しく増築してもらった勉強部屋。このように机を置けるスペースさえあれば、子供は充分に勉強が出来る。ただ今の時代はこのような机の上で勉強するというよりも、パソコンやスマホなどがあれば他は不要になりつつあるが。。

 

そして昔の人達は色んな名前が付けられていて、画家や文筆家などはそんな名前とは別に自分で”雅号”という独自の名前を付けていた。正岡子規もここに書かれているように「櫻亭仙人」「老櫻漁夫」「香雲散人」などという雅号を毎年付けており、実は「子規」という名前も本名ではなく雅号なのである。

 

小学校の頃は習字などの時間によく筆で文字をこのように書いていたけど、今の時代はパソコン&スマホ時代になっているので、全然ペンを手に取って文字を書くという行為をしなくなってしまっている。まだ仕事をしていた時はメモ書き程度にはしていたけど、会社を辞めてからは殆ど文字を書く機会が無くなってしまった。。

 

それだけに昔の人達は何を書くにもこのように自ら筆を持って、硯に墨を擦って書いていたと思うと、今からそんな時代にタイムスリップしても生きていけないように思えてしまう時代である。

 

 

正宗寺の敷地内にて

子規堂の見学を終えて建物から出て、敷地内には正岡子規に関連するものが色々と展示されていたので、それらも見て回る事にする。

 

こちらは松山市で正岡子規の次に評価されていると言ってもいい程に人気な夏目漱石の像。コロナ禍の影響もあって日本全国の銅像などに、このようにマスクが取り付けられている事が多かったけど、こういう歴史的な人物の像に対してマスクを着用させるというのはちょっと残念な印象を持ってしまう。

 

こちらは本物かは確認していないけど、四国で最初に鉄道が敷かれた松山駅の看板である。次の駅には先程まで訪れていた「三津(みつ)駅」の名前が記されているのが見える。

 

この松山市では昔使われていた蒸気機関車が「坊っちゃん列車」として展示されていたり、今ではたまに市内を走っていたりするけど、元々は「坊っちゃん列車」として使われていた訳ではない。それはあくまでも鉄道が日本に普及し出した当初はこのような蒸気機関車ばかりで、そんな蒸気機関車を使って正岡子規や夏目漱石が移動していただけ。

 

それを強引に夏目漱石の小説『坊っちゃん』にこじつけて、「坊っちゃん列車」と命名して松山市としてそれをPRしているだけといったように感じてしまうのである。。

 

なおこの車両はそんな蒸気機関車の後ろに付けられていた客車で、”マッチ箱のような汽車だ”と『坊っちゃん』の中で表現されているという。なおこの客車を引っ張っていた機関車は、さっき訪れていた梅津寺駅近くの公園内に展示されているという。

 

こちらは車内にも入る事が出来るけど、そんな約100年前に使われていた車両とは思えない位に、そこそこに綺麗な内装となっていた。マッチ箱にしては外から見ている以上に、中に入ってみるとその空間にゆとりを感じた。

 

1888年にヨーロッパから輸入された機関車などは、当時のお金で3,341円50銭だったという。今になっては考えられない程に当時とは金銭価値が変わっており、世界経済は時代を経る毎に成長していっている。だからウエルスナビのCMじゃないけど、銀行に預金していても利息など殆ど無く、世界経済状態に合わせて変動していく株などに投資していかないと実質損している事に最近気が付いたのであるが。。

 

四国で最初に鉄道が敷かれたのが、この松山~~三津の間である。最初に四国で引かれた線路という事は、四国内でこのそれぞれの場所が最も賑わっていて重要な場所だったという事の裏返しでもある。

 

正岡子規は明治時代になって日本に入ってきたベースボールをこよなく愛していたという話は、あまりにも有名過ぎる。ただし晩年は体を壊して、そんな大好きなベースボールをプレーできなかったのが残念だっただろう。

 

しかしそんな彼が愛したベースボールは日本で人々に愛される事になり、今では走者・四球・直球などと普通に使われている野球用語は正岡子規が生み出したとされている。そのような影響もあって、正岡子規は野球博物館でも展示されている。

 

こちらは正岡子規が明治31年に新聞日本の中で発表した俳句であるが、この時はまだキャッチャーやベースなどという外来語がそのまま使われていたようだ。

 

このように正宗寺は正岡子規の菩提寺でもあるので、このように正岡子規に関連するものが多く展示されていて、松山市内を訪れて時間があれば立ち寄ってみる価値が大いにある場所でもある。

 

この正宗寺は江戸時代にこの地にやってきた久松松平家の初代松山藩主である松平定行が、新しく移った松山城の天守閣を五層六重の建物から三層四重に改築した際に余った余材を使って建てられた寺だという。

 

 

そんな正宗寺の本堂手前にはこのような石碑が置かれていて、その脇に立てられている札には「元横綱 千代の富士」と書かれているのが見える。

 

秋晴れて 両国橋の 高さかな

by 正岡子規

石碑にはこのような正岡子規が相撲の秋場所を見て読んだ句と共に、第58代横綱:千代の富士直筆のサインを模った文字が彫られているのが見える。どうもここの住職が千代の富士と親交があったらしく、その付き合いもあってこのような石碑が置かれているようだ。

 

そして寺の人に聞いてみたら、「本堂内には千代の富士の優勝記念額が飾られているので、是非見て行ってください!」との事だったので半信半疑で本堂に近寄ってみた。

 

すると壁にはこのように「優勝額奉納」と書かれている札が張られているのが見える。

 

そして窓から覗くとこのような寺には不釣り合いのようにも見える感じで、このように昭和63年(1988年)の7月名古屋場所で全勝優勝した時の優勝額が見えた。なお下記HPの記事ではここの住職と千代の富士はとても親しくしており、年に4~5回はお忍びでやって来てゴルフなどを楽しんでいたという。

 

 

寺を通るとこのようなメッセージが張られている掲示板を、必ず最近は見てしまう。大概どこの寺でも素晴らしい内容が記載されているのだが、ハートマークが張られているのを見たのはこの寺が初めてだったかもしれない。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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