綾城の横にある吊り橋は、照葉大吊橋ではないので注意!【宮崎旅行記㉟】

宮崎県旅行記2020年-㉟

 旅行期間:2020年10月18日~22日
(Note that the suspension bridge side to Aya Castle is not the Teruha Suspension Bridge!)

大きくはない吊り橋!

さて背筋に冷や汗を掻くようにドキッとした綾城内の見学。それにしてもここまで不気味に見える人形を設置している城も珍しいけど、暑い時期に綾城を訪問する人にとっては涼しく感じれる一瞬を味わえる空間かもしれない。

 

 

綾町にある綾城内にて

この3階建て構造になっている綾城で、展示物がある1~2階はそれなりにじっくりと見学したハズだけど、まだ見ていなかった展示物があったのでそれをじっくりと見ている事にする。こちらの版画のような物は、1510年に伊東氏領内で起きた『綾の乱』という内輪揉めで、その責任を取って自害させられた家来の供養碑の拓本である。

 

その『綾の乱』は当時の殿様:伊東尹祐の傍若無人な振る舞いを思いとどまらせようとした家老が、この綾城に籠城した事件である。しかし身を張って当主に考え直しを求めたが、最終的には責任を取って身内など一族を伴って自害する事になる。

 

この綾城で起きた悲しい話として受け継がれている『綾の乱』は、この時代にはよくある話である。当時は正室以外にも世継ぎを増やす為に側室を数人抱えていた。この時代は世継ぎとして子供が生まれても、その半数は成人の年齢に達する前に病気などで死ぬケースが多かった。そして世継ぎを残せない場合は跡目争いが起きて、家が潰れる可能性が高かった為に何とか世継ぎを残そうと子供を産む目的で側室を何人も殿様は持っていた訳である。

 

日向伊東氏8代当主である伊東尹祐は、設けた正室には子供は産まれなかったけど、側室が男子を産み落とした為に大層喜び、家老に早速その男子を世継ぎとする事を宣言した。しかし数年後に家来の妻に一目ぼれした伊東尹祐は、なんとその家来の妻を自分の側室にしてしまった(勿論家来との結婚を解消させて)。そして数年後にその家来の妻だった福永氏の娘が御懐妊し、有頂天になった伊東尹祐は「福永氏の娘が男子を産めば、それを跡取りにする!」と宣言する。

 

既に跡取りを決めて世間にも周知されていたにも関わらず、家来の嫁をぶんどっただけではなくて、更に前言撤回して新しい嫁の子供を跡取りにすると言い出した当主に、長倉若狭守祐正垂水但馬守という2人の伊東氏の家老が当主の急な心変わりに反対の意を示し、長倉若狭守祐正が城主をしていた綾城に籠城する事になる。

エロ坊主オジサン
エロ坊主
オジサン

秀吉も同じような事をしているし、先に産まれた子供を殺したヤツもいるけ!

 

 

その際に綾城の城主の座を虎視眈々と狙っていた重臣の1人が、当主:伊東尹祐に対して長倉若狭守祐正の事をアレコレと悪く言って伝えた為に、伊東尹祐は激怒して家老が籠城する綾城へ兵を送り込む事になる。そうして窮地に陥った家老達は当主と闘うつもりは毛頭なく、兵を出動させて城を包囲されるまでの騒動を引き起こした責任を取って、それぞれの家族一族と共に自害したのであった。

 

このような悲しい話は綾に住む人達に語り継がれ、さっき拓本で見た「六地蔵塔」という供養塔が町に造られた。今から約500年前に造られた供養塔もさすがに長年の風化によって、その文字が全く読めない状態になっている物もあるようだ。

 

 

しかしその『綾の乱』を引き起こした張本人の伊東尹祐も、その強奪した家来の娘が3人の男子を産み、その中には伊東氏の全盛期を作った伊東義祐もいるので、あながち間違った判断だったとは言えずに結果的にはそれなりの選択をしたとも言える。ただ昔からそのような欲情での選択は周囲の賛同は得にくく、お家騒動の原因ともなり易いものであった。。

 

という事で伊東氏の城の中心地ではないけど、伊東氏を知るうえでも勉強になった綾城の見学はこれにて終了。この日は朝イチに来た事もあってか、他の観光客とは全くこの綾城内ではスレ違わなかった。人気がない場所とは思わないけど、このコロナ禍にもあって、わざわざ綾城まで訪れる人も少ないのかもしれない。

 

綾城の入口にはスタンプが用意されていた。城にはこのようなスタンプが用意されている事が多いけど、普段城の見学をする時にこのようなスタンプを押す事はボクはまずしない。けどここ綾城ではこのスタンプを押す人が少なそうなので、スタンプが寂しがっているかと思って、ここでは珍しく城スタンプを押した訳である。。

 

 

綾陽校記念にて

綾城の敷地内にはこのような年代物の外観をしている建物があった。こちらの建物は『綾陽校記念』という、明治22年頃(1888年)に造られた綾小学校校舎として使われていたものだそうだ。

 

綾小学校校舎として造られてから約130年が経過するこの建物は、3回の移築を経て今ではこの場所に落ち着いているという。勿論この建物は小学校として使われる事はなく、今では明治時代に使われていた農具や生活用具などを展示している記念館となっている。

 

この建物は桁行27mもあって、小学校校舎として造られた為にそれなりの広さとなっている。昔はこの廊下を子供達が雑巾がけしていた事だろう。現代の子供達はモップを使ったりして掃除しているので、雑巾がけなんて足腰が鍛えられていないので出来ないのではなかろうか?

 

このように記念館内の部屋には、昔の農具などが無造作に展示されているのが見える。昔の人達はこのような農具を使って朝から晩まで畑を耕していただろうけど、今ではそんなのは少なくなって農耕機械に頼る時代となっている。

 

こちらの書は明治時代の物かも思っていたけど、よ~~く見ると平成23年に書かれたものだった。綾町は昔から自然が豊かでいい町だったようだけど、観光客を呼ぶには決め手がない町かもしれない。。

 

こちらの記念館にも昔の民家の様子を再現するように、おじさん・おばさんの人形が置かれている。そして裏にある障子はうまい事、部分的に破けてある様子も再現されている。

 

こちらは先程の綾城内にあった蝋人形とは違って、背筋がゾクリとする程の精巧さはなくて、普通の人形であった。今は何でも簡単に手に入る時代となってしまったので、物が壊れたり使えなくなったら買い替える手段を選ぶ事が多いけど、昔は何でも修理して使っていたのである。

 

こちらは綾城の無料駐車場だけど、ボクが着いた時から駐車されている車の台数が変わっていないように見える。・・・という事は、ボクがここに滞在している間に訪れた人が殆どいなかったという事だったのかもしれない。。

 

 

綾城近くにある吊り橋にて

そして駐車場ですぐに車に乗らずに奥へと進むと、綾城の物見櫓から見えていた吊り橋が見えてくる。ここはパンフレットなどに載っている大きな吊り橋ではなくて、普通の吊り橋だけどせっかく来たのでこの橋を記念に渡ってみる事にする。

 

この橋はこれから行こうと思っていた「綾の照葉大吊橋」程は大きくはないけど、それなりの長さに見えている。

 

その手前にはこのような看板が設置されていて、この辺りでたまに開催される『綾ひゃらひゃーつウォーク』というウォーキングイベントで通り道となっている橋のようだ。このコースは近くにある馬事公苑をスタートして、この綾城まで巡る約5kmの工程となっているようだ。

 

勿論この橋は無料で通れるけど、都会に住んでいるとこのような吊り橋を普通に渡れる機会がまずないので、ここでもそれなりに楽しめる。それに橋の脇には木々が生い茂っていて、なかなかいい雰囲気も出ているし。

 

少し進むと視界が開けてきて、周囲には木々が生い茂る景色が見えてくる。そして空も今日は快晴で、とても気持ちがいい吊り橋ウォーキング日和である。

 

このようにそんな言う程に長い橋ではないけど、高所恐怖症でなければ楽しいウォーキングコース。普通の道ばかり歩くよりも、このような吊り橋を歩くという変化を加えるだけで、歩くのが楽しくなってくる。

 

 

橋からの景色 動画

 

 

この橋からは先程訪れた綾城が山の上に鎮座しているのが見える。このように山の端側で町の様子や遠くが一番見渡せる場所に、綾城が造られていたのがここからだとよく見て分かるのである。

 

お城というと殿様が豪華な暮らしをしていた場所という勝手なイメージが頭に知らぬ間に植え付けられているけど、実際には城という場所は豪勢な生活をする場所ではなくて、戦いの拠点になる砦として造られた建物である。なのでこのように見晴らしが良くて、なおかつ簡単に敵に攻め込まれない場所を選んで造られている。

 

これから綾町名物の大きな吊り橋を見に行くのだから、「わざわざこんな普通の吊り橋で遊ばなくてもいいのに・・・」と思う人もいるかもしれない。しかしどんな場所でも自分で足を運んで、そこに立って自分の目で見て、自分の鼻で匂ってみると意外な発見を見つける事が出来る。

 

この名前も分からない吊り橋に来て発見出来た事は、山の上にある綾城が町や遠くを見晴らせる絶妙な場所に造られていたという事だった。下の町から見た綾城よりも、この橋から見た綾城の方がその立地をよく見て取れたのであった。

 

そして橋の足元は、このようにシースルーになっている部分もある。なのでスマホなどで写真を撮る時は、誤って落とさないように注意しないといけない。ボクの場合はスマホケースに付ける、リングのストラップを指にハメているので手から落としても下まで落ちる事はまずない。

 

しかし他の多くの人達はスマホにストラップを付けずに手で持っているだけの人が多いので、もしこの橋からスマホを落としてしまったら、恐らく悲惨な事になる事だろう・・・。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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