和歌山市旅行記2021年1月-⑫
旅行期間:2021年1月某日(当日旅)
『暴れん坊将軍』の像!
和歌山城のかつて西の丸という藩主が隠居した後に住んだ御殿があった場所に、今では「わかやま歴史館」という資料館と観光案内&お土産物屋が入った建物が造られている。
「わかやま歴史館」見学の続き!
こちらの書は「円窓梅花図」というタイトルとなっていて、この書を描いたのは紀伊国紀州藩:第10代藩主だった「徳川 治宝(はるとみ)」である。徳川治宝は満81歳まで生きた長寿であった事もあり、紀州徳川家歴代藩主の中でも特に芸術などに秀でていて、一流の文化人として名を馳せていた人物だったようだ。
こちらの書状も徳川治宝が書いた物とされており、年始に挨拶に来た人物に対してのお礼状だったという。徳川治宝は長寿だった事もあって、隠居してからも権力を保ち続け、その後の3代に渡る藩主達に大きな影響力を持っていたようだ。しかしそんな長期で紀州藩を操っていた徳川治宝が亡くなると、治宝に仕えていた家臣団は新しい勢力に粛清されたという。
そして後に外務大臣となって外国と結んだ不平等条約を改正した立役者の陸奥宗光の父親は、この徳川治宝の小姓として長く務めて気に入られていた。しかし治宝が亡くなると、陸奥宗光の父親は紀州藩から追放されてしまう。しかし後から歴史を振り返ると、この時に紀州藩を追放された事により陸奥宗光も脱藩に抵抗がなくなり、その後の坂本龍馬との出会いに繋がっていったように感じるのである。
そしてこの「わかやま歴史館」内には、当時の一流文化人で茶人でもあった徳川治宝が造園した大名庭園「養翠園」内に築いた『茶室:実際庵(じっさいあん)』が原寸大のサイズで復元されているのである。
戦国時代に大きく発展した茶道は、この江戸時代にも大名達に気に入られて、日本文化に欠かせない作法となっていった。このような芸術が大きく発展する背景には、その道を支援する大きなスポンサーが不可欠で、和歌山での茶道などの芸術が大きく発展した裏には徳川治宝などの存在があった。
この茶室があった日本庭園「養翠園(ようすいえん)」は、紀州藩:第10代藩主の徳川治宝が命じて約8年の歳月を経て完成したという。この和歌山城から南の方に行った和歌山湾沿いに造られた日本庭園だったので、その庭園内にある池の水には全国的にも珍しい海水が使われていて”汐入りの池”として有名だったという。
紀州徳川家でも随一の文化人で風流人でもあった徳川治宝は、わざわざ陶芸の名人を呼び寄せて城や別宅などで焼き物を作らせていたという。また当人も焼き物の製作を行っていて、庭で作られた事もあって”御庭焼き”とも呼ばれていたとか。
こちらの焼き物は徳川治宝の跡を継ぐ為に御三卿:清水徳川家から養子としてやってきて、第11代藩主となった「徳川 斉順(なりゆき)」が焼かせた焼き物だという。この徳川斉順は江戸幕府第11代将軍:徳川家斉の七男にあたり、そして後に第14代将軍となる徳川家茂(慶福)の父親でもあった。
こちらの書状は紀州徳川家の祖である「徳川頼宣」が書いたもので、家康の側近でもあった甲斐国の秋元泰朝という武将を茶会に招く内容になっていた。このように一流の大名となると、それなりに小さい頃から礼儀作法が教育されてきているので、普通に文化人の階段を登っていたのであろう。
こちらは室町時代に作られた能の『石橋(しゃっきょう)』という作品内で、獅子が登場する演目で専用のお面として使われていた物だという。江戸時代には獅子(ライオン)は日本国内には存在していなかったので、あくまでも想像上の生き物として牙歯を大きく剝き出しにした顔で表現されていたようだ。
この能『石橋』の内容は、仏陀が歩いた道のりの跡を追うように歩いていた仏僧が、中国の清涼山という文殊菩薩の聖地に辿り着いた時の事となっている。そこから山に向かって架っていた石橋を渡ろうとしたら、近くの人が”生半可な人間では渡れないから止めておけ!”と諭される。
ここまでが前半で、後半にこの面を付けた獅子が出て来て、牡丹を脇にして激しい舞いが繰り広げられる。そしてその獅子の激しい舞いが”文殊菩薩の霊体験”という意味合いになっているという。
【半能:石橋狻猊之式】 動画
最後にトコトコ去っていくのが、その仏僧かいな・・・
こちらの有名な肖像画は紀州藩:第5代藩主を務め、更には江戸幕府:第8代征夷大将軍まで務めた「徳川 吉宗(よしむね)」である。財政難に苦しむ紀州藩の藩主に就任して、約10年間の間で藩政改革に着手して、同時に質素倹約も先陣を切って取り組み、大名としては質素な木綿の服を着用し続けたという。
なお、この肖像画は描かれている人物が存命の時代に製作された絵ではなく、吉宗が死去してから後年になって描かれた肖像画である。江戸時代も時代が進む毎にこのような肖像画製作の技術が上がっていき、また昔の藩主の肖像画を後年になって新たに製作するという事も意外と多かったようだ。
そういう場合は実際の顔などを絵描きは見ていないのであくまでも想像で描かれており、吉宗は福耳が特徴だった徳川家康のひ孫でもあったので、その福耳の特徴が引き継がれているように描かれたようだ。
こちらは紀州藩の寺に徳川吉宗が藩主時代に寄進したという、銅灯篭の竿部分のようだ。ここに彫られている文字の中に「権中納言:吉宗」とあり、徳川吉宗が権中納言となった藩主時代に贈られた物と推定されている。
こちらは徳川吉宗が青年時代に、馬に乗っている様子を描いた「騎馬野馬図」という絵。吉宗は身長が180cmもあった特に大柄な人物だったらしく、馬に乗る姿も立派に見えたようだ。そして腕力も強かったようで、その影響で『暴れん坊将軍』の異名を取って、近代にそれを題材にした時代劇ドラマが作られて大ヒットしたようだ。
こちらは「徳川吉宗:黒印状」という、人吉藩の藩主だった相良近江守から祝儀を貰ったお礼として書かれた物のようだ。このように昔からお礼状を返すという文化が日本人には根付いており、それを欠かさず丁寧に送る人物が礼儀があるとして好意をもたれていたのだろう。
この館内には、このように『CGで蘇った、和歌山城』というコーナーもあり、1850年に天守閣が再建された後の和歌山城の状態を学術的な考察に基づいて復元した景色が見られた。
ホンマにこんなデカい城やったんかな?!
現代人が昔の和歌山城を見たら、腰を抜かす事だろう!
そんな紀州徳川家の歴史などを勉強して外に出ると、すっかり『暴れん坊将軍』のテーマ曲が頭の中で響いている状態になっていた。そんな状態でこのような吉宗の暴れん坊将軍をモチーフにした顔出しパネルを見ると、さすがに記念写真を撮りたくなってしまう。
こちらは『暴れん坊オカン』verです!(笑)
それに続いて、こちらは『暴れん坊将軍』というよりも、”白馬の騎士”のような凛々しい顔をした漢が写った写真。なお、徳川吉宗は好奇心が強かったらしく、ベトナムから象を輸入している。この象はまず長崎に届いたが重た過ぎて国内を渡す船に載せれなくて、陸路を歩かせて74日も掛けて江戸城に迎え入れられたという。
官位が与えられた、史上初めてのゾウでもあったのよ!
とりあえず和歌山城天守閣と「わかやま歴史館」の見学を終えたので、これから城の南側に設置されているという徳川吉宗の銅像を観に行く事にした。その際に通ったのが、こちらの「追廻(おいまわし)門」で城の西側にあった砂の丸に造られていた門である。
この「追廻門」は第二次世界大戦時の和歌山空襲でも焼失せずに、江戸時代前期に造られたまま現存している門の1つである。そして薄っすらと朱色のような色となっているのは、途中で鬼門に向いていた為に魔除けの朱色が塗られたからだという。
暴れん坊将軍の像とご対面!
そして和歌山城の南側にある「和歌山県立近代美術館」や「和歌山県立博物館」が立ち並ぶ、三年坂通りの広い歩道に”暴れん坊将軍”の像が設置されているのが見えてくる。
その吉宗の像の手前にあったのは、こちら「和歌山市道路元標」のモニュメントだった。この和歌山県庁前交差点は、京都市~奈良市~和歌山市に至る「国道24号線」と、大阪市~堺市~岸和田市~和歌山市に至る「国道26号線」の起終点となっている。
この像の台座脇には、白い球状の置物が鎮座している。これもこの像の一部として設置された物で、広い視野で思考を張り巡らせていた吉宗公らしく、世界の広さを表す地球のようなイメージを表現しているようだ。吉宗は西洋馬や象などを海外から取り寄せ、また江戸幕府が禁止していた海外の書物の輸入も、キリスト教に関連する書物以外は輸入を認めさせた。
そして鎖国自体は続けられたものの、文化の異なる西洋諸国の書物などが国内に流通するようになり、そういった海外文化を研究する『蘭学』が発展していった。そして幕末の討幕に参加した九州の藩では、蘭学思想が強く、先進国だった西洋から新しい技術を取り入れて、閉鎖的な日本でも時代を先取りしていった。
この徳川吉宗が有名なのは時代劇ドラマ『暴れん坊将軍』がヒットしただけではなく、江戸幕府の征夷大将軍として財政革命を実現した人物だからである。吉宗は紀州藩主時代に既に藩財政改革を断行し、借金まみれだった紀州藩の財政を黒字転換させていた。
江戸時代に行われた財政改革では、まず第一にリーダーが率先して倹約質素に励んで、その様子を家臣や庶民に見せつける事によって、全体に倹約思想を植え付けた。そして2つ目には今までの長年慣例とされていた事にメスを入れ、徹底的に無駄な事を排除したのである。倹約質素は自分が我慢すればいいのだが、藩政にメスを入れる事はそれまで既得権益で甘い汁を吸っていた人間たちに大反対を喰らうので、何よりもリーダーの忍耐力が試された事だろう。
暴れん坊将軍のように回転する像?! 動画
なおこちらの吉宗像を製作したのは、富山県出身の彫刻家「田畑 功」氏で彼の作品は国内に1,000点以上も存在しているという。
ちなみにボクがこれまでの旅で、田畑 功氏が製作した像で見た事があるのが
こちらは先日訪れた米沢城跡の上杉神社内にあった、上杉鷹山の像
こちらは道後温泉街の入口にあった、正岡子規の野球姿座像
こちらは愛媛県松山市の松山城脇のロープウェイ乗り場近くに設置されていた、夏目漱石の『坊ちゃん』に出てくる主人公と、そのマドンナをイメージした像。
こちらはその『坊ちゃん』カップルの近くに設置されていた、松山市で今でも敬愛されている加藤嘉明の像
こちらは熊本県の水前寺公園内にあった、細川幽斎(藤孝)公の像
田畑功さんの製作した銅像は、意外と見た事がありましたね!
『暴れん坊将軍』とも呼ばれた徳川吉宗だけど、その『暴れん坊将軍』のテーマ曲が頭の中で鳴り響くイメージで眺めると、段々テンションが上がってくる吉宗公の銅像であった。
【暴れん坊将軍 オープニングテーマ】
こんな旅はまた次回に続きます!
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