尾道(広島)&岡山旅行記2021年3月-㉟
旅行期間:2021年3月某日(3泊4日旅)
旅はまだ2021年!
明けましておめでとうございます。
遂に2023年を無事迎えて、今年は新型コロナウイルスとの共存が進み、穏やかな一年になる事を見越しております。ただ、この旅行記自体は過去に行った分を順番にアップしてきているので、未だに2021年3月時点での旅となっております。
という2023年の新年を迎えたメッセージはさておき、旅行記は2021年3月と約2年前まで遡っております。
因島水軍城:資料館の見学!
前回に引き続き、瀬戸内海の島の1つである因島中心部に造られている「因島水軍城」という資料館を見学して行きます。
この瀬戸内海エリアでは、「能島村上家」・「因島村上家」・「来島村上家」と3つに分家した村上氏が海賊集団として大きな勢力を誇っていた。その3つの村上氏の中で因島村上家が、この因島を本拠にして活動していたとされる。
このような島だらけの瀬戸内海では、太平洋のような外洋での戦法とは違って、この狭い海域ならではの戦法が使われていたようだ。こちらの資料は「水軍戦法要領」という、水軍の船の陣形などを教える書物。
こちらの肖像画の人物は、3つに分家した村上氏の始祖ともされている「村上義弘」である。この村上義弘は南北朝時代にこの伊予地方で活躍した海賊的な武将で、この瀬戸内海地方で村上性を名乗っている人にとっては、関係性が深い人物である。
こちらは尾道遺跡から出土した土器類が展示されている。尾道は昔から陸上及び海上の航路途中の中継地点で、色んな物が流通していた事がこの出土してきた土器類を調べれば分かるようだ。中国製の陶磁器などの破片も見つかっていて、海外からの品々も尾道を流通していた事を示している。
こちらは「武家万代三島海賊家軍日記」という、江戸時代初期に作られた村上水軍の日記である。過去の歴史などはこのような昔の書物を分析し、そこに記載されている事項などを他の資料と整合しつつ、検証されていく。
なので世界的に歴史のある地方でも、このようなその歴史を記した書物が現存していない所では、”空白の歴史”が出来てしまう。日本では江戸時代に平穏な時代を迎えた事によって、このような書物が沢山残され、かつそれらが燃やされる事も少なかった為に、江戸時代の歴史は詳しく解明されているのだ。
一言で「海賊の村上氏」という表現がされているが、実際には村上氏も分家して、それぞれに独自の活動をしていた為に一括りにしてしまうと誤った認識となる。ただ観光客からすれば、簡単に”村上海賊”の事を知りたいけど、詳しく調べれば村上氏でも色々あって、一気に覚えきれないのが難点である。。
左側にポスターのある「白滝山」は、標高約220mほどの元々は僧が修行する場所だった山。因島村上氏の第6代目当主:村上 吉充が布刈瀬戸の見張り場所として、観音堂を建てたのが始まりとされているようだ。
この因島水軍城の資料館内自体はこじんまりとして、15分程でサクッと展示品を見学できる程のサイズ。本気で村上氏の歴史を勉強しにきた人間からすればもう少し欲張りたくなるけど、しまなみ海道サイクリング途中に寄り道した観光客にとっては、ちょうどいいサイズの資料館に思えた。
こちらは広島県の重要文化財に指定されている「白紫緋糸段縅腹巻」という鎧。この鎧は因島村上氏の第6代目当主:村上 吉充の養子で跡取りである吉亮が元服した際に、小早川隆景から贈られた鎧とされている。
こちらにはその因島村上氏の第6代目当主で、戦国時代から江戸時代に掛けて動乱の時期を過ごした「村上 吉充(よしみつ)」についてのコーナーとなっている。戦国時代でも初期頃に毛利・小早川氏に属して瀬戸内海周辺の海戦に参加し、毛利家と織田家の海戦となった”第一次木津川口の戦い”でも参陣し、織田家水軍を撃破している。
こちらの肖像画はその第6代目当主だった村上 吉充を描いたもの。数々の武勲を挙げた事により、小早川隆景から”新蔵人”という官位を与えられており、「村上(新蔵人)吉充」と記載されている資料も多い。
なお、この村上(新蔵人)吉充が描かれている肖像画は、尾道市の重要文化財に指定されている。この肖像画の他に村上吉充が描かれている物は見つかっておらず、その貴重さが認められたようだ。
第6代目当主だった村上吉充の時代に、3つの村上氏は最盛期を迎えたとされる。しかし豊臣秀吉が天下統一を果たすと、国内の治安を乱す山賊や海賊の取締りが厳しくなって、それぞれに毛利家や懇意にしている大名に組み込まれていく。
こちらに飾られている鎧兜は、因島村上氏ゆかりの物のようだ。陸上で戦う武将だと分かるけど、水軍として水上で戦う武将もこのような鎧兜を身に着けていたイメージが全然湧かない。海戦というと、大砲をぶっ放すイメージしか頭に描けないので、このような鎧を着て刀で斬りつけに行く姿が想像しにくい・・・。
伊達政宗の兜のような綺麗な三日月型の前立てが付けられていて、そこに狛犬のようなワンちゃんのオブジェが取り付けられているのが見える。
そして資料館で、たまにこのような精巧な蝋人形が設置されていて、一瞬本物の人間かと思ってビックリして冷や汗を掻く瞬間もある。特に他に見学者が居なくて、自分だけの空間かと油断している時に余計にビックリする事が多い。
あまりリアルな人形は作らないように・・・・
そして鎧の下に着込んでいた鎖帷子。戦の多かった時代には毎日のように戦わなければいけない時もあり、このような鎖帷子を面倒くさいけど着込むだけで、それが命運を分けていた。重たい荷物を背負うように苦しくなるけど、それで命を救える可能性が高まる事を考えると、保険代わりだった鎖帷子。
海軍って日本刀を持って切り込むイメージが無いけど、接近戦ではこのような刀が重要な役割を果たしていた事だろう。戦う場所が地面の上か? 水の上か? だけの違いで、基本的な接近戦は同じ戦いだった事だろう。
そしてこちらには槍の先にはトゲトゲが付けられていて、見るだけで痛そうなイメージが頭に浮かんでくる「熊手(やがら もがら)」が展示されている。こちらの武器は海賊や水軍独自の武器で、2m近くの長さとなっていて、敵を引っ掛けて海に落としたりしていたようだ。
そして漁師が使う銛のように、先端に鈎状の突起が取り付けられていて、これで相手の体を突き刺して、それで揺さぶっていたようだ。平家と源氏との最終決戦となった壇ノ浦の戦いが描かれている絵巻でも、このような先端にトゲトゲのある槍で、海に落ちた平家の人間を引きずり上げるシーンが描かれていたのを思い出す。
そしてこちらには、水軍らしい形の兜がズラリと展示されているのが見える。戦国時代の武将は特にお洒落というか、兜の前立てにひと際凝っていたデザインを施していたので、鎧よりも兜を見ているだけで楽しめるのである。
こちらは「六十二間小星兜」(日輪の後立)という、日輪(太陽)を背中にして戦うと、その助けがあると考えられていた事に基づいて作られたデザインとなっている。昔の人達は特に信仰心に厚かったので、戦場で救いになる事があれば、躊躇なく取り入れていた事だろう。
こちらの兜は「革六十二間筋兜」という、革で作られた軽量の兜。陸上と違って海軍では、その重量によって動きが制限されてしまう事もあり、身に付ける武具などの重量にも気を使っていたようだ。
こちらの兜は「雑賀型兜」で、真田幸村の有名な兜の鹿の角部分が、この雑賀型兜では海軍らしく”さざ波”となっている。このように海の上を常に戦場にして戦っている漢にすれば、さざ波のデザインを兜に入れたくなったのだろう。
こちらは「唐冠兜」(大鹿の角脇立)という名前が付けられているが、鹿の角っぽいデザインというよりは、中国での伝統工芸品でもよく見られる翡翠などを削って制作した珊瑚礁の彫刻作品のようなイメージに見える。
こちらは「六枚張筋兜」という名前だが、特に兜の名前は前立ての形をイメージするものは付けられていなくて、どうも兜の形式を表す名前が付けられているようだ。こちらの前立てには、角があって耳が大きく、しかもヒゲがある不気味な生物が模られている。
龍をイメージしたんじゃろうか?
こちらは「三十二間筋兜」という兜だが、特に水軍の武将が付ける特徴的な前立てではなく、普通な兜に見える一品。
そしてこちらの兜はとても特徴的で、このように蟹の前立てがデザインされている。ただし兜の名前は「鯖尾型兜」となっていて、前立ての蟹には関係なくて、兜の先端が鯖の尾のように二股に裂けた形となっている事から命名されたようだ。
こんな旅はまた次回に続きます!
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