熊本&鹿児島旅行記2021年12月-3
旅行期間:2021年12月頭(2泊3日旅)
綺麗過ぎる城!
2021年春に新しく再建された、熊本城の天守閣。2016年の地震で被災した教訓を受けて、次に大きな地震が来てもビクともしないような耐震設計がなされている、鉄筋コンクリート造りの天守閣となっている。
熊本城天守閣の見学!
この熊本に再訪したのは、この新しく完成した天守閣の中を見学したかったからでもある。普段は昭和時代以降に再建された近代的な鉄筋コンクリート造りの天守閣よりも、江戸時代から残る木造建築物の天守の方が好きなのであるが、やっぱり目の前に天守があれば入りたくなってしまうのが、日本人のサガでもある。
こちらの案内板によると、小さい天守閣の方は建物の重さを石垣で支えていた為に、地震で石垣が崩壊してしまうとそれと共に建物も倒壊してしまったようだ。なのでその教訓を活かして、今回の再建では昔のまんまではなく、建物を石垣から分離させて、万が一下の石垣が崩れても上の小天守の建物は耐えれるように設計変更がされているようだ。
作り物のプラモデル模型を乗せたような感じにも見える、熊本城の天守閣。鉄筋コンクリート造りでの天守閣も賛否両論あるだろうが、このような大きな天守を昔ながらの木造建築物&石垣で復元するとなると、かなりの手間が必要となるのだろう。
天守閣への入口は、こちらの小天守側の1階部分に造られていた。そしてその入口で待ち受けていたのは、「蛇の目」の家紋と、「九曜」の家紋である。この熊本は江戸時代に2つの家柄が治めていた土地で、それぞれの家柄の家紋が入口に飾られていたのである。
歴史好きなら、こん家紋ば見るだけでわかるよね?!
全然、判らんで・・・
熊本城の天守閣内!
そしてコロナ禍という御時世だったので、検温と消毒を済ませて天守の建物内に進んで行く。鉄筋コンクリート造りで再建された天守閣だが、足元は昔の石垣が使われている。
ただ「石垣」といっても純粋に大きな石だけを積んでいたのではなく、外から見て表側を大きな石で積み上げていたが、その内側は水通しを考慮して砂利などが詰められていた。日本は雨の多い国でもあるので、このような水通しも考えて石垣を作る必要があった。
このように見事に積まれた石垣も、頑丈に思えても数百年が経過して、その最中に大きな地震などが発生すると、さすがに石垣も緩みが生じてしまう。地震があまり起きない地域であればもっと長持ちしたかもしれない石垣だけど、日本に生きている人間は地震からは逃げられないので、修繕していく他ないのである。
小天守側の入口を入った所はこのように近代的な空間となっていて、前の旅で訪れたような江戸時代から残る松江城と比べると別世界のような空間ともなっている。せめて白い壁などは木造っぽい「木の目」柄を貼ったりして、昔の城っぽい雰囲気だけでも出す工夫が欲しかったように思う。
あまりわがまま、言いなさんな!
日本では大きな地震が起きる毎に、そのような地震がまた起きても建物が倒壊しないように、耐震基準を引き上げていく。この熊本城の天守閣も次に2016年と同様の地震が起きても崩れないように、石垣の内側ではこのような鉄筋で支えられていた。
こちらに柵がされていた穴が見えたけど、ここは昔からあった「井戸跡」のようだ。敵が万が一攻め込んできた際の”最後の砦”でもあった天守閣で、最も大事な物が「水」だった。兵糧は沢山貯蔵できても、水は腐ってしまうので、このような湧き水が手に入れられる井戸は、天守にとって必需品でもあった。
この小天守1階部分は井戸だけではなく、かまどなどの設備もあって、籠城した際に台所として使われる機能も備えられていた。このように籠城した際には、立て籠もる兵士達の食料も手当する必要があった為に、自炊スペースがあったようだ。
そして階段を登って2階に進むと、壁一面に熊本藩の歴史などの説明がされているパネルが貼られていた。前に熊本に来た時にはこのような歴史をあまり勉強出来なかったので、嬉しい気持ちが湧いてくる。
ただこの熊本の歴史では、多くやって来る観光客にとって優しい内容となっていて、主に加藤清正時代からの歴史がメインとなっていた。勿論熊本の地にはそれ以前の歴史も多くあるのだが、何でもかんでも説明しても観光客の頭にインプットされる情報は限られているので、知名度の高い加藤清正時代からとなっていたのかもしれない。
こちらが戦国時代後半から江戸時代初期に活躍した武将、「加藤 清正(かとう きよまさ)」の肖像画である。”虎退治”の有名な逸話の残っている人物でもあるが、本当に自らの槍で虎を仕留めたのかは具体的な資料が残っていないので定かではないようだが。。
加藤清正は豊臣秀吉にその才能を見出され、この肥後国:約20万石を与えられた。そして秀吉の晩年に行った朝鮮半島への出兵では、同じく肥後国:約20万石を与えられた「小西 行長(こにし ゆきなが)」とライバルのように競い合って功績を残すが、途中で秀吉が亡くなってしまい、朝鮮を攻める理由が無くなった事もあって帰国の途につくのであった。
秀吉に認められて可愛がられた加藤清正も、秀吉が亡くなるとその息子:秀頼に付くのではなく、徳川家康に接近した。そして家康の養女を嫁に貰って親交を深め、関ヶ原の戦いには参陣しなかったものの、九州で西軍に加担した小西行長などを討伐して功績を残した。
そのような功績が認められて、小西行長の領土も合わせて約50万石という大国を任された加藤清正。だが徳川治世の時代となってから10年程で加藤清正は亡くなり、熊本藩2代目藩主となった息子の「加藤 忠広(かとう ただひろ)」が跡を継いだが、約20年後に改易となって熊本から加藤家は排除されてしまうのである。
その為にここ熊本の地で加藤家が治めていた期間というのは合計40年程とかなり短いのであるが、加藤清正が大きくこの熊本城とその周辺を大きく改造した事もあって、その偉大な功績が今でも庶民の間で崇められる存在となっているようだ。
こちらはこの熊本城の大天守と小天守の模型が展示されていた。江戸時代に造られた城も、このように事前に実際よりも小さい模型サイズでサンプルを作成して、強度や問題点を確認してから本番の建設を行っていた。
熊本藩を治める事になった加藤清正は、約50万石という江戸時代では徳川家の親藩(名古屋&紀伊)を除くと、前田家・島津家・伊達家に次ぐ4番目の規模の大名だったので、これだけの大きな城が築かれたのだろう。
そして熊本城は南側からの攻撃を想定して石垣などの防御施設は造られているので、鹿児島の薩摩藩を特に警戒していた事が分かる。秀吉の時代から簡単に平伏する島津家ではなかっただけに、江戸時代を終わらせる原動力にもなったのが島津家というのも納得できる気がする。
天守閣という建物も、必ず城に必要な建造物ではなかった。あくまでも”時代の流行り”のような存在で、最初は織田信長が自分の覇権をアピールする為に、豪華な天守閣を魅せ付けるように造ったのが最初だとされている。また江戸時代の江戸城は、天守が焼失してしまった後に、必要の無い建物だとして再建されないまま江戸時代を終えている。
戦国時代は下剋上の時代で、新しく出てきた勢力が全国的に知名度がないのを補うように、派手な天守閣を建てて全国的に知名度アップさせる為に競い合って造っていたのかもしれない。特に加藤清正は同じ肥後国を与えられたライバル:小西行長に刺激され、特に目立つような天守を築く動機となったとも考えられよう。
この熊本城には小西行長の居城だった「宇土城」から移築されてきたと考えられている「宇土櫓」が、唯一江戸時代から熊本城内に残る”五階櫓”として現存している。明治時代に大小天守が焼失して再建されなかった為に、大小天守がない時代に宇土櫓が「第三の天守」としてその代わりを果たしてきた。
※近年の研究で、宇土櫓が宇土城から移設されてきた説も可能性が薄くなっているようだ。
こちらは大天守の最上階に造られていたという御殿の建物だけを、再現した物。秀吉の配下として豪勢な大坂城の天守を見てきた加藤清正だっただけに、それに似た豪華さを再現する為に、金色の襖なども設置していたのだろう。
天守閣という建物は基本的には有事の際にしか使われないので、ここまで豪華な内装にこだわる必要がない。藩主は基本的に本丸脇の御殿で藩政を行うので、よほどの事が無い限り、この天守の最上階までは登らなかったと思われる。
こちらには「石垣の基礎知識」が説明されていた。城の土台となっている石垣は外側から見れば大きな石が綺麗に積まれているだけのように思うけど、このように中の方は大きな岩ではなく、「裏込め」と呼ばれる小石や砂利などが詰められている。
こちらは明治時代の焼失される前に写された、熊本城天守閣の古写真が展示されていた。今の再建された新しい天守閣だけしか見た事のない観光客からすれば、かつてこのようなボロっちい天守が建っていたなんて、想像も付かない事だろう。
そして天守の周囲には、五階建ての櫓が6棟も造られており、こちらの写真にはまだそれらの五階櫓が綺麗に残されている光景も見られる。ただ明治維新後に廃城令となり、不要になった門や櫓などは新しい町を作る建築資材として流用されてしまった所が多いので、このようなかつての古写真はとても貴重な風景が見られる品ともなっている。
こんな旅はまた次回に続きます!
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