梅津寺町で海を眺める、日露戦争の英雄:秋山好古&真之兄弟銅像【愛媛旅行記㊲】

愛媛県/松山旅行記㊲

 旅行期間:2020年9月23日~26日

 

英雄の立場

ここは愛媛県松山市でも西側の海沿いにある「梅津寺町」で、駅前から広がる海岸線の砂浜を散策してきて、これから駅にポスターの張ってあった「秋山兄弟の銅像」が近くにあるというので見に行く事にする。

 

こちらは伊予鉄道の伊予鉄高浜線:線路で、約15分間隔で電車が運行している。なのでそこまで田舎という感じはしないけど、そんなに人の姿を見れる場所でも無い。

 

梅津寺町を散策していると、このような昔のお城跡みたいな石垣が見えてくる。グーグルマップで調べるとここには寺があり、「梅津寺」というこの地方の地名が付いている寺となっていた。

 

そんな綺麗な石垣にあった階段を登っていくと、このような社殿が見えてくるが、それ以外に特に目を惹くようなものは見当たらない。という事でちょっと境内を覗いただけで立ち去るとする。

 

さっきの海沿いにあったカフェで秋山兄弟の銅像の場所を聞いたら、「すぐ近くですよ!」と言っていたけど、近くにあった山の上の方に行っても全然それらしき銅像が見当たらない。。

 

ちょっとした登り坂を進んで行くと見えてきたのは、「松山市立高浜中学校」。そしてこの学校を越えて先に進むと墓地らしきものが見えてきて、どうもこの先を行っても銅像が見当たらないような気がしてきた。しかも雨がパラパラ降ってきたので、一旦駅まで引き返す事にする。

 

という事で一旦梅津寺駅まで戻る道を進んでいると、このように「秋山好古・真之兄弟:銅像」と書かれた看板を発見する。さっきのブエナビスタというカフェで「すぐ近くの山の上」と言われたので、てっきり大きめの山かと思っていたけど、実際に銅像が設置されているのは山というよりも丘に近い場所のようだ。

 

その秋山兄弟の像が設置されているのは、このように伊予鉄の線路脇から20mぐらいの左側の丘の上。ここから小さく丘の上に鎮座している銅像が見えている。

 

ここは遊歩道となっていて、銅像を見に来る人用に道が綺麗に整備されているので、安心して通る事が出来る。

 

そんな遊歩道の先には奥へ渡る道もあったけど、ここは立ち入り禁止となっていて、奥は雑草などが生い茂る未開の地のようだった。

 

 

秋山兄弟の銅像と対面!

さて丘の上に向かって進んでいると、目の前にそれらしき銅像が見えてくる。しかしこの時点では恥ずかしながら、ここに銅像が設置されている秋山兄弟の事については全然知らなかった。

まあ何事も一番最初は知らない状態から入るので、これからどれだけ勉強するかが重要です!

鯛五郎丸
鯛五郎丸

何事にも興味を持って、勉強をする事は大事タイ!

 

銅像に向かうと、一緒に並んで立っているのではなく、このようにちょっと微妙な間隔で離されており、しかもそれぞれに違う角度を見つめていた。

 

こちらの銅像は「秋山 好古(あきやま よしふる)」氏の物で、秋山兄弟のお兄さんに当たる方である。生まれは1859年と江戸末期で、松山藩の下級武士の家に生まれた。

 

そして明治時代になって陸軍へ入り、その後にフランスへ留学して騎兵などについて学ぶ。そして帰国してからも独自な騎兵隊の戦略を練り上げ、当時最強の騎兵隊と言われていたロシアのコサック隊を日露戦争では見事に打ち破り”日本騎兵の父”とも呼ばれていたという。

 

なおこの秋山好古の銅像は海の方角に向けて造られていた訳ではなくて、実はその海の先にあった日露戦争での主戦場であった満州国に向けて造られているという。

 

江戸時代は徳川幕府が鎖国政策を行っていたが、明治維新後は色んな人物が西洋に渡り、最先端の文明や技術を学んで帰ってきた。それにより日本ではそれまでの日本という国が育んできた大事な伝統の多くが失われてしまったが、世界の優れた物を即座に吸収した国だからこそ、アジアの中では植民地となる事が無かった。

 

その像の横にあったのが秋山好古の実の弟である「秋山 真之(あきやま さねゆき)」の像である。兄の秋山好古は陸軍で活躍したが、こちらの弟である秋山真之は逆に海軍に入隊し、日露戦争では東郷平八郎が艦長を務める「戦艦:三笠」に乗り込み、バルチック艦隊撃破に貢献した人物。

 

銅像の足元には「智謀如湧(ちぼうわくがごとし)」という四文字熟語が入れられており、これは戦艦三笠で艦長だった東郷平八郎から贈られた言葉である。この意味は漢字から推測すればある程度想像できるが、文字通り常に優れた策略を生み出す人物だったという事のようだ。

 

この秋山真之は小さい頃から同郷で育った正岡子規とも仲が良かったらしいが、文学に進んだ子規とは違い、国を守る為に海軍に入隊した。しかし海軍と言ってもガタイの強さで押す訳ではなくて、この銅像がポーズしているように本を読んで知能的な戦いをしていたというイメージになっている。

 

秋山真之は日清戦争に従軍した後にアメリカへと留学している。そしてこの案内板によると、元々道後温泉の近くにある石手寺境内に置かれていたものをここに移転したそうだ。そしてこの像が向いている先は、目の前の海ではなくて、日露戦争時に海戦が行われた対馬海域の方角を向いているという。

 

同じ兄弟と言えども陸軍と海軍で戦う場所が異なり、そしてその銅像が見つめる先もそれぞれに満州国と対馬海域と異なっている。

 

ただこの2体の銅像目線で後ろから眺めてみると、それぞれともに目の前には木の枝や山が邪魔していて、彼らが見ているとされている場所が見えなくなってしまっていたが・・・。

 

伊藤博文公と栽松碑にて

そんな秋山兄弟の銅像を見学した後は線路沿いに南の方へと進もうとしていたら、線路脇に何やらの案内板が立てられているのが見えてくる。

 

こちらにあったのは「伊藤博文公と栽松碑」という案内で、道後温泉近くに昔あった湯築城でその地を支配していた河野家が家臣を連れて広島に逃げて、その家臣の子孫の1人が後に初代内閣総理大臣となる伊藤博文だという。

 

この松山市に先祖の由来があるという伊藤博文と他の有志がお金を出して、この付近に松を植えた跡だという。こちらにはそれを記念したような、古い石碑が設置されているのも見える。

 

 

港山城跡を目指す!

そして次の目的地はここから歩いて行ける範囲にある「港山城跡」。この線路沿いに南の方向に進んで行けばそれがあるらしく、写真左側に見えているこんもりと緑が生い茂る小高い丘の上にどうやらそれがあるみたい。

 

この伊予鉄の線路にあった歩行者専用の踏切は、経費節減の為に最初からポールが下ろされている。都市部の線路では考えられないかもしれないけど、地方の採算の採れない路線などではなるべく維持費が掛からないようになっている。

 

なので都会の線路では降りている踏切のポールを押し上げて通るなんて事はタブーだけど、ここの踏切ではそれが常識。逆に押し上げないと通れないようになっているのだ。

 

ここ伊予鉄高浜線も登りと下りの電車2車線の路線しかなく、それぞれに約15分間隔で走っているのでそんなに頻繁に電車が通る訳でもない。

 

ただこの歩行者用踏切には電車が近づくと「カンカン!」と音が鳴る警告が無いので、ちゃんと自分で左右を確認して安全を確かめてから通る必要がある。ただこの踏切には警報機は無いけど、周辺の踏切に設置されている警報機が鳴るので、耳を澄ませていればもし電車が近づいてきたらそれで判断が出来る。

 

普段都会に住んでいると、このように田舎というか地方の生活で結構なカルチャーショックを経験する事が多い。今までは国内旅行では刺激があまり無いと思って海外旅行ばかり行っていたけど、この2020年は国内旅行で色んな刺激を受けた1年でもあった。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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