三津の渡し船に乗って三津浜焼きの名店を探す【愛媛旅行記㊴】

愛媛県/松山旅行記㊴

 旅行期間:2020年9月23日~26日

 

普通に港町

さて松山市でも西側の端っこにある、今となっては廃城となってから約400年が経過している為にその形跡が殆ど残っていなかった「港山城跡」の散策を終えました。そしてすぐに帰るのではなくてちょっと周辺を散策していると、こちらに渡し船乗り場のようなものが見えてきました。

 

この辺りの港は約400年程昔まであった港山城に、物資などを運ぶ港と発展した「三津」という場所。昔からの港町として発展してきた場所である。

 

そしてこの場所には昔城があった名残りで行き来する人が対岸と多かったので、今でもここでは対岸と行き来する渡船が年中無休で運航している。なおこの渡船はこの看板にもあるように午前7時~午後7時まで運行していて、無料で乗り降りできる。

 

海の方には魚の市場などもあり、どんな感じかを見に行ってみる事にする。なお奥にはフェリー乗り場もあって、瀬戸内海や九州の方に行く船便も定期的に運行している。

 

このように渡し船と言っても対岸までの距離は、約100m程しかないように見える。「これぐらいの距離なら橋を造った方がいいのでは?」と思うけど、この左側には多くの漁船が停泊しているので、これらの漁船が通れる高さの橋を造る事を考えたら、まだ昔ながらの渡船の方がコスト的にメリットがあるのかもしれない。

 

 

三津の渡し船に乗り込む

ここの渡船は時間帯によってはそれなりに利用者がいるのだろうけど、この時は対岸から渡ってくる人の姿は見えず。なおこの渡船は乗りたい人が乗り場にやって来ると、その姿を確認して対岸へ船が移動してくるそうだ。

 

 

渡船で対岸へ移動! 動画

 

 

渡船に乗せてもらったものの、約1分ほどであっという間に対岸に到着する。確かに約100mほどしか距離がないので、こんなものと言えばそんなものなのである。

 

こちらには「三津の渡し」という由来が説明された案内板が、親切に設置されていた。江戸時代に伊予松山藩主がこの辺りを正式な魚市場として認定した為に栄えたという。なお当然昔は手漕ぎの小舟が使われていたけど、1970年頃から今のエンジン付きの船になったそうだ。

 

こちらのこんもりした小さな山は、先程頂上まで上った港山城跡があった山。てっきり山に生えている木は全部竹のように見えたけど、こうやって離れてみると全部が竹ではなかった。

 

さて渡船で対岸へ渡ると、ここの地名は「松山市三津」となっていた。この時もボクは全然知らなかったけど、この瀬戸内海沿い地方ではお好み焼きが美味しい地域だけど、この三津が町興しの一環として屋台グランプリみたいなのに出店したら人気となって、それからこの地域では”三津浜焼き”というお好み焼きが有名になったという。

 

 

という事で曇り空になってきたけど、胃袋はすっかり”三津浜焼き”モードとなっている。大阪は粉もん文化の中心地として有名だが、お好み焼きは断然中国地方の方が美味しい。やっぱり麺が入っている方が美味しく思えるのかもしれない。

 

まずはフェリー乗り場と中央卸売市場があるエリアに向かう事にする。この三津町の中でも一番人の動きが多いのがこの辺りだと、いつもながら勝手に予測する。

 

ただこの辺りも昔に比べて人口減少などの社会問題が待ち受けているのか、歩いているとこのような2階部分が何とも昭和レトロな感じの建物が見えてきた。

 

このような色褪せて何十年もここに飾られているかのように感じるスプライトやコカ・コーラの看板が、何とも言えない雰囲気を醸し出していた。

 

ここは昔からこの三津港の人々を支えてきた、地元銀行のような外観をしている建物。なおこちらの建物は「石崎汽船:旧本社」で1924年(大正13年)に造られた歴史ある鉄筋コンクリート造りで、今では国の登録文化財に指定されている。

 

 

こちらはフェリー乗り場で、このように勿論車やトラックなども載れるようになっている。普段は徒歩や電車移動が殆どなので、このようなフェリーに車で乗り込むという発想があまり頭には浮かんでこないけど、昔からフェリーは荷物輸送でも重要な航路となっている。

 

中央卸売市場周辺を散策していると、このような記念碑などが置かれている小さな広場的なものを見つけて、近寄ってみる。こういうものも何かしら歴史的な跡が無いと、このような記念碑が置かれる事が無いので。

 

十一人一人になりて 秋の暮

by  正岡子規

この記念碑の筆跡は正岡子規本人のものかもしれないけど、「十一人一人」ぐらいしか読めない・・・。達筆なのはいいけど、もう少し他人が読める筆跡にしてくれていれば有難かった。。

 

この俳句は日清戦争に戦争記者として従軍した正岡子規が、帰国の際に船の中で吐血して松山で療養していた時に集まってきた仲間達10人の前で読んだ句だという。

 

こちらは「きせんのりば」と彫られている標柱で、この三津港付近は海底が浅い為に大きな船が入って来れなかった為に、沖に停泊する船との間を運搬する船の乗り場跡の標柱。ただ元々はこの場所ではなくて、もう少し内陸寄りに建てられていたが、この辺りの埋め立て等の影響によりこの地に移動されたという。

 

この三津港は松山藩御用達の港と認められた為に商業的に発展して、四国でも一番の港として成長していった。そしてここ三津からはフェリーが出ていたので、正岡子規もここからフェリーに乗って東京まで移動していたという。

 

 

三津港周辺にて

今の時間は12時30分頃だけど、この港周辺には思った以上に人がいなかった。まあ漁港というと朝早くから始動して、午前中に閉まってしまう所が多いので、今日の活動を終えたような感じでガランとしていた。

 

もっとこの市場辺りは賑わっているものだと思い込んでいた為に、ちょっと拍子抜けしたような感じ。ただ港を見に来た訳ではなく、今回の目的は”三津浜焼き”を食べに来た訳だったので、市場は無視してお店を探しに行く事にする。

 

さすがに昔は四国イチの港だったので、大きな船が停泊しているのが見える。そして静かな港を1人進んで行く。

 

このコロナ禍によって感染防止対策として全国の飲食店などが一時閉業に追い込まれた為に、野菜やフルーツや魚などが大量に余るという、地球上では食糧難で叫ばれているエリアがある事を考えれば贅沢な問題も起こった。それだけ大量に食糧が余るという事は、我々日本人はそれだけ日頃から無駄遣いや無駄な飲み食いをしているという事の裏返しでもある。

 

このコロナ禍で世界経済は大打撃を受けたが、それは人間が20世紀になって特に贅沢な暮らしをしてきたツケが回ってきただけなのかもしれない。そういう意味では色んな事を考えさせられた、2020年のコロナ禍であった。

 

さて肝心の三津浜焼きの美味しそうな店を探してウロつくも、グーグルマップの情報だとこの港周辺よりも南東の駅方面に行った方がお店が多いようだ。

 

という事で進路を三津駅の方に切り替えて進むとする。ただコロナ禍で臨時休業しているお店も多かった2020年なので、お店に到着しても閉まっていてガッカリという事も多かった。

 

そしてグーグルマップに導かれてやって来たのが、こちらのお店。外からの見た目には営業しているのか、それとも閉まっているのかが全然分からない外観となっていた。という事で恐る恐るドアの方に近寄って、営業しているかを確認してみる事に。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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