日本に吸収される前の、アイヌ民族と琉球民族の愛蔵品が眠る東京国立博物館【神奈川&東京旅40】

神奈川県&東京旅(2022年12月中旬)-40

訪問:2022年12月中旬(2泊3日)

広い中庭!

上野 国立博物館本館 「歴史の記録」ブース

日本国内でも最古で最大の規模を誇る「東京国立博物館」の本館見学は、歴史好きな人にはとても有意義に思える場所である。

 

【東京国立博物館】

住所:東京都台東区上野公園13番9号
営業時間:9時30分~17時頃(※定休日:月曜日他)
電話番号:050-5541-8600
総合文化展観覧料:大人1000円/大学生500円/満18歳未満&満70歳以上は無料

 

 

 

「歴史の記録」ブースの見学!

上野 国立博物館本館 「歴史の記録」ブース 『堀田禽譜 林禽1』

こちらは江戸時代の18~19世紀頃に作られた『堀田禽譜 林禽1』で、江戸中期に陸奥仙台藩-第6代藩主:伊達宗村の八男として生まれ、後に近江堅田藩や下野佐野藩の藩主となった「堀田 正敦(ほった まさあつ)が編纂した”近世最大とも言われる鳥類図鑑”の1つ。

朋ちゃん
朋ちゃん

江戸時代にも鳥類図鑑があったんだね~!

 

 

上野 国立博物館本館 「歴史の記録」ブース 『日本沿海與地図(中図) 関東』

こちらは江戸時代の19世紀に、あの有名な伊能忠敬が制作した『日本沿海與地図(中図) 関東』である。

伊能忠敬は約17年の歳月をかけて全国を徒歩による実測調査を行い、「大図(214枚)」「中図(8枚)」「小図(3枚)」の縮尺違いで3パターン作成して、江戸幕府に献上している。

※地図の完成は伊能忠敬の死後

朋ちゃん
朋ちゃん

伊能忠敬は55歳から、実測調査を始めたのよ~!

※国の重要文化財

 

黒玉親父
黒玉親父

『日本沿海與地図』は「国立国会図書館デジタルコレクション」のホームページで一般公開されているタマ!

 

上野 国立博物館本館 「歴史の記録」ブース 『中山道分間延絵図』

こちらは江戸時代の1806年に中山道を管理する奉行所が制作した『中山道分間延絵図』で、江戸幕府が主要な街道の実態を把握する為に全国で作られた絵図である。

※国の重要文化財

 

上野 国立博物館本館 「歴史の記録」ブース 『中山道分間延絵図』2

この『中山道分間延絵図』は、中山道の起点となった板橋宿から鴻巣宿までの道中を描いた絵図となっている。

 

黒玉親父
黒玉親父

板橋宿から鴻巣宿までは、約40kmの距離タマ!

 

上野 国立博物館本館 「歴史の記録」ブース 『富岡製糸場 操糸所内部 古写真』

こちらは明治5年に建設された富岡製糸場で、明治10年頃にその稼働する『富岡製糸場:操糸所内部』を写した古写真

ペリー来航による海外諸国への開国により、日本から生糸が世界的な需要の高まりで輸出されていったが、多過ぎる需要に対して供給が間に合わない為に、粗悪品が出てくるようになってしまった。

 

上野 国立博物館本館 「歴史の記録」ブース 『富岡製糸場 操糸所内部 古写真』2

日本製の生糸を輸入していた海外勢は、その粗悪品の輸出に難色を示した為に、明治政府は”官営による製糸工場”に着手した。

機械を動かすのは工女であったが、当初は西洋風工場で見慣れない外国人技術者などの存在もあって風説が出回り、なかなか募集しても働き手が集まらなかったという。

 

初期写真技法「鶏卵紙に手彩色」

ちなみにこの古写真は「鶏卵紙(けいらんし)という、文字通り卵の卵白を紙に漬け込んだ紙が使われている。

江戸春男
江戸春男

一般的な写真に比べて、豊かな彩色ができたので明治初期には人気だったぜい!

 

上野 国立博物館本館 休憩所

そして先に進むと椅子だけが置かれている部屋があり、「ここでちょっと休憩しなさい!」と言わんばかりの部屋となっていた。

オカン
オカン

もう、結構疲れましたが・・・

 

 

庭園を見ながら小休憩!

上野 国立博物館本館 裏庭

この部屋からは博物館の裏庭側テラスに出る事ができて、庭園を見ながらリラックスできる空間が用意されていた。

ちなみにここからは見えないけど、この庭園の奥側には将軍徳川家の菩提寺だった寛永寺跡の墓が並んでおり、そこには歴代将軍の墓も残されている。

 

上野 国立博物館本館 裏庭2

この裏庭内にも「河村瑞賢」が摂津の淀川河川工事の際に建てた『春草廬(しゅんそうろ)という茅葺屋根の建物が、各地を転々とした挙句にこの敷地内に移設されていたり、他にも色々な物が置かれているそうだ。

 

 

上野 国立博物館本館 裏庭から見る建物

12月中旬の東京は冷たかったけど、東京国立博物館内は逆に暖房がよく効いていたので、着込み過ぎていたら見学中に暑くなって汗が出てきていた。

なので、裏庭に出て少し体を冷ますのであった。。

江戸春男
江戸春男

冬場は館内の無料コインロッカーに上着を預けた方がいいぜい!

 

 

「アイヌと琉球コーナー」の見学!

上野 国立博物館本館 「アイヌと琉球」ブース 

そうして体を冷ましてから向かった次のブースは「アイヌと琉球コーナー」になっていた。

 

上野 国立博物館本館 「アイヌと琉球」ブース  説明パネル

現在の日本人からすれば信じられない事かもしれないけど、江戸時代以前までは「アイヌ(蝦夷地)」「琉球」は日本国とは認識されていなかった”外国”であった。

 

上野 国立博物館本館 「アイヌと琉球」ブース  『コンチ/頭巾』

こちらは19世紀頃に蝦夷地のアイヌ人が使っていたという「コンチ(頭巾)」

現在程に温暖ではなく寒冷地であった北海道(蝦夷地)では、寒さの中でも生きれる工夫が沢山生み出されていた。

 

上野 国立博物館本館 「アイヌと琉球」ブース  『煙草入れ』

こちらも19世紀頃にアイヌ人が使っていた「煙草入れ」で、大きく海を隔てた国でも、煙草という嗜好品が好まれていたという事実が興味深い。

なお、江戸時代末頃に太平洋を漂流してアメリカに渡ったジョン万次郎は、帰国してからの回想録の中で、オセアニア地方の文明が進んでいない小さな島では「売春の対価として、お金ではなく煙草を渡すやり取りが行われていた」と記載していた。

その為に誰かが蝦夷地で煙草を吸い始めたのも、海の外からやって来た異国人が持ち込んできて、それを”嗜好品”として教え込まされた可能性が高そうにも感じるが。。

鹿角クン
鹿角クン

この頃は”禁煙”という概念も無かっただろうな!

 

上野 国立博物館本館 「アイヌと琉球」ブース  『アットゥシ(樹皮衣)』

こちらも19世紀頃に北海道アイヌ人が使っていた『アットゥシ(樹皮衣)』で、樹木の内皮の繊維で織ったアイヌの”織物”として使われていた衣服の一種。

ちなみに「アイヌ人」でも住んでいる場所によって民族服の種類が異なり、「樺太アイヌ」は草の繊維を用いた”草皮衣”「千島アイヌ」”草皮衣””魚皮衣”などを使っていたという。

 

上野 国立博物館本館 「アイヌと琉球」ブース  『アットゥシ(樹皮衣)』 背中部分の装飾

北海道アイヌ人が使っていた『アットゥシ(樹皮衣)』は、和人(日本本土の人間)が持ち込んだ木綿の布を縫い付け、そこに刺繍を施し、和人向けの輸出品として日本に送られていたという。

江戸春男
江戸春男

江戸時代には、蝦夷地との貿易は盛んだったぜい!

 

上野 国立博物館本館 「アイヌと琉球」ブース  『ジーシガーミ(厨子甕)』

こちらは沖縄で見た事のある『ジーシガーミ(厨子甕)』という骨壺。

 

 

上野 国立博物館本館 「アイヌと琉球」ブース  『ジーシガーミ(厨子甕)』2

琉球王国では、遺体を土葬や火葬ではなく、『風葬』という自然の経過に任せて骨だけになるまで放置し、骨の状態になってから水で洗ってこの骨壺に入れるという風習が一般的だった。

 

その為に沖縄のお墓は骨壺を入れるスペースとは別に、『風葬』を行うスペースが用意されていたので、お墓の規模が本土よりも大きいのが特徴である。

黒玉親父
黒玉親父

最近では沖縄でも、『風葬』をしなくなっているタマ!

 

上野 国立博物館本館 「アイヌと琉球」ブース  『花織着物 縞地花入菱繋模様』

江戸時代まで独立国であった琉球王国は、今の沖縄本島以外にも奄美群島も支配下に置いている時代があった。

そんな奄美群島の中でも最も大きい島だった奄美大島では、”大島袖”とも呼ばれた『花織着物 縞地花入菱繋模様』が高級品として紡がれてきた。

 

上野 国立博物館本館 「アイヌと琉球」ブース  『花織着物 縞地花入菱繋模様』2

今でも奄美大島に行くと、”大島袖”の生地を染める体験なども出来る所があるが、全工程が手作業で製作期間が半年以上も掛かる手間品でもあり、最近では職人の数も減ってきて衰退の危機にある品ともなっている。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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神奈川&東京旅(2022)

2022年12月中旬に『どこかでマイル』を使って訪れた、2泊3日の神奈川県&東京旅です。

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