佐賀県を代表する武雄温泉にある、辰野金吾が設計した温泉施設【九州縦断秋旅行記㉛】

九州縦断旅行記(秋)2020年-㉛

 旅行期間:2020年10月24日~28日
(A hot spring facility designed by Kingo Tatsuno in Takeo Onsen, one of Saga Prefecture’s representative hot springs.)

辰野金吾設計の重要文化財!

本日唐津市から南下して訪れたのが、こちらの「武雄温泉」。約1300年程前から温泉が出ていて人々に長く愛されてきた温泉で、江戸時代にはこの温泉に立ち寄る人達向けの宿場町としても栄えた場所でもある。

 

【武雄温泉:元湯】

住所:佐賀県武雄市武雄町大字武雄7425
営業時間:入浴–6時30分~24時(受付23時まで)
電話番号:0954-23-2001

 

 

 

辰野金吾氏設計の新館の見学!

そんな武雄温泉の敷地内には、唐津市出身の日本を代表する建築家:辰野金吾の設計による、竜宮門のような「楼門」と、こちら正面奥にある「新館」が大正時代に造られている。この新館の建物は大正時代に造られたものなので今から100年以上経過しているが、このように外観は綺麗な建物となっている。

 

というのもこの新館は2000年から約2年間に渡って、この建物を一旦全部解体してから保存改修工事を行った。なのでこのように100年以上も前に造られた建物には全く思えないような外観をしていたのである。

 

 

でもそんな大正時代に造られた古い建物なのに、「新館」という名前に違和感を感じる。普通に考えるのであれば、「本館」とか「旧館」とかのように前から建てられていたような名前が付けられるハズであるが、ここ武雄温泉ではこの新館よりも昔の明治9年(1876年)に造られた「元湯」があったので、大正時代に造られた建物がそれに次ぐ「新館」と名付けられたようだ。

 

この「新館」は国の重要文化財に指定されていて、今では温泉施設では無くなっており、辰野金吾設計の温泉施設の様子を現代に残す資料館となっている。この資料館は入場無料だけど、火曜日は休館日になっているので見学した人は火曜日以外に訪れた方がいいようだ。

 

資料館となっている新館の中には、特に係員も居なくて、普通に建物内を自由に見回るだけとなっている。この大正時代に造られた建物も全部解体してから、綺麗に補修して復元されている為に内部も想像以上に綺麗になっている。

 

建物自体は2階建になっているけど、温泉施設があったのは1階のみで、2階は休憩用の和室が5部屋のみ。それと大正時代に造られた建物なので、トイレも建物内に設置されていたようだ。

 

大正時代というと激動の明治時代を過ぎた後にやって来て、新しく色んな文化が生まれた時代。大正時代は15年しか続かなかった為に明治以降では一番短い年号となっているので、現代人からするとあまりイメージの湧かない時代である。しかし歴史を調べてみると、大正時代も激動の時代であり、鎖国していた日本国が大きく世界に足を踏み出していく時代でもあった。

 

靴を脱いで建物内に上がっていくと、まず見えてきたのがこちらの「宮原忠直」という人物についての紹介である。この宮原忠直という人物が道後温泉本館の伊佐庭如矢のように、この武雄温泉の今を創造した実業家だったようだ。彼は九州鉄道会社で働いた後に退職し、この武雄まで鉄道路線が開通した翌日に運送会社を設立し、色んな事業を手掛けて『九州の虎』と呼ばれる程に九州運送界で君臨した人物。

 

それから宮原忠直の祖父と父がこの武雄温泉の組合長をしていたのもあって、それを引き継ぎ新たな新泉脈を開発し、その新しい鉱脈を活かした温泉を造るのに佐賀県出身の名建築家である辰野金吾に建物の設計を依頼したという。本来の設計図によると楼門も1つではなく3つ造る計画もあったらしく、またサウナ風呂や演劇場も備えた一大レジャーセンター構想を持って温泉街発展に尽力したという。

エロ坊主オジサン
エロ坊主
オジサン

温泉街もその影で努力した人達がいたから、今でもこのように楽しめるけ!

 

まず見えてきたのが「五銭湯浴室」の男性側である。不等辺八角形の湯抜き塔があったり、”工業化された工業施設で生産されたタイルとしては日本初”という有田焼の製品が使われていたりと、重要文化財らしい内装となっているようだ。

 

こちらがその五銭湯浴室の浴室で、台形のような浴室が真ん中に見えている。女湯の方にはこの中に降りる木製階段が設置されているけど、この男湯には見当たらない。

 

上を見上げると、「不等辺八角形の湯抜き塔」の屋根が見えている。イスラム教の国では正八角形のような幾何学的なマークなどをよく見かけたけど、このように正八角形ではなく不等辺八角形を大胆にも採用した所に、やっぱり辰野金吾の個性が出ているのかもしれない。

 

 

ただこのようにあまりお風呂としては広くはない。特に体を洗う場所も無いので、昔はいきなりドボ~~ンと湯舟に浸かっていたのかもしれない。

 

こちらは「十銭湯浴室」という浴室の男性側。先程の「五銭湯浴室」に比べると浴槽床のタイルが鮮やかなデザインとなっているのが分かる。このタイルは当時とても国内では貴重であった、”マジョリカタイル”が使われているという。このマジョリカタイルとは大正~昭和初期頃に国内で生産されていた「和製ビクトリアンタイル」という、イギリスの装飾タイルを真似て造られた物らしい。

 

そんなマジョリカタイルはあまり日本国内では売れ行きが良くなくて、代わりに日本の植民地であった台湾などで使われる事になる。しかし今ではその和製ビクトリアンタイルは作られておらず、またその時代に造られた和製ビクトリアンタイルを用いて装飾が行われた建物も老朽化で取り壊される機会が増えて、結果的に貴重な品となってしまったマジョリカタイル。

 

 

こちらは十銭という名前だけに少し入浴料が高かったから、内装も豪華になっていたのだろう。先程の五銭湯浴室に比べると、名前から分かるように倍の値段となっているので、金持ち用の温泉だったのかもしれない。

 

こちらの案内にあるがお世辞にも先程見学したマジョリカタイルが輝いているようには見えなかったけど、この浴槽が造られた当時はもっと鮮やかな青色の発色をしていた事だろう。

 

こちらには「豊臣秀吉塚崎温泉掟書」と呼ばれる、秀吉がこの地を治める鍋島家に宛てた書状が展示されている。朝鮮出兵の為に東松浦半島に拠点となる名護屋城を築き、約10万を超える兵士を全国から集めた。その際に兵士たちの疲れを癒す温泉湯治を奨励したが、その際に大変賑わっていたこの温泉地を荒らさないように釘を打ったものである。

 

【秀吉温泉掟書の定めたルール】

・湯治客は地元の人に難題を申し付けてはならない!
・湯治客は1人5文の宿銭を支払う!
・屋敷周りの木などを勝手に伐採しない!

 

こちらは江戸時代に使われていた長持という荷物入れで、「織田木瓜」のような家紋マークが入れられている。織田木瓜は文字通り織田家で用いられていた家紋であるが、織田家というと織田信長が本能寺で滅びたので一緒に滅びたという印象が強いけど、信長の息子の子孫や弟の子孫などが生き残って、織田氏自体は存続していたのである。

 

こちらはこの武雄温泉新館が造られた時に取り付けられた看板だという。左側には「棟梁:清水満之助」と書かれており、今の清水建設がこの建物を建設したようだ。なお、この清水建設はあの渋沢栄一を相談役に招いて色んな助言を受けて、大正~昭和時代に多くの建造物を手掛けて大成長した会社である。

 

この新館は大正当時で一番の名建築家に設計を依頼して、日本を代表する建築会社が建てたものだった。何も知らずにこのような建物を見学してもあまり記憶に残らないけど、このようにその歴史について興味を持つだけで、色んな事が吸収できるようになる。

 

隣には「鷲乃湯」という、現代的なお風呂に入れる温泉も隣接している。ただ明治時代や大正時代に造られた建物と比べてしまうと、少し見劣りしてしまうような。。

 

この竜宮城の入口のような楼門は、限定公開されていれば2階まで登れるという。よ~~く見ると楼門2階の窓が開いているのが見える。

 

この楼門2階部分の天井には、この武雄温泉と同時期に辰野金吾によって設計され建設された東京駅構内天井に、見当たらなかった4つの干支が隠されているという。東京駅のドームとなっている天井には干支の彫刻が飾られているが、実はその干支は12個ではなく、8個しかないそうだ。そしてその東京駅にない4つの干支が、この楼門2階の天井に飾られているという辰野金吾の遊び心が隠されているとか。

 

 

ただ辰野金吾設計の新館や楼門よりも更に古い明治時代に造られた建物が、未だに元湯の建物として使われ続けているとは驚きである。松山市の道後温泉本館も古かったけど、この武雄温泉の元湯の建物も、もう少しRPしてもいいのかと感じた。

 

この武雄温泉近くには、このように田舎にしては珍しく高架になっている路線がある。これは九州新幹線西九州ルートの路線も兼ねた線路となっているようだけど、今国土交通省と佐賀県の間で福岡~佐賀~長崎行きの西九州新幹線ルートについて、長く協議が続いているという。この武雄から長崎まではルートが確定しているものの、福岡から佐賀のどの部分を通るかというルートが未確定で、簡単には決まりそうにない雰囲気だという。

 

 

 

祐徳稲荷神社に到着!

こちらは武雄温泉から南へ約10分、車を走らせて到着した「祐徳稲荷神社」。この祐徳稲荷神社は日本三大稲荷の一つにも数えられる神社で、九州の神社として年間参拝客が太宰府天満宮に次いで2番目に多いという。

 

 

 

 

個人的には参拝客が多いとか、稲荷系神社だからとかで訪れたいとは思わないけど、今回も凸凹トリオの1人朋ちゃんからのリクエストである。

朋ちゃん
朋ちゃん

だって調べたら、行きたくなる場所ばかり出てくるのよ~!

 

参拝客が九州の神社の中では2番目に多いだけあって、手前の浜川に架かる太鼓橋の幅がとても広い。それだけ多くの人がやって来るという需要があるからこそ、これだけ幅が広い橋が建造されたのであろう。

 

この祐徳稲荷神社はまだ佐賀県で鹿島市となっている。鹿島と聞くと「鹿島アントラーズ」に代表される関東の地名のように思ってしまうけど、ここは江戸時代に鹿島鍋島家が治める鹿島藩があった為に明治時代になってから鹿島県となって、それから佐賀県に編入された場所。ちなみにその鹿島と名付けた由来は、関東の鹿島に由縁があった影響のようだが。そしてこの看板に描かれているのが、さっき高島の堤防に描かれていた「ガザミ」で有名な太良町竹崎。ここには竹崎城跡があるけど、今回は立ち寄る時間が無いとの事。。

 

参拝者が多い神社だけあって、この祐徳稲荷神社の駐車場の手前側には昔からの参道町が築かれている。しかし今の時代には車で一気に神社の手前まで来てしまうので、そんな参道のお店に行こうと思えば少し歩いて戻らないといけない。なのでこの参道のお店側からすれば、「駐車場はもっと手前に造らせるべきだったのでは?」と感じたのであった。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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再び始まる、福岡~佐賀~長崎~大分~熊本の九州旅【九州縦断秋旅行記①】
2020年10月下旬に訪れた、福岡県から開始して佐賀~長崎~大分~熊本を巡る旅の開始。なお今回は旅仲間と巡りますが、初日の福岡巡りは前乗りという事もあって、1人で巡ります!
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