九州縦断旅行記(秋)2020年-㊹
旅行期間:2020年10月24日~28日
(Watching the spectacular view of Amakusa from Tomioka Castle with two heroes!)
気持ちいい、天草の朝!
ここは熊本県にある天草諸島の中でも一番大きな島である天草下島の、その北西に岬のような突き出した場所に造られていた「富岡城跡」。江戸時代初期頃に天草で勃発した『島原の乱』で、この地で大きな一揆が起こった場所でもある。
富岡城跡の見学!
この富岡城跡は2005年になって復元されたので、今見られる建物などはまだ新しいもの。元々江戸時代初期頃に造られていた城の櫓などの建物は、1670年頃に庶民の生活の負担になるという事で取り壊されてしまった。当時は庶民などに鞭を打って殿様は生活していたイメージがあるけど、この天草では一揆が起きた影響もあってそのように取り計らわれたのであろう。
この場所は二ノ丸で、まず到着すると目の前にこちらの銅像が見えてきた。左側が「鈴木重成」という天草の一揆が終わった後の1641年に、この天領(江戸幕府の直轄地)となった天草の初代代官として任命された人物。その右側に建てられているのは「鈴木正三」で、その鈴木重成の兄で曹洞宗の僧侶でもあった人物。
その像の下には説明書きが書かれていて、左側に建っている「鈴木重成」は天領となった天草領を整備して、他所からの農民を受け入れたり、寺を復興して仏教化を図った。しかし寺沢広高の時代から叫ばれていた通り、天草の4万2千石という石高が過大な評価過ぎる事実に直面した。そして彼は江戸幕府に再三石高の半減を申し出すが、一向に認められる事は無かった。そして最終的には江戸幕府に抗議の意味合いも込めて、切腹して自害したという。
こちらがその鈴木重成で、庶民の為に尽くして最終的には切腹したという、何とも庶民にとっては理想のような上司の存在だった人物。今の世でも組織で下に突っかかる人間は多いけど、上層部に向かって突っかかる人間は少ない。しかし上層部に文句を言えるのは、それだけの根拠と自信があるから出来る行為である。そして間違っている事をしっかり伝えれる優秀な人間なのであるが、そういった人物程に早く組織から消えやすい運命でもある。
こちらがその鈴木重成の兄である、僧侶だった鈴木正三。天草領の立て直しを一任された弟の要請により、天草領の改造に尽力して農民本位の政策を行った。キリシタンが弾圧された天草では心が荒廃した庶民ばかりだったようで、その心の立て直しも兼ねて寺などを再建して住民の心もサポートしたという。
この像の側面には、このように「天草の恩人」という言葉が刻まれている。当時はみんなが立ち向かえなかった程強大な存在だった江戸幕府に対して、自分の身を捨ててでも天草の民の為に命を懸けてまで尽力した、真の英雄だったという事だろう。
常に歴史は戦の勝利者ばかり語られるけど、このような自分の身を懸けてまで他人の幸せを求めて行動した人間の方が、後世まで語り継がれていく存在でなければいけない。天草の一揆というと天草四郎しか思い浮かばないけど、その裏ではこのように命を懸けた人が沢山いたのである。しかし教科書では単なる点数稼ぎの為の勉強用としての資料なので、このような偉大な人物の名が載る事はないのである。。
旅のいい所は、こういった歴史に埋もれた人の存在を知れる事やけ!
今立っている場所は富岡城の二ノ丸で、奥に見えているのが本丸部分。今では櫓も復元されていたので行きたかったけど、今日も色々と巡るようなので富岡城はこの二ノ丸からの景色を楽しむだけ。
このようにお城跡の富岡城も木が植えられていたりで、のんびりとした場所。大きな城ではないので、そこまで城としての見所はない。しかし今は見えない色んな歴史が埋まっている場所ではあるが。。
そんな天草を救った鈴木兄弟の像の近くには、また別の2人が立っている像も置かれている。鈴木兄弟と同じように置かれているので、こちらの像もそれなりに天草にとって存在感のあった人物なのかもしれない。
そんな像の左側に立っているのは、皆さんもご存じの「勝海舟」である。勝海舟は江戸幕府の幕臣でよく知れた人物であるが、この天草に貢献したというよりは2回ほど船でここを訪れた事があるから、そんな由来があってここに像が設置されているようだ。
勝海舟は長崎海軍伝習所での訓練時に乗っていた船で富岡城近くに立ち寄り、近くにある寺の柱にメッセージを書き込んだという。また翌年にも再び富岡の地を訪れた勝海舟は、また別の柱にもメッセージを書いたという。
こちらは「頼山陽」の像で、江戸時代後期の歴史家・思想家である。彼が書いた『日本外史』は当時大流行したベストセラーになり、その後の尊皇攘夷運動に大きな影響を及ぼしたとされている。
彼も1818年の西遊中にこの富岡城下を訪れて、そしてこの付近から天草の西海の景色を見て句を残したという。日本の中でも西の端にあった天草では、国内で最後の最後まで夕陽を眺めれる場所であり、そんな場所を見れた頼山陽が興奮して詩を詠んだ風景が想像できるような気がする。
そんな江戸時代に厳しい時代を送っていた天草の雰囲気は、この富岡城を訪れている分には全然感じられない。人類の歴史を振り返ると、そこには人類ならではのジレンマなどが詰まった歴史になっているけど、このように景色だけはいつでも綺麗で変わらない。
そして今日もこのように快晴で、元気な太陽が顔を出している。その天草が苦しかった江戸時代も同じように、顔を出していた太陽。時代は大きく変わっても、このように太陽が顔を出す光景は変わらない。そして人によっては楽しかったり悲しかったりする一日も、同じように過ぎ去っていく。そして戻る事の出来ない一日なので、選ぶとしたらどんな一日が来ようとも楽しみたいと思う。
富岡城からの景観 動画
こちらは岬になっている富岡城から、昨日宿泊していたホテルのある南側の景色。大手門がこの先にあって、富岡城の城下町が築かれていた事だろう。現在のこの苓北町だけ見ていると不思議と天草下島の北西側に小さな町があるように見えるけど、元々はこの富岡城の城下町と発展した町である。
この富岡城に置かれていた銅像だけど、個人的には左側の勝海舟と頼山陽の銅像は要らなかったと思う。それよりもこの天草の民を思って尽力した、右側の鈴木兄弟の像だけにした方が彼らに注目が集まって、ここに訪れた観光客に天草の英雄を勉強して貰える機会になったと思う。しかしあまりにも全国的に無名な鈴木兄弟なので、それではインパクトが弱いと感じて全国的に知られている勝海舟と頼山陽の像を、無理やり設置したのかもしれない。
富岡城の石垣はこのように綺麗に石が積み上げられている。全国的にも無名であまり資料がネットに出てこない富岡城だけど、この辺りは復元時に造られた石垣だったのかもしれない。現代ではこのような石垣を造れる職人が少なくなっているので、城を復元するのにも順番待ちが必要なのかもしれない。
日本の江戸時代に全盛を迎えた城造りなどの技術も、戦乱が無くなってしまい、明治時代になると逆に取り壊される城ばかりになって、その築城技術の多くが失われてしまう。また最近では色んな技術の開発によって瓦を作る職人も少なくなってしまい、日本では近年襲った大型台風の影響で多くの家庭の瓦が吹き飛ばされてしまったけど、その際には瓦不足に陥ったというニュースを聞くと、日々新しい技術が得られている反面、色んな技術が失われていっている事を実感する。
そんな富岡城見学はアッサリと簡単に見ただけで終了。1人で富岡城の見学に来ていたら、奥にある本丸の方にも足を運んでいただろうけど、今回は凸凹トリオでの旅なので素直に彼らに合わせて下城する事に。
富岡城近くには港もあって、大手門の内側に位置している。今ではこのような灯篭が造られているけど、見た目にも新しそうに見える。苓北町の財源を捻出して造った灯篭なのだろうから、一応写真に写しておく。なお現代では簡単にスマホで写真を撮影出来るし、不要な写真はすぐに削除が出来るので、旅行時は目に付いた景色は出来るだけ撮っておいた方が良い。すると旅行が終わってからその写真を見返すと、結構旅の詳細まで思い出しやすいから。
そんな富岡港にはこのような大きな船が停泊しているのが見えた。こちらの船は「天草拓心高等学校」という、地元の高校の名前が見える。この天草拓心高等学校はこの天草下島にある地元の高校だけど、この苓北町にマリン校舎という分校があって、そこに海洋科学科があるのでその船なのかもしれない。
そんな天草にある高校の船だけど、このように熊本県のシンボルマーク的な存在のくまモンの絵が描かれているのが見える。全国的に地元の知名度をあげる目的でこのようなマスコットキャラクターが生み出されてきたけど、このくまモンは肖像権を熊本県が買い取って基本的には無料で使えるようにしているので、色んな所で見かける事が出来る。なので熊本県にとっては肖像権を買い取った以上に、大きな経済効果の見返りを手にした投資ではなかろうか。
※くまモンのイラストは個人で使う範囲であれば申請不要、商品など社会的に使う場合は事前の申請が必要
この苓北町は志岐鎮経という戦国時代の大名が、南蛮貿易を求めてイエズス会宣教師を呼び寄せた事によって、このキリシタンで有名な天草でも最初にキリスト教が伝来した場所とされている。しかし志岐鎮経は南蛮貿易が上手くいかないと判断し、その後は逆にイエズス会宣教師を迫害した為に、その行いが宣教師ルイス・フロイスが記した『フロイス日本史』内で批判されているという。
この苓北町が唯一姉妹都市提携を結んでいるのは、佐賀県の唐津市である。唐津市というと、この天草を江戸時代初期に治めていた寺沢広高の居城があった場所。そのような過去の繋がりを現代にも残そうという試みで、姉妹都市提携がなされている事だろう。
そして富岡城から次の目的地である「大江天主堂(大江教会)」へと、車を走らせる。この大江天主堂は天草下島の西側の道を南下していくと、辿り着けるようだ。ただこの天草下島も意外と大きな島なので、アチコチと無計画に回るとかなりの時間を要するので、行きたいポイントを前もって絞っておいた方がいいようである。
天草は意外と広いけ、油断したらイカンよ!
なお、この天草下島の海が見える西側に南北に延びているのは「国道389号」。この国道389号は福岡県大牟田市を起点として、長崎県雲仙市・熊本県天草市・鹿児島県出水郡長島町などを海上ルートも含めて経由し、最終的には鹿児島県阿久根市に至る道。昨日の島原半島中心部の雲仙地獄からこの国道389号線を走り、島原半島からこの天草下島を結ぶフェリーもこの国道の海上ルートになっていたようだ。
この道は国道となっているので綺麗に道路が舗装されているので、とても快適にドライブが出来る。またこの辺りの地形は起伏が激しい為に、色んな山の中をトンネルが掘られている。そして天草の綺麗な景色を楽しみながらのドライブは、これまた格別の一日を過ごせそうな予感を感じさせるのであった。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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