高知県旅行記2021年3月-8
旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)
躍動感あふれる!
高知県の足摺岬近くに造られていた「ジョン万次郎資料館」の見学を終えて、広い駐車場の奥に展望台のような建造物が見えていたので、どんな景色を見渡せるのかと訪れてみる事にした。
「ジョン万次郎資料館」近くの展望台にて
この展望台は珍しく展望台の入口まではバリアフリーのように、周りの坂道をグルグル登って上がる場所となっていた。ただその緩やかな坂道をグルグルと登るのが面倒な人用に、このような階段も設置されていたが。
ただ展望台の入口まではバリアフリー的な場所となっていたけど、ここから展望台の上までは階段しか登る方法がなかった。なのでバリアフリー化されているとは言い難い場所だったけど、わざわざエレベーターを設置する程の資金も利用客もないので、階段で登るのは仕方ない事。
展望台の上に登ると、足摺岬などが一望できる景色が待ち受けている。このように他に高い建造物が全く見当たらないので、遠くまで見渡せる事ができるが、逆に目印になるような物も見当たらないので、遠くの景色をただ眺めるだけの場所だった。。
展望台からの眺め! 動画
ここは高知県でも南西に位置する「土佐清水市」で、高知県内に存在する11個の市の中でも、下から2番目に人口が少なく、また高齢化も顕著になっていて、21世紀の存続が厳しく思える場所となっている。
万次郎が生まれた中ノ浜村もこの土佐清水市の一部となっている。昔は多くの村が存在していたが、段々と合併していき、最終的に「清水市」になる予定だったが、静岡県に先に「清水市」が存在していた為に、その頭に”土佐”を加えた「土佐清水市」となった。
高知県に来たのは今回が初めてというオカン。今回の旅はレンタカーを使っての移動だったので、「あまり歩かずに済む!」と喜ぶオカン。
アンタが運転して、私は横で寝ているだけでラクやで~♪
万次郎一行の銅像!
そして資料館の道路から入ってくる入口付近に、こちらの大きな銅像群を発見した。こちらは「萬次郎少年像」という、土佐から流されて無人島に漂着した万次郎を含む5人が、約半年後に遠くの海原に船らしき面影を見つけて駆けだしていったシーンを再現した物。
住所:土佐清水市養老303
こちらの銅像は1996年に高知市出身の彫刻家「濱田 浩造」によって造られたもので、大きく分けて3つに分けられている。1つ目は手前のメインである「萬次郎少年像」、2つ目は万次郎と共に漁に出て一緒に漂流した仲間4人の「漁師仲間の群像」、そして3つ目はこれだけ鉄筋コンクリート造りとなっている大きな「波濤(はとう)」である。
この5人の中で最も若かったのが、当時14歳で炊事役として乗り込んでいた万次郎。ただ若さで言うと2歳年上の16歳だった五右衛門も居るので、万次郎だけがダントツに若かった訳でもない。
万次郎の半生は先程「ジョン万次郎資料館」でも勉強した通り、ホノルルに到着以降は仲間と別行動を取り、捕鯨船の船長に連れられてアメリカ本土に渡って教育を施された。それ以外にも航海術や捕鯨技術などの飲み込みも早く、船上で必要不可欠だった樽作り職人を目指したり、ゴールドラッシュにも参加したりと先を見通したビジネス感覚の持ち主でもあった。
色んな像を今までに見てきたけど、この背後にある「波濤」が大き過ぎて、その手前にある万次郎一行の姿が小さく感じてしまう程だった。万次郎達を襲った荒波を表現したのかもしれないけど、ちょっと大き過ぎる印象を受けたが・・・。
こちらは船で漂流した後に見つけた無人島「鳥島」に上陸した際に足を骨折した「重助」(左)と、その重助の兄だった「筆之丞」(右)。ちなみにこの2人には更に弟の五右衛門も乗り込んでおり、3兄弟で漁に出掛けて漂流してしまったのである。
※筆之丞はホノルル滞在時に「伝蔵」と改名する
当時25歳だった重助は無人島滞在時に骨折した足の容体は回復せずに、捕鯨船に救出されてホノルルに住む事になる。しかし、約5年後にその足のケガが回復せずに不能状態となり、ホノルルで死去してしまった。
こちらは漂流当時26歳だった「寅右衛門」で、ホノルルに上陸した後にそのまま住み続ける道を選んだ。ホノルル滞在時に何とか日本に帰りたいと思っていた他のメンバーから、度々帰国の誘いがあったものの、何かにつけて「その船の船長が気に入らない!」などの難癖を付けて、結局日本に帰る事はなかった。
このように漂流して異国に流されても、その全員が元住んでいた国に帰りたいと願っている訳ではない。”住めば都”という言葉もある通りに、住み続けたらその環境に順応していき、その土地の言葉も覚えたらそこまで不自由も無くなってくる。またホノルルでも彼らの生活権が認められていたので差別される事もなく、同じ島民として生きていけたのだ。
こちらは筆之丞・重助の弟で当時16歳だった「五右衛門」。兄の重助は骨折した足が回復せずに自由に動けなかったので介抱するのかと思いきや、重助の世話は更に兄の筆之丞に任せて、自分は一目散に異国船に向かって進んで行く事しか頭になかったような姿になっている。
ただあくまでもこの万次郎一行の銅像は、その異国船を遠くに発見した時の事を作者が想像して制作した姿となっているので、実際にその無人島に居合わせて見た瞬間を再現したシーンではないので、注意が必要だ。
河田小龍が発行した漂流記の『漂巽紀略』などの中には、動ける3人が異国船に向けて飛び出していき、島の洞窟に隠れていた筆之丞と重助は異国船から降り立った黒人の船員に抱えられて救助されたという旨の内容となっていた。
無人島に漂着して約5ヶ月程で異国船に救出されたのは、まだ運が良かった方かもしれない。万次郎一行が鳥島に辿り着く前に10年以上島で暮らした人物が居たが、アメリカの中で捕鯨活動が最盛期を迎えていた為に、この太平洋に多くの捕鯨船が行き交う事になり、それらの捕鯨船は休憩地として島に立ち寄る事が多かった。
この万次郎一行5人の中で、その航海中に段々と航海術などを覚えて頭角を表してきた最年少の万次郎の才能を、ジョン・ハウランド号のホイットフィールド船長が見出した。優れた人間が船長となり、その船長が航海を共にして才能を見出した万次郎は、船長の期待以上の活躍を見せる事になる。
期待して手を掛けた人が成功する事ほど、嬉しい事はないぜよ!
江戸時代後半になると、世界では広大な太平洋や大西洋に繰り出しても問題のない大型船舶が建造される時代となってきたので、そんな外国船のおかげで日本に帰れた万次郎一行の3人。1人だけホノルルに残ったけど、それもまた人生である。
クジラっぽいモニュメント!
そして万次郎一行の銅像の近くには、このようにクジラがソリ立っている姿のようなモニュメントも見えた。万次郎一行が助かったのは、アメリカなどの諸外国で捕鯨産業が栄えていたからでもあった。
このようにそのモニュメントを横から眺めると、口がパッカリ開いている鯨の姿にも見える。アメリカなどの諸外国と共に、日本国内でも昔から鯨漁は伝統的に行われてきた。しかし、鯨油のみを狙った西洋の捕鯨漁とは違って、日本の鯨漁ではそのクジラの巨体を余すことなく全て活用した為に、1頭のクジラが獲れれば村が栄える程だったようだ。
そして口のように開いた部分の中をよ~~く眺めると、「時」と「人」という文字が見える。ただこの角度から見えにくい場所に刻印されていた文字だけど、どういった意味があるのだろうか?!
そして横に回ると穴があって、その穴の中を眺めてみると、このように先程見えていた「人」という文字が正面に見える仕掛けとなっていた。万次郎が助けられて日本に帰れる事になったのは、ジョン・ハウランド号のホイットフィールド船長が立派な人格者で、万次郎らの世話を親身にみてくれたからでもある。
そして別の穴からは、このように「時」という文字も見えている。万次郎一行が日本に帰ってきたのは約11年振りの事で、まるで浦島太郎のような感覚を受けたのかもしれない。時は幕末で外国船が来航して開国を迫り、国内情勢は開国派と攘夷派に分断され、緊張感の高まっていた時代である。しかし漂流する前の万次郎はまだ若い漁師見習いだったので、そこまで国内情勢を覚えていた訳でもないだろうが。
そしてクジラという生物も、人類に弄ばれた生き物だ。19世紀中頃に「鯨油」を狙った西洋諸国によって乱獲されて個体数が激減し、20世紀後半になると西洋諸国の活動家達が未だにクジラを捕獲する国に対して「捕鯨反対!」の運動を行った。
現代の人類にとっては代替え品が開発されたのでわざわざクジラを捕獲する必要が無くなったのであるが、クジラ側からすれば無残に殺された仲間たちの恨みを晴らす機会を虎視眈々と狙っているのかもしれない。
クジラの亡霊が襲ってくるぜよ!
このように人類の歴史を見れば、色んな事がどんどん変化していっている事が理解できる。またその変化に応じて、地球上に住んでいた別の生物達が大きく被害を被っていた事実も知る事が出来る。人間は自分達の進化の為に他の動物達を虐殺してきた歴史があり、そういった”負の歴史”もしっかり認識しておく必要があると思った。
こんな旅はまた次回に続きます!
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