和歌山市旅行記2021年1月-㉒完結
旅行期間:2021年1月某日(当日旅)
シメのトンカツ!
さて2021年1月に訪れた、約半日間の滞在だった和歌山市旅は早くも今回で終わりです。黄昏時を迎えていた和歌山城のライトアップを見ているうちに、すっかり暗くなってきました。新しく改装された和歌山市駅前に戻ってきて、とりあえず晩御飯を食べてから帰る事にしました。
とんかつ「よし平」で晩御飯!
そして和歌山市駅がある商業ビル:キーノ和歌山のレストラン街を物色し、大好きなトンカツのお店に入る事に決めた。トンカツ程に日本らしくて、美味しい料理はないと個人的に思っています。
住所:和歌山県和歌山市東蔵前丁39:キーノ和歌山2階
営業時間:11時~15時、17時~21時頃
(※土日祝は通し営業、月曜定休日)
電話番号:073-431-1166
お店の前には、このように「創業:昭和8年」という文字も踊る『トンカツ よし平』だけど、元々は『丸新食堂』として創業し、和歌山県内でうどんや駅弁の販売をしてきたお店。「厚切りとんかつ よし平」のお店自体は2007年に新しく展開されたブランドなので、昭和8年から営業している老舗のトンカツ屋さんという訳ではないので勘違いしないように。
個人的には創業何年であろうが、美味しいトンカツを食べれれば、それで満足である。本来ならこのような駅前の大型商業施設に入っているお店は、チェーン店ばかりが多いので個人的にはあまり好きではないけど、閉まっているお店も多かったので個人的なワガママよりも合理性を優先させたのである。
こちらの商業ビルは2020年6月にオープンし、この時でまだ半年しか経っていなかったので、店内はご覧のようにとても綺麗で清潔さを感じた。ただ綺麗過ぎて、カツの油が漂っているような老舗のイメージも全然感じなかった。
まずトンカツ料理を注文すると、小鉢に入ったゴマが先に出てくる。ここで料理が出てくるまでの間に、自分でゴマを摺る必要がある。俗に言われる”ゴマをする”というのは、本来であれば腸内で吸収しやすいようにゴマを潰す行為で、それが相手の為を思って行う行為である。
そしてテーブル真ん中に置かれていた瓶には、自由に食べてもいい漬物が入っていた。普段はこういう漬物は積極的に取らないけど、2021年初っ端旅という事もあって、それぞれにとりあえず手を出してみた。
やっぱり和歌山というと蜜柑と梅なので、こちらの梅干しが食べたくなった。ただこういった漬物類は調味料や砂糖などが添加されている場合が多く、市販の漬物だとそれ以外にも化学調味料などが添加されている事が多いので、そういった面ではあまり漬物を食べたいという気持ちにならない。
昔は保存食品の一部としてこのような漬物が開発して好まれていたけど、現代ではそのような保存食としての有難みは消え去って、味付けも現代風にアレンジして造り易いように化学調味料まみれになっている物も多い。
そんなワガママ言いながら、ちゃっかりとそれぞれ少しだけど頂く事にした。ただこのお店は惣菜屋さんではないだけに、この付け合わせの漬物にいい物を期待するのが間違っているのだが。。
こちらはトンカツソースで、甘口と辛口が用意されていた。基本的には「甘口」一択な性格なので、辛口が置かれている事すら理解できないのである。ただ甘口というと、砂糖などが入れられている可能性も考えられるので、次はお試しで辛口を選ぶ事も想定しておく必要がありそうだ。
そして運ばれてきたのが、こちら「生搾り ねぎおろしロースかつ膳」。”ねぎおろしロースかつ膳”という名前だけあって、ロースカツの上にたっぷりと大根おろしが載っている。
そしてこのメニューで珍しいのが、このように柑橘類をトンカツに搾って食べるという方法であった。このお店ではその日によって出される柑橘類が変わるらしく、「甘橙(バレンシアオレンジ)」・「甘夏」・「ゆず」・「日向夏」と4種類のうちから選ばれているようだ。
こちらの米は和歌山産・・・・ではなくて、新潟県産のコシヒカリ。カツをご飯の上に載せるカツ丼も好きだけど、このようにご飯と別々に食べるトンカツも大好きである。結局は胃の中でトンカツとご飯が混ざり合う訳で、最終的には胃の中でカツ丼状態になる訳だが。。
メニューに書いてあった食べ方では、
①和歌山産の旬な柑橘類をたっぷり搾るべし!
②醤油発祥の地、湯浅の醤油を二往復ほどかけるべし!
③自慢の厚切りトンカツとねぎおろし、シャキシャキキャベツを一緒に食すべし!
とあった。
「生搾り ねぎおろしロースかつ膳」 動画
柑橘類を力一杯搾ってから、醤油もたっぷりかけるなんて、これまでのトンカツを食してきた人生の中で初めての体験でもあった。そこに甘口のトンカツソースと混ざった摺りたてのゴマ、更に真っ黄色のカラシも付けて食べると、口の中で色んな味がしたのであった。
ワシもその旨そうなトンカツ、食べたかったな!
<まとめ>
さて大阪人にとっては、近いようでなかなか訪れようと意外と思わない和歌山県。この2021年も新型コロナウイルス感染が蔓延する年の始まりだったので、2021年最初の旅は近場の和歌山からスタートする事にしたのであった。
そして数年振りにやって来た和歌山城だったけど、過去に訪れた時にはその存在すら知る事なく帰ってしまっていた「御橋廊下」。如何に前回訪れた時が城自体に興味が無かったかという事が、今思うとよく分かるのである。
この「御橋廊下」は隠居した元藩主が普段住んでいる御殿と、藩政が行われていた二ノ丸御殿との間を秘密裏に結ぶ道だった。人目が多い江戸の屋敷ではなく、ここ和歌山城敷地内でも人目を避ける事が求められていた事が興味深い場所でもあった。
過去2度に渡ってこの和歌山城を見学した事があるが、その時にはこの今立っている本丸御殿跡に立つ事すら、その前に興味を持つ事すらなかった。僅か数年の年月で、昔の自分と比べて大きく変化があった事が分かるのである。
その変化を「老化」とも言うのよ!(笑)
そして前回訪れた時には全く気にならなかった、和歌山城の”連立天守閣”。単なる1つの天守閣という建物ではなく、大小の天守と共に他の建物と回廊で繋がって要塞化されている建造物である。
そして紀州というと、こちらの家紋を見れば日本人ならすぐ分かる、徳川家でも徳川家康の10男だった徳川頼宣から派生した”紀州徳川家”が長年治めた場所でもある。ただ徳川家と言っても江戸時代にはその家系が大きく拡がった為に、”御三家”やら”御三卿”など、言葉自体は知っていてもその家筋を説明できる人も少ない事だろう。
前回和歌山城天守閣を訪れた際には、城内のこのような展示品にはあまり興味が無かったので軽く見て通り過ぎるだけだった。だが今ではこの展示品の多くを写真に撮って、ブログを作成する際にそれぞれについて少々調べてしまうので、城や歴史博物館を訪れる度に徐々に歴史に詳しくなっていくのである。
覚えてもすぐに忘れるなよ~~!
そして天守閣の最上階まで登っていくが、この時は1月という寒い時期だった事もあり、またコロナ禍でもあったので、換気の為に扉が開けっ放しになっていた。手袋をしても手がカジかむ気温だったけど、逆に冷気の冷たさで気合いが入ったようにも感じた。
2021年1月も新型コロナウイルス感染が蔓延していた頃だけど、このように和歌山城天守閣の眺めは晴天もあって、素晴らしい景色となっていた。かつてこの地を治めていた紀州藩の人々も、この高台から紀の川下流や和歌山港などを監視していた事だろう。
和歌山の過去の偉人コーナーで知った、陸奥宗光が和歌山市出身だった事。陸奥宗光の事は一昨年に訪れた九州旅で、関門海峡近くのフグ料亭前で、日清戦争講和条約を結んだ立役者として置かれていた銅像で知った人物。
陸奥宗光は坂本龍馬と行動を共にしていた時代もあったり、外交官としては日本が開国直後に結んだ日本にとって不利益な不平等条約を改訂させた偉人でもある。そんな偉人:陸奥宗光のお墓がかつてボクが働いていた会社があった、大阪市四天王寺前夕陽ヶ丘近くにあった事も驚きであった。
今のボクはこのような紀州藩が江戸時代に発行していた藩札にも、興味がいってしまう人間となっている。貨幣の歴史は人類の本質をとても表しており、上手に通貨を扱えた国は少なく、大半が欲張り過ぎてハイパーインフレになったりして破綻してしまう。
訪れた事のあるスリランカも、2022年7月に”破産”を宣言した。特に表向きは民主主義という顔をしながら、実態は同族で支配している国などは、その悪政を追及される可能性がない為にトコトン行き尽くして倒れてしまう事が多い。
今の日本もそうならないといいけど・・・
こちらは紀州藩の医師で、1000人を超える門下生が集まる程に江戸時代当時に高名な存在だった「華岡青洲」。母や妻の体を犠牲に約10年掛けて全身用の麻酔薬を開発し、詳しく様子が記されて記録が残っている全身麻酔を使っての外科手術としては世界で初めて行った人物ともなった。
それまでは不治の病だった乳癌だが、華岡青洲が開発した全身麻酔による乳房摘出手術で、延命治療が行われた。このように医学の歴史は今聞くと、現代の我々だと絶対やりたくないような方法だけど、当時はそれが最先端の最も優れた治療方法だった事だろう。
そして和歌山が生んだ偉人で最も偉大な人物は、こちらの徳川吉宗であろう。財政難に喘ぐ藩は日本国内に沢山あったけど、この徳川吉宗は紀州藩でまず財政改革に成功し、その手腕を変われて江戸幕府という誰も改革を成し遂げた事の無い大きな組織に無謀にも挑んだ人間でもある。
歴史的には徳川吉宗の江戸幕府の改革は、上手くいった面もあれば、上手くいかなかった面もあったようだが、江戸幕府の将軍としては随一の実績を残している。個人的には徳川吉宗の時代に、キリスト教以外の洋書の輸入を認めた為に、国内に進んだ文化や技術を持つ洋書が多く流入し、それ以降の日本で蘭学が流行って大きく変化していくキッカケを作った人物でもあった。
歴史を逆に紐解いていくと、この徳川吉宗に辿り着く事も多く、そういった事実に吉宗が改革者だった事が判るような気がするのである。江戸幕府のような大きな組織で、しかも徳川家ゆかりの人物が世襲制で要職に留まり、長年の平和で腐敗した組織にメスを入れたのはとても偉大な功績と思う。
そして徳川家よりも昔の和歌山の地には多くの勢力があり、戦国時代後半には種子島に伝来した鉄砲を早々に仕入れに行き、和歌山でその鉄砲をいち早く量産して力を付けた根来衆や雑賀衆などが台頭していた時代もあった。
こちらは”日本のアマルフィ”とも呼ばれる事がある、和歌山市中心部から南西の方にある「雑賀崎」の集落。その名の通り、戦国時代には雑賀衆が居城にしていた城跡もある場所で、昔ながらの漁師町となっているエリア。
そんな坂道だらけで住居が密集している雑賀崎では、猫ちゃんがのんびりとしているという情報も得て向かったのだが、保護猫という感じでもなく、あまり人に懐かない猫ちゃんばかりであったが。。
そんな雑賀崎にはこのような展望台兼灯台が設置されていた。普通の灯台であれば、灯台が必要な場所に造って、その近くが展望台になる事が多いけど、この雑賀崎の灯台は展望台を整備する際に、ついでに造られたというエピソードが何とも面白く思えた。
そんな雑賀崎で地平線に拡がる大海原に、ゆっくりと沈んで行く夕陽を眺めた。2020年から世界中に蔓延している新型コロナウイルス感染も、この夕陽のようにいつかはその存在が忘れられる時代が来るのかもしれない。しかし人類の歴史を辿れば、必ず定期的にウイルスに襲われた時代があり、その苦難を乗り越えて生き永らえてきた種のみが、その後の世界でも生き続ける事が出来るという地球上の生存システムの一環でもあると感じる。
最後にライトアップされた和歌山城天守閣を眺めた。和歌山城天守閣は明治時代に廃城されて消え去った天守閣が多かった中、昭和時代まで残されていたが、第二次世界大戦時の和歌山空襲で焼失してしまった。しかし、鉄筋コンクリート造りながらこうやって目の前に建物が再建されているだけで、勝手に昔の雰囲気を想像できるので遠くから眺める分には鉄筋コンクリート造りの城で充分なのかもしれない。
このブログではまだ2021年に行った一発目の旅行記をアップしているけど、公開されているのは2022年11月下旬。2020年は前半に海外を訪れ、新型コロナウイルス感染が蔓延してからは国内に切り替えて、沢山訪れた。ただ2021年は2020年の旅行記作成に時間をかかり、旅行するよりも旅行記作成に力を入れた為に、2021年の旅行自体は少なかった。
今となっては1~2年前の旅行をこうやって旅行記作成する事で、当時の事を懐かしく回顧したり、また訪問時には全然気付けてなかった歴史などを今になって勉強したりと、多くの気付きを与えてくれる。
このブログが公開されている頃には、ずいぶんと新型コロナウイルス感染が下火となって、感染ありきで前に進むという方向性が強くなった事により、また旅行に行き出す人が増えてきていると思う。
旅行には気晴らしや癒しを求めている人も多いけど、その旅行にテーマを掲げて訪れる事によって、多くの発見や経験をできるので、是非単なる旅行で終わらせるのではなく、大きな投資として自分を成長させる事の出来る旅にして欲しいと思うのである。。
2022.7.8
<完>
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