島根県旅行記2021年11月-4-完結編
旅行期間:2021年11月上旬(2泊3日旅)
トンボも酒に釣られる?!
さて島根県旅も、今回で遂に最終回を迎えました。初めて訪れる県も行きたい場所があり過ぎて、2泊の旅程だと回り切れないと思ってしまうけど、逆に4~5泊もしてしまうと緊張感がなくなってしまうので、2泊3日旅ぐらいが丁度いいのかもしれない。
出雲市駅周辺にて
そして大阪まで帰る高速バスの出発までまだ40~50分ほど時間があったので、出雲市駅内にあるお土産屋さんをちょっと物色してみる。この出雲市の名所は、日本人なら誰もが知っている「出雲大社」だけに、その神社で祀られている神様「大国主大神」っぽい像があちらこちらで見られる。
こちらは面白いパッケージデザインが特徴的だった、「マヨラーメン」。実はこのマヨラーメンは、大阪のインスタントラーメン専門店が開発して販売しているラーメンだった。。
大阪人は意外と大阪土産には疎いからな・・・
JR出雲市駅の北口側はそんな発展した景観では無かったけど、このドーミーイン出雲が駅前にある南口はもっと何も無かった。コンビニすら駅前になかった場所だったが、便利になり過ぎている贅沢な現代人らしい文句ともなろう。
この出雲市駅から出雲大社は北側にあるので、その反対側であるこの「南口」には観光客が殆ど来ない事もあってか、南口の駅舎外観はこのような普通の駅舎となっている。
そして特にお土産屋で欲しい物も見当たらないという事で、高速バスが到着するまでの時間で、ちょっとアルコールを補充する事にした。ここはすぐトイレに行きたくなる缶ビールではなく、あえてご当地の日本酒を選んでみたのである。
こちらの日本酒は「天穏」という、明治初期に創業された出雲市にある「板倉酒造有限会社」が製造販売しているお酒。大手酒造会社のワンカップ酒を呑むよりも、旅に来ているのでそのご当地酒造会社が製造してくれたお酒を吞む事で、最後の最後まで島根県を味わうのであった。
そんな日本酒のいい香りに釣られたのか、近くにトンボが数匹近寄ってきた。大阪市内に住んでいると、駅前でこのようなトンボが飛んでいる光景をあまり見かけられないだけに、興味深く眺めてしまった。
そして普段はあまりアルコールを呑まないオカンも、ローソンのみでしか販売していないという、アルコールがちょっと入ったヨーグルトのお酒をグビグビ飲んで嬉しそうな顔をしていた。
これ、好きやねん!
そして高速バスが到着する前に、トイレに行って水分を搾り切っておく。こちらは出雲市駅脇のテナントの廊下につくられていた、出雲神話に纏わる像が噴水と共に建っていた。
こちらは『国引き神話』の話を再現した像で、最初に造った国が失敗に終わったので、理想の国を作る為に他の場所から土地を引っ張ってきたという話のようだ。
こちらも日本神話の中で登場する悪役の「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」の像。古事記によると、8つの頭と尾を持った怪獣が村の娘を毎年食べて困っているという村人と出会った「須佐之男命(スサノオノミコト)」が、酒が入った桶を罠に使い、その酒を呑んで酔っ払ったヤマタノオロチを退治した内容となっている。
日本神話に出てく~怪獣やら動物も、妙に人間っぽえんだよね!
こちらのポスターは、日本イチの高さを誇る灯台の建物となっている「出雲日御碕灯台」と、その先の日本海に沈んで行く綺麗な夕陽が一緒に収められた写真となっている。この出雲日御碕灯台でこのように夕陽が沈んで行く時間帯に写真を撮りたかったけど、温泉津温泉でゆっくり時間を過ごし過ぎたので、夕陽には間に合わなかったのである。。
こちらはJR出雲市駅のすぐ横にある、一畑電鉄の「電鉄出雲市駅」。1910年頃に開設されたJR出雲市駅の約4年後に出来た駅だが、当初は出雲市駅を共同で使っていたという。その後1964年に新しいターミナルビルが完成した時にこの場所に駅が移転し、今では高架駅ともなっている。
そんな島根県ローカル企業の一畑グループのビルの前に、大阪まで戻る高速バスの乗り場がある。中国地方まで旅行する際には、前までは電車の移動でしか考えていなかったけど、場所によってはバスでの移動の方が便利になっている所も意外と多い。
乗り換えの要らない高速バスは楽でした!
出雲大社というと大きな注連縄が特徴的でもあるけど、さすがにこのJR出雲市駅の駅舎は神域ではないので、その大きな注連縄は見られなかった。ただ、出雲大社の大きな注連縄も数年に一度新調されるので、不要となった注連縄をこの駅前に飾ってみてもいいのではと思った。
そんな最後まで島根県を楽しんでいると、そのお楽しみの時間に別れを告げるサインのように、大阪まで向かう高速バスがバス停に到着した。ボクらの他に2人ほどしか乗り込まず、少ない乗客を乗せてバスは大阪に向かうのであった。。
<まとめ>
さて今回の島根県旅は、松江市からスタートした。島根県の観光というと出雲市と松江市の2つがメインともなっているけど、行きは大阪から早く到着できる松江市を選んだ。そして松江駅から松江城へ向かって進んで行くと、松江市が誇る宝物でもある「宍道湖」の美しい景観がまず目に飛び込んできた。
宍道湖は晴れちょ~日は、特にきれいだがね!
そして松江城を目指して歩いて行くと、島根県庁周辺の広場にこちらの騎馬像が置かれているのが見えてきた。こちらは「松平 直政(まつだいら なおまさ)」という、徳川家康の孫にあたる”雲州松平家”の祖である人物。江戸時代に松江の地に移封されてきた「堀尾家」と「京極家」が改易となった後に、信州から移封されてきた人物でもあった。
この松平直政は初陣を飾った『大阪の陣』で勇猛果敢に突撃して、真田丸を守っていた真田幸村からその勇敢さを認められて、その際に真田丸から投げ与えられた「軍扇」も飾られていた。
それと松江城の大手門跡付近には、こちらの「堀尾 吉晴(ほりお よしはる)」の銅像も置かれていた。江戸時代になって徳川家康の信頼できる人物として毛利家の治めていた出雲の国を任され、堀尾吉晴は藩主となる息子と共に、この地に新しく松江城を築いたのであった。
そして松江城の天守閣を見学する前に、その周辺を約1時間ウロウロして見つけた、出雲そばの名店「上田蕎麦店」。そして人生で初めて食べた「割子そば」は、この地方独特の蕎麦の食べ方である。
このお店で味わった割子そばは意外と冷たくて、ざる蕎麦とも違った雰囲気であった。また蕎麦の入った容器の中にタレをかけて食べるスタイルとなっているので、こういったそばの食べ方もある事を新鮮に感じたのでもあった。
国宝ともなっている松江城の天守は、全国的に数少ない江戸時代から現存する12個の天守の1つでもある。個人的にはその歴史ある天守内部を見学するのが一番の目的であったが、建物だけでなく、その周囲の城下町もなかなかに味わい深い場所ともなっている。
こちらが今から約400年前の江戸時代初期に建造されたという、松江城の天守。明治維新の風が吹き抜けた明治時代に多くの城が廃城となって取り壊されてしまったが、この松江城の天守は地元住民が保存運動に尽力してくれた為に、今でもこのように目の前に立っているのである。
そして江戸時代から残る現存天守内の見学で、個人的に楽しみにしているのが、昔ながらの急角度の階段である。階段によっては比較的新しい階段に付け替えられた物もあるかもしれないけど、このような急角度の階段を文句を言いながら必死に登っている人の姿を見ると、その本来の目的である”侵入者を阻む階段らしさ”が感じれて楽しいのである。
この松江城天守が建造された江戸時代初期は、全国で多くの天守などの城が一気に造られていったラッシュ時代だったので、全国的に城に用いられる木材が不足してしまった。その為に本来なら4~5階分を支える大きな柱を使いたかった所を、2階分を支える短めの柱を多用して、その難局を乗り切っているのだ。
それ以外にもこのように柱を補強する為に、木の板が柱に貼り付けられていた。現代の日本人は建物などを直ぐに壊して新築してしまうけど、昔の日本人はこのような建物を大事にして、壊さずに修理して長く活用していた事が伺える柱でもあった。
そしてやっぱり天守の最上階からの眺めは、「素晴らしい!」の一言に尽きる。鉄筋コンクリート造りの天守には真似できない、江戸時代の木造建築らしい雰囲気は特別である。
交通の要所でもあった宍道湖の入口を監視する場所として、この松江城は最適の場所だった。江戸時代になると平穏な生活となり、それまで戦いに明け暮れていた時代とは違って、商いを上手く行う必要がある時代に突入していった。
ただこの天守は藩主のお屋敷ではなく、万が一敵が攻め込んできた際の籠城する砦でもあったので、下の階段部分には床の下にスライドできる蓋が備えられていた。このように江戸時代に造られた天守には、多種多様な仕掛けが施されていて、その部分を眺めて妄想するだけで楽しいのである。
明治時代以降に存続した天守は12個以外にも存在していたが、第二次世界大戦中の空襲で残念ながら焼失してしまった天守も多い。ただこの松江城はそこまで大きく発展した街でもなかったからか、幸いにも空爆は行われなくて、このような歴史的な天守がそのまま鎮座する事が出来た。
そしてこのような歴史ある城の訪問とセットで見学したいのが、近くにあった「松江歴史館」である。ただ天守の中を見学しただけでは分からない、その土地の歴史を沢山勉強できるので、是非訪問すべき場所とも言えるだろう。
こちらの肖像画は堀尾吉晴の息子で、出雲国松江藩の初代藩主となった「堀尾 忠氏(ほりお ただうじ)」である。父:堀尾吉晴と共に移封された月山富田城からこの松江に居城を移した人物であるが、残念ながら早死にしてしまって大きく発展する松江の城下町を見る事なく亡くなっていった。
江戸時代に入って松江城が建造され、宍道湖と繋がっている中海との間にあった川が重要な輸送ルートでもあったので、その川沿いに多くの倉庫や商家が立ち並ぶ事になった。荷物が多く動く場所程に、それに関わる人の数が増えて、人の数が増える程に建物が増えて街が発展していった。
そしてかつて中世の城跡があった場所に、このように松江城を中心とした城下町が形成されていく。このように江戸時代には堀や川などの水運が欠かせない時代でもあったので、それを巧みに活用する設計がされていた。
こちらは出雲松江藩の10代藩主だった「松平 不昧(まつだいら ふまい)」(※松平治郷とも)の像。松平家として親藩でありながら他の藩と同様に大赤字だった藩財政を、大きく改革して黒字化に転換させていった時の藩主である。しかし、江戸時代きっての文化人としても有名だった人物なので、ちょっと蔵に現金が出来ると、それを使って贅沢をしてしまったという話もあるようだ。
茶人でもあった「松平 不昧」は自分が開いた茶会で、客人を持て成す為に和菓子の開発にも大きく力を入れた。”わびさび”が大事な茶会で、その見た目と味にも松平 不昧が大きくこだわり、その時の労力が後になって地元の名産品となっていくのである。
今は綺麗な松江城周辺の堀の水質であるが、昭和時代には生活排水などが流されて、とても汚い時代があったという。高度経済成長を迎えた昭和時代には、周囲の環境など無視して経済発展の道を進んで行った日本だが、経済発展が止まった今、このような綺麗な昔からの自然を大事に守れる時代が来ているのである。
そして昔はこの宍道湖と中海の間に流れる川に、唯一架かっていた「大橋」。今では何本もの新しく建造された橋がこの川に架けられているけど、擬宝珠が付けられた欄干を見れば分かるように、昔は大名行列が通っていた由緒ある橋だったのである。
そして「宍道湖」は、淡水でもなく海水でもない、それぞれが混ざり合った中間の「汽水湖」となっている。その独特な水質を活かして他所では獲れない海洋生物を名産品としていた松江。
そんな宍道湖の畔にひと際大きな高層ビルディングがあった。松江市内で最も高い建造物だという、この建物はここ島根県松江市を本店とする「山陰合同銀行」だった。上は展望台になっているけど、この訪問時は閉まっていて入れなかったが。。
そして2日目に訪れたのは、世界遺産にも認定された『石見銀山』。”世界遺産”と聞いて楽しみにしてわざわざ遠方からやって来た観光客が、期待外れでガッカリして帰る事から”ガッカリ遺産”とも揶揄される事もある場所でもある。
この石見銀山は戦国時代後半に毛利家が支配していたが、江戸時代になって江戸幕府の天領となって、幕府が直轄地として管理していた場所でもある。なのでその天領時代からの歴史を引き継ぐ、自然に近い形でオーガニックな環境で育てられた「天領軍鶏」が飼育されている姿も見かけた。
観光客の立場からすれば『世界遺産』というキーワードを聞くと、嫌でも大きく期待してしまう。しかし石見銀山のある大森町は、昔に大きく栄えた場所だけど、今では採掘も中止されて衰退してしまっている場所である。だから大森町としても、多くの観光客を迎えるような場所という認識がなく、廃墟跡を見学するような場所ともなっている。
しかし、行った先が廃墟でも楽しむ事は出来る。人が住んでいない所は自然が多く茂っている場所でもあるので、こちらにあった苔がビッシリと生えた橋のように、廃墟と新しい自然のコラボした光景を楽しめる場所ともなっている。
そして山奥にある石見銀山近くでは、このように秋口には綺麗に赤くなった紅葉の葉っぱなども見られた。かつて考えられない位に繫栄していた鉱山の町だった所に、今だからこそ楽しむ事が出来る紅葉が待ち受けていたのであった。
そして石見銀山に来ると観光客が必ず立ち寄るのが、こちらの一般公開されている「龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)」という坑道跡である。
かつての石見銀山では数百という坑道が掘られていたというが、今ではその内部に入れる坑道は殆どなく、こちらの龍源寺間歩が唯一常時見学できる坑道跡となっている。
そして銀山の坑道跡といっても、このように壁に銀の塊が見えていたりする訳ではなく、普通に岩の壁が奥まで続く坑道跡となっている。なので期待してやって来た観光客からすれば、あまりにも何も見られない坑道跡なので、ガッカリして帰る人が多いのだろう。
そして最盛期には数万人の人が暮らしていたという銀山の町である大森町は、今ではその当時では考えられない程に人口が減って400人前後となっている。しかし、そのような人口が少ない土地では、このように猫ちゃんがのびのびと暮らしていた。
あまり車が通らない道で、のんびりと佇む”銀山猫”。初対面ではあったものの、あまりにも人馴れしていた猫ちゃんだったので、すっかり時間を忘れて遊んでしまった。。
そして大森町は山間に囲まれた集落でもあるので、とても天気が変わり易い。さっきまで晴れていたかと思ったら雨がいきなり降ってきて、そしてすぐにこのように雲がどっかに行って、また晴れてくるのである。
時代の波に押されて大きく町の景観が変わっていった大森町だが、昔からの伝統を守る為に建物の景観などが規制されており、昔の日本家屋風の外観にリフォームされた住居も多く見られた。
石見銀山は戦国時代後半から江戸時代前半にかけて最盛期を迎え、多くの鉱夫が坑道内を手作業で掘り進んで行って、このような鉱石を採掘していた。しかし、その反面、過酷な労働環境でもあったので、多くの鉱夫は30歳を迎える前に亡くなってしまっていたらしく、30歳まで生き残れれば珍しい時代だったという。
幕末に長州征伐に敗れた江戸幕府は、長州藩に石見銀山を奪われてしまう。そして明治時代には全国で採掘業を行っていた「藤田組」に払い下げとなり、戦前まで採掘が行われていた。藤田組が採掘していた時代にはあまり銀は採れずに、銅の産出がメインになっていたという。
そして江戸幕府の天領地となっていた石見銀山には、江戸幕府からの役人である「代官」が送り込まれてきた。こちらの木像は「井戸平左衛門」という歴代代官の中でも特に有名な人物で、飢餓が多かった江戸時代に薩摩から冷害にも強いサツマイモを取り寄せて栽培させ、飢饉が起きても飢餓を起こさなかったという。
そんな大森町で食べた「代官そば」。冷たい割子と温かい出雲そばをセットで食べれて、「冷」と「温」の出雲そばを一緒に楽しむ事が出来た。
こちらは鉱山で働いていた鉱夫達が坑道内に持って入って食べていたというお菓子の「げたのは」。如何にも昔風のお菓子だったが、意外と食べだすとクセになって、止まらないようになってしまうお菓子でもあった。
そしてその石見銀山から採掘・精製された銀などを出荷していたのが、今では人気の温泉街となっている「温泉津(ゆのつ)」であった。
ここ温泉津は日本海に面していて、また天然のリアス式海岸になっていた事もあって外波からの影響を受けにくい場所という事もあって、北前船が停泊する港としても発展した場所であった。それまでは尾道まで運んでから大坂や京まで運んでいた銀を、安全な北前船ルートで運ぶようになっていった。
そんな温泉津も今では港の影も形も無くなっており、寂れた温泉街という雰囲気の場所となっていた。しかし、昔から有名だった温泉が湧き出る町として、温泉マニアがこぞって湯治に訪れる場所となっているようだ。
そしてこちらはその温泉津にあった、「温泉津焼」で使われていた窯を再現した「登り窯」が復元されていた。江戸時代には生活の質も上がった事もあって、焼き物が全国的に日用品に用いられ、国内の至る所で焼き物が一般的に造られていた。しかし、時代が進む毎に焼き物の窯も大量生産の波に勝てずに集約されていき、ここ温泉津からも大きく姿を消してしまった。
そして出雲国に神様がやって来る日本海に夕陽が沈んで行き、日本神話の世界を思わす幻想的な黄昏時の光景が見られた。ただ本当は夕陽が沈むタイミングでここに来る予定であったが、いつもの欲張りな性格が顔を出して、温泉津に寄り道している間に夕陽が沈んでしまっていたのである。
そしてこちらは出雲大社の北の日本海側に建てられている、日本で一番高い灯台の建造物ともなっている「出雲日御碕灯台」。しかも全国的に珍しい、灯台の展望台に入れる所ともなっていたが、到着が遅れて灯台内に入る事が出来なかったのであるが。。
仕方なしに、その出雲日御碕灯台を下から眺めてみた。このように”首が折れる角度”という言葉が似あう灯台で、上の展望台に入れなかった事が唯一この旅で悔やまれた瞬間でもあった。。
今回宿泊した「ドーミーイン出雲ホテル」は全国に展開しているホテルチェーンだが、夜の時間帯に無料の「夜鳴きそば」を提供していたりと、なかなかにサービスが良かったホテルでもある。
晩飯は他所で食べているのだが、”無料”というワードに釣られて食べてしまう事になる「夜鳴きそば」。アッサリしたラーメンのような味で、出張のサラリーマンからすれば、1食分の食費を抑えれそうな夜鳴きそばであった。
そして松江城の見学と共に楽しみにしていたのが、こちらの出雲そばを何回も食べる”そば三昧”であった。出雲でも人気の「献上ソバ 羽根屋」では割子ではなく、温かい方のそばを選んでみた。
出雲では温かい蕎麦にもタレをかけるシステムとなっていて、全国的に有名な蕎麦処だけあって、普段は食べれない食べ方を楽しめた所でもあった。
そして3日は満を持して出雲大社の見学に向かった。最初は国の重要文化財にも指定されている、和風建築物の駅舎「JR大社駅跡」を訪れたのであるが、このように補修工事中でその姿を拝む事が出来なかったのである。
それから出雲大社の方に向かって進むと、こちらの第一の鳥居である「宇迦橋の大鳥居」が見えてくる。この約100年前に実業家が寄進したという鉄筋コンクリート造りの鳥居も、国の重要文化財に指定されている。
更に参道を進んで行くと、廃線となったJR大社線の代わりに今でも存続している一畑電鉄:大社線の「出雲大社前駅」が見えてくる。こちらの駅舎も1930年頃に造られた歴史ある建物となっていて、国の登録有形文化財に登録されている。
この出雲大社前駅が洋風建築の駅舎となったのは、さっき改修工事中で建物を見られなかったJRの「旧大社駅」が和風建築だった事に対抗して設計されたからだという。このように日本の駅舎内とは思えないようなステンドグラスが取り付けられた内観などは、出雲大社近くとは思えない雰囲気が漂っていた。
そして参道を歩いて行くと、この第二の鳥居から歩行者しか進めないようになっていた。この第二の鳥居は最近新しく建て直された鳥居だが、この工事には島根県を代表する「山陰合同銀行」が大きく資金援助したようだ。
出雲というと古来より人々に語り継がれてきた『出雲神話』なる日本神話が根付いている場所でもあり、こちらは有名な『因幡の白兎』伝説をモチーフにした、革をワニに剥がれて哀れなウサギを救う、出雲大社の祭神でもある大国主大神の像となっている。
日本神話には出てくる登場人物などが、神様だったり動物だったりするのに、妙に人間くさい面を見せている事が多い。こちらは荒波に乗って姿を現した”魂”に試練を与えられる大国主大神の像だが、日本の神様も最初から「神」ではなかったという事のようだ。
出雲大社にある4つの大きな鳥居の中でも、この第四の鳥居が青銅製で1667年頃に造られた最も古い鳥居となっている。大きさや外観の綺麗さでは他の鳥居に負けているかもしれないが、ここに建てられてから最も長い年月を過ごしているだけに、その風格を感じる鳥居でもある。
その第四の鳥居をくぐって中に入っていくと、こちらの大きな注連縄が取り付けられている社殿が見えてくる。初めて出雲大社にやって来た人の多くは、この建物を本殿だと勘違いしやすいけど、これは本殿ではなく、その手前に造られている「拝殿」である。
そして出雲大社の本殿は「荒垣」という柵に囲まれて、一般人はその周囲の境内に入れないようになっている。なので、こちらのウサギの石像のように、柵越しに眺めるだけとなっている。
そしてそんな出雲大社にやって来た修学旅行の学生たちが記念撮影を行うのは、そんな拝殿や本殿の前ではなく、その隣に造られている、こちらの「神楽殿」という建物の前で行われる事が多いようだ。
そんな神楽殿にも大きな注連縄が取り付けられているが、この神楽殿の注連縄が出雲大社でも最も大きな注連縄となっている。なのでそのような見た目からして、この神楽殿前が人気の写真撮影スポットとなっているのだろう。
そして出雲国というと、戦国時代末~江戸時代初期頃に活躍した、”歌舞伎の創始者”とも言われる「出雲阿国」の出身地でもある。出雲阿国は元々出雲大社の巫女で、本殿修復工事の勧進の為に京などを訪れて、舞いを披露したのが歌舞伎の原点ともなっているという。
出雲大社から西の方に進むと、このように日本海が見えてくる。この「稲佐の浜」という海岸は、毎年10月頃に全国の神様が出雲大社に集う際に、上陸していた海岸だという伝説が残っている場所でもある。
そんな稲佐の浜には、こちらの「弁天島」という、昔は足元まで海に浸かっていたという島が歩いて行けるようになっている。このような光景を見ると、ここ数百年の間に海面が大きく低下していて、地球温暖化の影響を感じてしまう場所ともなっていた。
そして旅の最後の食事も、やっぱり出雲そばの「割子そば」を食べた。この割子そばは島根県でしか食べれないのかと思っていたけど、大阪にもある蕎麦チェーン店でも提供されていたが、やっぱり割子そばは島根県で食べるからいいのであって、大阪で食べる割子そばは普通の蕎麦である。
何回食べても飽きない出雲そば。ただ、これ以上長く滞在して毎日出雲そばを食べ続けていたら、その内に蕎麦に飽きる日が来るのかもしれないが。。
そして島根県のお土産屋で必ず見かけるのが、こちらの「吉田君クッキー」。観光地のお土産は「中身で勝負!」かと思っていたけど、このように商品のパッケージデザインを工夫して、人気のお土産にしていたのは非常に勉強になった。かつてパッケージの印刷業界で働いていた人間としては、このようなパッケージデザインを見ているだけで楽しいのである。
何だかんだで ”日本国内で47番目に有名な島根県”を満喫できた旅であったと思う。少子高齢化社会がどんどん加速している日本国内で更に今後、もっと人口が少なくなる事が見込まれる地方の町。しかし先人達が築いてきた歴史は消える事がなく、新しい日本神話のように後世に語り継がれていく事を期待したいのであった。。
<完>
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