沖縄旅行記2020年秋-52完-完結
旅行期間:2020年11月11日~14日(3泊4日)
(Eating delicious fried bitter gourd again at “Asatana” near the public market. [Okinawa Travelogue 52])
ハマる味のゴーヤチャンプル
さて今回4日間の日程で2020年11月に訪れた沖縄の旅も、今回でやっと終わりとなります。沖縄は島全体を巡ろうとするとレンタカーが必須な場所で、モノレールだけを使うと行ける場所が制約されてしまう。しかし、何も見て何を感じるかは制約されていないので、見る側の想像力次第で色々と勉強する事があるように思う。
那覇市までゆいレールで移動する
琉球王国時代の約400年前頃に建造されたという、歴史的な石畳の道「中頭方西海道」を見学した後は最寄りのモノレール駅へと向かう。こちらは最も近かった「経塚駅(きょうづかえき)」だけど、首里駅より先の延伸されたモノレール駅周辺って全然発展していないイメージを感じた。
普通モノレールの駅っていうと、その周辺に食べ物屋さんとかが並んでいるイメージがあるけど、この経塚駅の階段下辺りはこのように空き地が広がっている。駅前というと利用客を見込んでコンビニなどが出店していそうな雰囲気があるけど、ここにはコンビニどころか、小さな売店すら見られない。
辛うじてあったのが薬局だけ・・・・という過疎化というか、活気の無さ。一番東端の新駅「てだこ浦西駅」にもコンビニや売店すら見かけなかったけど、2019年10月(この旅行の約1年前)に開業した割には、そのようなお店が出店して来ないという事は全く集客が期待されていないという事なのかもしれない。
そして経塚駅のホームに上がると、目の前には大きな墓地群が見えている。本来であれば駅前の一等地で新興住宅街が出来そうな場所なのであるが、目の前に大きなお墓が広がるという沖縄らしい光景が待ち受けている。
そんな駅の周りに何もない「ゆいレール」だけど、モノレールの電車は等間隔で運航されているので、そんなに待たずにやって来る。特に利便性が悪いとも感じない路線なので、このゆいレール沿線にお店などが増えていくのはこれからなのかもしれない。
そのゆいレールの車両に乗り込み、先頭車両の運転士さんの後ろから動画を撮ろうかと思っていたけど、こんな少ない乗客にも関わらず、既に先客がその先頭席を陣取っていた。この首里駅以北の延伸されたエリアは乗客が少ないけど、やっぱり人間みんな考える事は同じようだ。
名店「あかさたな」で昼食!
そして牧志駅で降りてコインロッカーに預けていたリュックサックを引き取り、その足で向かったのが一昨日の晩御飯を食べて美味しかった記憶が残っていた、公設市場近くの名店「あかさたな」であった。

美味しかったゴーヤチャンプルの味が忘れられなくて!!
一昨日はゴーヤチャンプルの単品を頼んだけど、今日はセット料理の「ゴーヤチャンプルと、茄子と豚の生姜焼き」を注文する。それと沖縄に来た観光客の義務でもある、首里城再建義援金を支払う。

一日も早く首里城が再建されますように!

単にビール飲んだだけでしょ!!
まずはモズクの小鉢が運ばれてくる。小さい頃はこのようなモズクなんて見ただけで食べる気を無くしていたが、今ではほぼ好き嫌いがないので全く問題なく食べれてしまう。
こちらはアオサが入ったスープ。味噌汁や豚汁ではなく、アオサのスープは海に囲まれている沖縄らしい雰囲気を醸し出して、またそのアオサの深い味わいがスープにしみ出ていて美味しい。
そしてこれを食べる為に牧港漁港近くの食堂に入らなかったと言っても過言ではない程に、楽しみにしていた「あかさたな」のゴーヤチャンプル。実は昨日の夜も沖縄県立博物館から歩いて帰って来る途中にここで食べようと思っていたけど、その時には遅い時間だったのでお店が閉店してしまっていたのである。

ゴーヤチャンプルにハマった沖縄旅でした!
そしてこちらがもう一つのメイン料理である、茄子と豚の生姜焼き。「豚の生姜焼きなんて、わざわざ沖縄で食べなくても・・・」と思うかもしれないが、沖縄で食べる事に意義があるのだ。。

その根拠は・・・?!
何気なしにたまたま入ったお店だった「あかさたな」だけど、あまり混んでもいない割に思った以上に美味しい料理が提供されていて、お気に入りになってしまった。沖縄そばには少々ガッカリした沖縄旅だったけど、逆にこの「あかさたな」で食べたゴーヤチャンプルの美味しさが脳裏に焼き付いてしまって、他ではゴーヤチャンプルを食べれない程になってしまった。。
そしてこちらは今日のサービスの一品で、沖縄のお菓子でもある「サーターアンダーギー」。何個でも食べれそうな程に美味しく、もっとお土産で買えば良かったなと後悔しそうな程であった。
という事で”沖縄の最後の晩餐”は、ご覧のように綺麗に完食。この「あかさたな」は店内の雰囲気もゆったりしていて、ガツガツとしていたり、騒がしくもなく、気持ちよく過ごせる空間となっていて、それも気に入ったのである。
那覇空港へ向かう!
さて最後に美味しいゴーヤチャンプルを食べれたし、首里城再建の寄付も出来て、もう沖縄に思い残す事はない。という事で、国際通りを歩いて県庁近くにあるゆいレール駅から、那覇空港へと移動する。
そして久々に戻ってきた那覇空港に到着。しかし最終日に綺麗に晴れるなんて、南国の天気はツンデレである。ビーチリゾートを満喫しに来た観光客からすれば天気が悪ければあまり楽しめないだろうが、沖縄の自然や歴史を満喫しに来たのであれば、天候にそれ程左右はされないハズ。
そしてこの「那覇空港駅」はこちらのレリーフを見ても分かるように、”日本最西端の駅”となっている。この那覇空港駅は2003年に開通してその称号を得た訳であるが、それ以前の鉄道駅の”日本最西端の駅”は松浦鉄道という私鉄の「たびら平戸口駅」となっていた。
このゆいレールは当初は沖縄独自の交通系ICカード「OKICA」しか使えなかったが、2020年3月からSUICAなどの他の交通系ICカードが使えるようになった。これによって県外から来る観光客がゆいレールを使う利便性が、格段に向上されたようだ。

交通系ICカードって、使い出したら便利よね!
この2020年11月は”GO TO キャンペーン”と共に「地域共通クーポン」が加わった為に、最後の空港で残った地域共通クーポンを使おうと考えている観光客らしき姿を沢山見かける。コロナ禍によって大きく打撃を受けた観光業界を救おうとした政策だけど、地域共通クーポンによってお土産を買おうという気持ちになるので、地域振興の為に役立ったかなと思う。
それにして沖縄を去るにしては、勿体なく思える程に綺麗に晴れた本日。南国を訪れると毎日このような天気を望むけど、「雲の上はいつも晴れている」と思って気にしない事が大事である。
沖縄の空港は観光客の多くが飛行機に乗ってやって来る事もあって、結構大きい飛行場となっている。鹿児島からはフェリーで移動できない事もないけど、意外とフェリーって移動するのに時間が掛かるので、そう考えると飛行機移動が一番時間的なロスが少ない。
那覇空港の景色 動画
この時に実施されていた”GO TO キャンペーン”の影響は意外と効果があったようで、このように沖縄空港のチェックインカウンターは久々に行列が出来ている。コロナ禍によって閑古鳥が鳴いている状態が続いていた空港だけど、この時はこのように混雑しだした頃だった。しかし、2020年12月に再びコロナウイルスの感染が拡がり、12月末から”GO TO キャンペーン”は一旦停止となり、使えなくなってしまった。
十数年振りに訪れた沖縄だけど、昔に来た時よりも自分が歳を取った為に、今回の旅で気付ける事が沢山あったと思う。前回来た時はまだ会社員のペイペイで世間の事など何も知らないガキだったけど、今は世界をちょっと旅して少しは色んな事を知ってきたガキなので、少しは成長できているのかなと感じた。

まだまだガキですよ!
という事で飛行機に乗り込み、沖縄の地におさらばを告げる瞬間が訪れる。次にいつ沖縄に来るかは分からないけど、その時には今以上に成長した自分になって戻って来たいと思う所存である。
<まとめ>
沖縄は国内旅行でもそこまで行きたいという場所でもなかった。というのもこちらの写真にあるように、2007年に当時働いていた会社の社員旅行で行った際に”良い思い出”がなかったからだ。観光したと言ってもこの首里城位で、後は自由時間もなく、島の北側のリゾートホテルの広い敷地に缶詰状態だった。
ただ今思い返せば、それは与えられた箱の中でモゾモゾとするハムスターのような存在であって、自分で箱から出て外を自由に動き回ろうという発想も出来たハズである。
しかしその時はそういう考えは持っていなくて、考えすらしなかった。しかし、この会社を辞めた今、それは単に自分が行動しなかった事を会社側にその責任を擦り付けていただけのように思える。あくまでも会社内に居ると、会社側から与えられた物の範囲内で活動をするという消極的な状態に陥りやすい。
だけどその鎖から解き放たれると、会社のせいではなくて、自分がいかに行動しなかったのかがよく分かる。そういう意味で客観的に自分の旅行した内容を見ると、この会社員時代は自分の頭で考えて行動していなかったが、少なくとも今は多少自分の頭で考えて、自分のしたい事を出来ているようにも思える。
沖縄は日本国になる前は、古代に琉球王国という独自の文化を築いていた小国で、日本国内では見られない文化や風習や言語などがとても特徴的な所である。しかし、このように街中や遺跡などで見られる、その琉球時代っぽい建造物の大半は太平洋戦争中に沖縄で起きた戦争の影響で、その大半が破壊されてしまって、今見られる物は殆どが復元された物となっている。
沖縄というと、大阪の大正区付近に沖縄から出稼ぎに来た人達が住み着いた地域があるけど、やっぱり本場の沖縄料理も味わいたいところ。初日にまず訪れたこちらの「○や食堂」は、後日にBS朝日「迷宮グルメ異郷の駅前食堂」の番組で芸人ヒロシが訪れていたお店。
ただ沖縄そばは勝手に”沖縄のラーメン”という感じで認識していたけど、実際には”沖縄のうどん”に近い麺料理だった。だからちょっと期待し過ぎていた分、あまりいい印象が残らなかった沖縄そばである。。
2007年に社員旅行で沖縄を訪れた際に、沖縄きっての繁華街である国際通りはスルーして、バスで沖縄北部まで一直線に連れて行かれた。社員旅行というと、「少しはこういった繫華街でフリータイムぐらい設けてもいいのでは?!」と思うけど、旅行を設定した人間にセンスがなかったという事だったのかもしれない。
しかし国際通りを実際に訪れると、想像していたよりも”観光地 of 観光地”という感じで、沖縄らしい情緒が全然感じられなくて、正直ガッカリした。浮かれてやって来る観光客に、老舗ではなく大資本グループのお店がお土産を販売するような場所になっていて、テンションが下がってしまった。
しかしそんな国際通りから脇に続いている、このようなアーケード商店街にはかつてこの辺りで昔から営業していたお店などが多く未だに営業しており、それらのお店は沖縄らしいをまだ残しているようなお店があったので、観光で行く人は是非このようなアーケード商店街を散策してほしい。
さて今回は沖縄らしさを勉強する旅としていたので、特にリゾートホテルに泊まっての海水浴などはハナから考えておらず、本州と比べて街並みでどんな違いがあるのかなどに焦点を向けていた。このような石畳は琉球王国の流通システムを向上させる為に導入された物だが、逆に薩摩藩に簡単に侵攻を許す事にも繋がってしまった。
首里城本殿は火災によって焼失してしまっているのは知っていたけど、その手前にある守礼門はこのように健在だった。2007年にここをバックに写真を撮っていたので、この守礼門だけは燃えずにボクがここに戻ってくるのを待ち続けてくれていたかのようにも感じる。

んな訳ないでしょ!(笑)
沖縄では『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として9つの場所が、複合遺産として世界遺産に登録されている。世界遺産と聞くと、それなりに壮大な遺跡かと思ってしまうけど、首里城近くにあったこの石門「園比屋武御嶽石門」がその世界遺産の1つであった。
2019年10月に発生した火災によって全焼してしまった首里城本殿。2007年にここに来た時は本殿などが健在だったハズなのであるが、その当時の記憶は一切なく、また今と違ってその頃は全く写真にも撮っていなかった。だからこの光景が信じられないとかいう気持ちはなく、サバサバとこの復興作業中の現場を眺めるだけだった。
ただこの首里城も今までに数回、火災で焼失してしまっているので、今回焼失した首里城本殿の建物も琉球時代からの建物という訳でもなかった。しかし沖縄県民からすると、1945年の沖縄戦で破壊された首里城の復興は、沖縄復興のシンボル的存在であり、心の支えとなっている建物のようだ。
ちなみにこの首里城も世界遺産の認定されているが、その世界遺産と言ってもこの焼失した本殿とかではなく、その本殿下にある琉球王国に造られた首里城遺構跡である。

結構、勘違いされやすいのよ!
こちらは首里城近くにある、琉球王国の第二尚氏王統の王族の霊廟だった「玉陵」。かつて琉球王国は3つの国に別れていて、1400年頃に尚思紹王が興した”第一尚氏王統”によって、琉球王国として統一された。しかし、その後に第一尚氏王統の重臣だった人物が反乱を起こし、政権を乗っ取り王位を継いだ為に、第一尚氏王統と第二尚氏王統は血が繋がっていない政権となっている。
琉球王国では、古来より「風葬」という火葬でも土葬でもなく、自然に任せて死者を骨になるまで放置してから、その後に洗骨してこのような厨子と呼ばれる骨壺に納める風習があった。しかし、明治維新以降に日本国に組み込まれた沖縄では、そのような沖縄独自の風習が行われる機会が減っていき、今では殆ど見られなくなっているそうだ。
そして2日目にまず訪れたのは、こちらの「ガンガラーの谷」という、那覇市よりも南の方にある南城市の石灰岩地層に出来ていた鍾乳洞が崩れた谷。こちらはガイドツアー専用の見学のみになっていて、個人で自由に見学は出来ない。
この辺りは石灰岩地層が多く、その為に地中に出来た洞穴にはこのような鍾乳石が沢山出来ており、大きな鍾乳洞が沢山あるエリア。ただそのような鍾乳洞はたまたま出来た訳ではなく、ちゃんと自然のメカニズムに基づいて出来たもので、地球の循環サイクルの凄さに感心してしまうのであった。
そしてそんな鍾乳洞などがあった場所が崩壊して谷のようになっていたけど、そこでも存在感を放っていたのが、こちらの下まで長~~い触手を垂れ流しているガジュマルの木だった。もし桜の木や楠の木がここにあってもここまで印象的ではなかっただろうが、ガジュマルの木はこのように神秘的なムードを出すのが得意な木に感じる。
それと二等辺三角形に削られたような岩があるのは、「斎場御嶽」という沖縄で一番のパワースポットとされている所。ここも世界遺産に登録されている場所だが、近くにあった久高島という”神様の島”を信仰する琉球王国の歴史が籠められた場所となっていた。
その斎場御嶽近くで食べた「チャンプル」という料理だったけど、普通にチャンプルだけの料理は単なる炒めたもので、ゴーヤが入っているのは「ゴーヤチャンプル」という名前になっているので、ゴーヤの入ったゴーヤチャンプルを食べたければ、はっきりと「ゴーヤチャンプル」を注文しないといけないという事を知った場面でもあった。。

おかげで、しっかり記憶に刻まれましたよ!
そして琉球王国時代に造られた城郭が現存している「中城城跡」も、世界遺産に登録されている。ここは築城の名手であった護佐丸が築いた城で綺麗な城壁となっているのだが、護佐丸は最終的に謀反の疑いを掛けられて、無実の疑いを晴らす為に自害してしまった。”いい人ほど早く死ぬ”という格言通りのように思えてしまう話である。
そしてこの場所が沖縄戦で破壊されずにほぼ現存していたのは、ここが日本軍の拠点として使われなかったからだという。他の城などは日本軍の拠点が築かれていた為に、アメリカ軍から徹底的に破壊されてしまうが、ここは地盤が硬すぎて地下塹壕が造れないから日本軍は拠点にしなかったという。

戦争に巻き込まれなかったから現存したのね!
そのように琉球王国の遺構が残るかどうかは、日本軍の挙動によって大きく運命を分けたのである。勿論日本軍はそんな歴史的な遺構を後世に守り繋げる事よりも、迫りくるアメリカ軍の脅威に対して、命を懸けて戦うだけだったので、そんな遺跡の保存など構ってられなかっただろうが。
1945年の敗戦間近の日本軍は軍需物資が乏しくなり、アメリカ軍がマシンガンを持っているのに対して、日本軍は銃ではなく木の棒に銃剣を括りつけた物を持って突進していったという話を聞いた事がある。読売新聞社の社主である渡辺恒雄氏もインタビューの中で、砲弾を造れる素材がなくて、仕方なしに木を削った物を弾として使う光景を見て、こりゃダメだと思ったと言っていたのを思い出す。
帰りの燃料を積まずに爆弾を抱えて飛んでいく特攻隊の逸話はよくテレビで目にするけど、このような地下塹壕を掘って寝泊まりし、弾丸が飛び交う戦場に弾が飛び出る事もない、銃剣を先に括りつけた棒を持って飛び出すなど、現代人からすると狂気の沙汰にしか思えない。
しかしこの沖縄戦ではそのような状態にまで日本軍は追い詰められており、現在は観光用に一般公開されている「旧海軍司令部壕跡」では、日本軍の敗北を悟った時に多くの日本兵がここで自害をしたという。数千の兵士がここで将来を生きる事を諦めて、死んでいったなんて酷過ぎる話から目を反らしてはいけないとも思った場所である。
そんな酷かった現場を目の当たりにしても、人間という生物は恐ろしい物で、平気でお腹が空いてしまう。という事で那覇市内の公設市場近くで発見した、こちらの「あかさたな」という琉球料理を提供するお店が個人的には大当たりだった。
昼間にゴーヤの入っていないチャンプル料理を食べたリベンジで、ここではしっかりと「ゴーヤチャンプル」を注文できた。ここではこの大きなお皿自体が温かく準備されており、またビールのタンブラーもしっかり冷凍庫に入れられていたので、その心遣いにも感動したのである。
そして3日目に訪れたのは、沖縄ならではの下ネタにもよく使われるという「漫湖」を訪れてみた。ここは事前に何があるかなど全く知らなかったけど、その名前だけで訪れるという自由な1人旅ならではの訪問地だった。
ここは「漫湖」という名前からも分かる通りに、昔は湖だった場所だという。しかし、近年に大きく開発されてしまった為に、今ではこのような泥地になってしまい、更には自然を取り戻そうとマングローブ林を植林したら、それがまたこの干潟に生息する生物が減少してしまうという、人為的な悪循環が重なり合って自然環境が悪くなりつつある場所だった。
しかし地球上に生きる生物の生命力というのは凄いもので、このように泥地を眺めていると、とても小さく見える小動物が元気よく動き回っている様子を眺める事が出来る。人間がいかに環境を破壊しようとも地球からみれば他愛のない事で、また時間を掛けて、そこに適応する生物を生み出していくというサイクルの1つにしか過ぎないのかもしれない。
それからここも世界遺産に登録されている「識名園」だけど、個人的にはそんな世界遺産よりも、このような猫ちゃんと遊んでいる方が楽しい。しかし、そんな猫ちゃんに構っていると、券売所のお姉さんがこちらに視線を向けている圧力を感じてしまったので、とりあえず園内に入る事にしたのであるが。。
この識名園は琉球王国が属国だった古代中国からの使者をもてなす場所だった、中国風の琉球庭園。昔は庶民は入れなかった場所で、つい最近まで第二尚氏王統の末裔がこの土地を個人所有していたが、那覇市に寄贈したそうだ。
沖縄ではこのような琉球石灰岩が色んな場所で、建築に用いられているのを見る事が出来る。まさしく沖縄は琉球石灰岩の上に立ち、そして琉球石灰岩に覆われて生きている島であると実感した光景でもあった。
こちらは約2万年前頃にこの沖縄で生息していたと考えられている「港川人」を、見つかった骨から復元した物。この港川人は中国大陸側からやって来た説や、日本本土側からやって来た説など、まだ詳しくは解析されていない。しかし最近ではDNA鑑定技術が進み、今の沖縄に住む人は九州付近から沖縄に渡ってきた人が多く見受けられるという説も浮上している。
こちらは「差し歯」ではなく、「サシバ」という鷹の仲間の鳥である。奄美大島でそのサシバという名前を聞いた鳥が、ここ沖縄県の博物館でこのような形でご対面するとは思っていなかった。
そして最終日に訪れた浦添市の浦添城跡では、かつて沖縄戦の時に沖縄で最も激戦地だったと言われている「ハクソーリッジ(前田高地)」だった場所である。日本軍はこの浦添市で一番標高の高い岩の上から、アメリカ軍の動きを確認していたという話もあり、またアメリカ軍からはハクソーリッジの中でも一番高いこの岩を制圧する事も目標にしていたという。
2016年にアメリカで公開された、メルギブソン監督の『ハクソー・リッジ』という映画。日本国内に住んでいると、日本人側から沖縄戦を描いたテレビ番組しか見ないけど、これはアメリカ人側から沖縄戦を描いた内容になっている映画なので、えこひいきされていない日本軍の様子が描写されている映画でもある。
そんな激戦地のハクソーリッジだけど、戦争から約70年以上が経過しているので、現場は緑が溢れている場所となっていて、そんな悲惨な場所だったとは全然思えない場所に変わっている。
そんな激戦地に日本軍が陣地を張ったのは、元々は浦添城という城跡があった高台だから。勿論この城跡も戦争で徹底的に破壊されてしまったが、今では浦添市の人々の尽力もあって、城郭などの復元工事が進んでいる。激しかった北側の崖は、このように綺麗な城壁が築かれており、すでにハクソーリッジの面影は見る事が出来ない程だった。
沖縄を訪れる観光客のまず一番頭に浮かぶのは、その沖縄の周りにある綺麗な海とその砂浜を想像するかもしれない。でもボクが今回沖縄を訪れて感じたのは、その独自の文化を築いていた琉球王国時代の記憶と、1945年に日本の最前線として唯一の地上戦が行われて多くの人命を失った場所という事だった。
日本本土から遠く離れた海に浮かぶ島は独自の文化を築きながら、江戸時代に薩摩藩の支配下に入り、明治維新後に日本国内に組み込まれた。そして昭和の第二次世界大戦では唯一地上戦が行われて、沖縄で死んだ日本人の約半分が民間人だったとされている。
(※日本側の犠牲者は約18万人、うち約9万人が民間人)
だからと言って沖縄にやって来る観光客に、このような歴史を必ず学ぶべきとは思わない。人それぞれでビーチリゾートでゴルフ三昧を楽しみに来ているのであればそうすればいいし、綺麗な海でダイビングしたいのであればすればいい。
それらの歴史は20世紀までの沖縄であって、今は21世紀を生きる時代である。過去の事を引っ張るよりも、今の時代にやりたい事をやって生きる事の方が大事かもしれない。
良くも悪くも沖縄には独自の歴史があり、21世紀にも沖縄は沖縄であり続ける・・・ハズである。だから沖縄を訪れるのであれば、色んな沖縄らしさを満喫すべきであり、また沖縄に来たいと思う程にいい場所である。
そうやって21世紀の沖縄が築かれていくほどに、沖縄らしさは今後も続いていくだろう。

直に首里城も再建されると思うから、楽しみに待っててね!
2021.12.20
<完>
↓↓↓↓沖縄旅行記:過去↓↓


















































