神奈川旅行記2020年秋-62-完結
旅行期間:2020年11月24日~27日(3泊4日)
(Nii Hao near Kamata Station, where we ate at the end of our trip Dumplings and the night view of Haneda Airport [Kanagawa Travelogue 62)
蒲田でシメた餃子?!
さて全編62話に及んだ神奈川県旅も、今回がやっと完結編となります。最終日は横浜市内の博物館などを巡って山手の雰囲気がいい場所までやって来たが、帰る前に川崎セレブである朋ちゃんから「羽田に行く前に一緒に飯喰おう!」というお誘いを受けたので、合流地点である蒲田駅へと向かう事に。
沖縄から帰ったばかりだけど、相手するよ~~!
山手からJR石川町まで移動!
この横浜の山手は外国人居留地だった場所でもあり、「ブラフ(BLUFF)積み」と呼ばれる(フランドル積みとも)房州石を積み上げた石垣が見られる。このしっかり積み重ねられた石垣は関東大震災でも倒壊する事はなかったが、近年に改修されたりしてその姿が消えつつあるようだ。
とりあえずまだ旅自体は終わりではないので、適当にJRの駅まで歩いて向かう事にする。この辺りの道にはそのブラフ積みの名残を残すかのような外観だけの壁になっている建物が見られるけど、時代の移り変わりの前には強固な石造りの石垣も用を成さなくなってしまうのだろう。
そして駅を目指して歩いていると、綺麗な雰囲気の通りに出てくる。こちらは「横浜元町商店街」で、幕末に開国され開港された横浜村から締め出された村人たちがこの場所に定住し、この周辺の外国人居留地向けの商店街として発展してきた場所だった。
今では”元町ショッピングストリート”として一方通行の一車線の道路沿いに、洒落た外観のお店などが軒を揃えている光景が見られる。山手の高級住宅街に住む横浜セレブが通ってそうなお店がありそうな雰囲気を感じる場所でもある。
こちらのお店は「革専科:ヒロキ」という、ボクの名前と同じだったので思わず目が行ってしまった。しかし残念ながらこの時は閉まっていたけど、創業60年以上を誇る本革専門店らしい。
そんな風にブラブラと横浜の街を散策していると、あっという間に「JR石川町駅」が見えてくる。今までの人生で何十回以上も新幹線で素通りしていた横浜の街だったけど、今回のようにじっくり巡ってみると見所が多過ぎて、これでも全部回れなかった。なのでまた次いつになるか分からないけど、今回行けなかった所をリベンジしたい気持ちであった。
そしてこのJR石川町駅から電車に乗って、JR蒲田駅まで約30分の移動。
そしてJR蒲田駅に到着するけど、めちゃめちゃ人が多い駅であった。この蒲田駅はJR東日本と東急電鉄の2つの駅がある場所だけど、両方合わせて1日辺り約30万人が利用する駅という事もあって、当然これだけの人が通り過ぎる光景が見られる訳だ。東京と横浜の街の間に位置する立地という事もあって、利便性のいい駅でいい街なんだろう。
そしてそんな人混みの中から沖縄から帰ってきたばかりの朋ちゃんが現れて、神奈川旅のシメに美味しい餃子を驕ってくれるとの事。こちらは蒲田駅前の景色だが、ゴチャゴチャとした雑居ビルが乱立する景色となっていた。
「你好:恵馨閣」で餃子を頂く!
そして川崎セレブでもある朋ちゃんがたまに女子会などを行うという、JR蒲田駅近くの「ニイハオ 恵馨閣」という中華料理屋を案内してくれて、特にここの餃子が美味しいそうだ。
安くて旨い餃子は王将じゃなくて、ここニイハオよ~!
そしてここの名物である「元祖羽根付き焼き餃子」や揚げ餃子を味わう。これが神奈川旅最後に味わう料理であるが、このニイハオがある場所はもう既に神奈川県ではなく、東京都大田区になってしまっている。だから正確には神奈川県旅は既に終了しており、これから羽田空港までの旅に切り替わっていたのであるが。。
こちらが鎌田の餃子として名物になっている「元祖羽根付き焼き餃子」で、このニイハオという中華料理屋を始めた店主が、日本人向けの焼き餃子として開発した餃子である。創業者の八木功さんは中国生まれで45歳まで戦後の中国で暮らしていたが、日本に帰っていた父親からの再三の要望を受けて日本に帰国する事になった。
しかし日本語が話せなかった八木功さんは生活保護を受けて、日本語学校に通って日本語を覚えて、その後に恵比寿の中華料理学校に通って学んだ。その苦労の末に開発したのがこの「羽根付きギョーザ」であり、その餃子が今では蒲田を代表する人気の品に育ったのである。
そんな苦労して作られた羽根付き餃子、美味しいでしょ!
そして「ニイハオ 恵馨閣」に約45分程の滞在し、そろそろ帰りの飛行機の時間もある事だからと解散する事に。ちなみに帰りの飛行機が18時羽田空港離陸なので、そろそろ焦りだしそうな16時46分頃に蒲田駅に消えて行った朋ちゃん。
ここからだと余裕で間に合うから!
と言っていたけど、いつも離陸の1時間前には空港に到着している真面目なボクからすると、ケツに火が点いてきたかのような感覚になってきていたが。。
この蒲田駅から羽田空港までは約8kmもない位に近いのであるが、羽田空港行きの電車があるのは餃子屋の近くのJR蒲田駅ではなくて、少し離れた京急蒲田駅。京急蒲田駅から羽田空港に行く電車に乗り遅れると飛行機に間に合わなくなる可能性があったので、手堅く短い距離ながら京急蒲田駅までタクシーに乗ろうかと思っていたが、朋ちゃんに却下されてしまった。
無職の人間はタクシーなんて贅沢せずに歩きなさい!
JR蒲田駅から京急蒲田駅までは、このように徒歩で10分ぐらいの距離。しかし初めての蒲田で、京急蒲田駅から羽田空港行の次の電車が発車するまで残り10分を切っている。なのでとりあえず駅のある方向はそれなりに理解したので、脇目も振らずに京急蒲田駅へまっしぐらに進んで行くのであった。。
そしてガムシャラに早足で京急蒲田駅に向かい、やっと駅を見つけてホームに駆け込むと、羽田空港行きの電車が来る1分前だった。この京急蒲田駅を16時59分に出発して17時10分頃に羽田空港駅に向かう電車に、ギリギリ間に合ってホッと一息つくのであった。。
だから「間に合う」って言ったでしょ!
帰りの羽田空港にて
そして羽田空港行の電車に乗り込んで、17時10分頃に羽田空港駅に到着する。国内線の飛行機は預け荷物がなければ、搭乗30分前に飛行場に着いても何とでもなるのだが、今までそんなギリギリに飛行場に着く事はしてこなかっただけに、内心まだ少し焦っていたのである。。
そして看板には分かりやすくJALのあるターミナルが赤色の「第1ターミナル」と表示してくれていたので、簡単に到着する事が出来た。日本国内の飛行機は大手2社がメインなので、このように色分けなどで簡単にどちらに行けばいいのか判りやすく表示されているのが良い所でもある。
この2020年に行った国内旅行では基本的に荷物はリュックサック1つだけで、預け荷物は不要だったのでこのような最新型の全自動手荷物預け機を利用する事は出来なかった。そして機械で搭乗チェックインを行い、これでとりあえず一安心。
そして飛行機の出発までまだ40分ほど時間があったので、急ぎ足で羽田空港の展望台へと向かう事にした。空港に来た時は飛行機好きの甥っ子ちゃんの為にも飛行場の展望台から写真を撮って送ってあげるのが、ボクの旅の恒例行事になっているのだ。
ちなみに、この前まで一緒に旅行していたように思える甥っ子ちゃんだけど、今年2022年の正月に久しぶりに会ったのだが、なんと今年中学卒業という歳でオッサンみたいに低い声に声変わりしていて、更に小さかった身長もなんと170cmにまで急成長していたのである。。
私より大きくなってしまってる・・・
子供の成長は早いね!
羽田空港展望台からの夜景!
そして空港内の階段を駆け上がって、展望台へと急ぎ進んで行く。すると羽田空港の展望台は、このように綺麗に整備されてライトアップされており、飛行機に乗らない人もここでのんびり空港の景色を眺めながら寛げる雰囲気の場所となっていた。
テーブル席だけではなく、手前の柵側にもわざわざ椅子が1個ずつ配置されており、飛行機好きな人へのサービスが溢れているように感じた羽田空港。飛行機に乗る身としてはそんなに長居出来ない飛行場の展望台だけど、飛行機マニアからすれば何時間でも滞在できる場所なので、とても嬉しく思える場所なのだろう。
この展望台は羽田空港第1ターミナルの6階にあって、この高さからの景色を見て満足したのだが、隣には【GULLIVER’S DECK(ガリバーズ・デッキ)】なる階段が見えている。どうやらまだ上に行けそうだけど、もうあまり時間がない・・・。
という事でここまで来たら行ってみようと思い、ガリバーズ・デッキの階段を1人駆け上がって行くのであった。
するとここは一応6階のルーフスペースとなっていて、さっきのフロアよりも1段高い場所から羽田空港の滑走路を見下ろせる空港鑑賞ポイントとなっていた。
夜のガリバーズ・デッキにて 動画
さっきのフロアには「あまり飛行機マニアの姿が見れないな・・」と思っていたけど、このガリバーズ・デッキの方が写真を撮るのに最適なポイントだというのを知っているようで、ちゃっかり陣取っていた飛行機マニアと思われるカメラを構えた人達の後ろ姿が見えている。
さて飛行機搭乗時間に遅れるのは社会人としてはあるまじき行為なので、展望台の見学を終えた後は駆け足で階段を降りて保安検査場を通り過ぎて、伊丹空港行きの搭乗口へ急ぐ。この羽田空港自体は殆ど利用した記憶がないけど、建物内はとても綺麗で快適であった。
そして『安心・安全・サービス&美人CAさんの笑顔が最高!』のJALの飛行機に乗り込む。こうして旅行前にはあまり期待していなかった神奈川県旅だったけど、鎌倉といい、横浜といい、今の日本に大きく変革を与えた都市で沢山の事を勉強できた旅が終わりを迎えるのであった。。
<まとめ>
まず神奈川県旅を振り返る前に、少しご報告。
この2020年より全世界で新型コロナウイルス感染が拡がったが、幸いにもここまでコロナウイルスに感染せずに済んでいた。しかしこの神奈川県旅編のブログを作成していた2022年2月中旬に、何と巷で流行していたオミクロン株でよく見られる症状が出てしまった。
というのも同居している家族がコロナ陽性となってしまって、その巻き添えを喰らってしまったのであった。だからボクはコロナの検査すら無しに自宅待機10日間となり、どうやら大阪市のコロナ陽性者の数にもカウントされずじまいだったみたい。。
私は悪くない、オミクロンに襲われたんや・・・
幸い、大事に至らず、何事もなかったかのように回復しました!
さて神奈川旅行を計画している段階ではあまり深く訪問地の分析を行っていなかったが、とりあえず江の島と鎌倉と横浜市内を巡る計画だけを立てて、いつも通り飛行機と宿のセットで予約をした。神奈川県は仕事では何回か訪問した事のある場所だけど、その歴史や観光名所については全然調べる事もした事がなかった。
そして今回の神奈川旅で最初に訪れたのが、今では有名な湘南エリアを代表する観光地となっている江の島。「江の島って、何があるの??」と思ってしまう人も多いかもしれないけど、この江の島というのは昔から崇められている神様”弁財天”が祀られている場所なのである。
かつては鎌倉幕府を開いた源頼朝も何度も参拝に来た事があるという江の島だけど、何百年も経つとすっかり観光地化されており、神様をお参りする為にやって来る場所というよりは、名物のシラス丼や神社をパワースポット代わりに巡る観光客が多くなってしまっている場所に思えた。
そんな江の島でこの旅最初に見つけた、可愛らしい猫ちゃん。まるで弁財天様が宿っているかの如く、穏やかな顔つきでボクの頭皮マッサージに喜んでくれていたかのような顔をしていた。
オマエ、普段から神様の事、信じてないクセに!(怒)
こちらの江の島の奥津宮にある石の鳥居は、なんと源頼朝が寄進した鳥居が現存しているという。なお今まであまり興味がなかった源頼朝だけど、今年2022年にNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が放送されているけど、それでもあまり興味がなかった。しかし、このブログを製作している途中に鎌倉の歴史を調べていくと源頼朝に興味が出て来て、『鎌倉殿の13人』のドラマを食い入るように見てしまうようになってしまった。。
ハマりやすい男ダね・・・
この江の島には龍神様が宿るという言い伝えが昔からあるそうだが、今の江の島にはこのようなピンク色の照明で照らされた龍神様もどきの像しかなかった。信仰心が厚かった鎌倉時代とは異なり、宗教に対して興味があまりない現代人の心を惹きつけるには、このようなわざとらしい演出をしないといけないのだろう。
そして湘南エリアの名物というと、江の島と共によく挙げられるのが、こちらの江ノ電である。テレビで見ている江ノ電も実際に湘南を訪れてみると、単線の線路で駅で複線になって入れ替わり、無人駅が多かったり、民家のすぐ裏を走っていたりと、意外と昔から経営難に陥るほどに儲かっていない路線だった。
皆様のご支援で成り立つ、江ノ電でございます。
そして世界的なアニメへと出世した『スラムダンク』の聖地とされているのが、こちらの「鎌倉高校前駅」近くの交差点。コロナ禍前まではスラムダンクのアニメに惚れこんだ外国人視聴者が、わざわざこの聖地までやって来る程に人気の観光地になっていたそうだが、コロナ禍の2020年には全然観光客の姿が見られない場所だったが。。
そして鎌倉には沢山の寺が残されている。というのも鎌倉時代に源頼朝を始め、信仰心が厚かった時代で仏教が推進された為に、鎌倉に多くの寺が築かれた名残である。だから鎌倉の寺は京都や奈良の寺とはまた一味違った、趣のある寺ばかりであった。
こちらは長谷寺の穴蔵の中に設置されていた、弁財天の像。今回の旅ですっかり弁財天様の存在を認識したので、先日滋賀の寺を訪れた時に、一目ですぐに弁財天様の像を見分けれてしまう程になったのである。
最近、「フルーツ大福」を販売する弁才天っていうお店が増えたな!
そして鎌倉といえば日本人なら誰でも知っているのが、こちらの国宝となっている高徳院の大仏像だ。ある程度のお歳の方々であれば修学旅行の定番地だった場所としても有名だが、ボクの時代には修学旅行では来なかった場所なので、逆に新鮮に思える場所だった。
今は露天に晒されている大仏像も、その昔はちゃんと仏殿の建物内に飾られており、そして外側は金箔で覆われていたという。今のこの姿からは想像が付かないけど、それでもここに長年鎮座し続けているという事の凄さは実感したのである。
もう1回、金箔貼ってくれてもいいんダけどね・・・
そして鎌倉のもう1つの代表的な観光地といえば、参道の大きな3つの鳥居が特徴的な鶴岡八幡宮である。なおこの参道には3つの大きな鳥居が江戸時代の第12代将軍:徳川家慶の時代に奉納された物だけど、この2つ目と奥にある3つ目は関東大震災(1923年)で倒壊して新しい鳥居が再建されていたけど、この手前にある第1の鳥居はその江戸時代の鳥居が今でも残っている。
しかし、今回の旅ではその事を知らなかったので、その重要文化財にも指定されている鳥居を生で見る事ができなかったのであるが。。
この鶴岡八幡宮は、鎌倉幕府:初代将軍源頼朝ゆかりの神社としても有名な場所。しかし今までNHKの大河ドラマなんて全然見なかったけど、今回の鎌倉訪問で源頼朝に興味が出てしまったので、それで三谷幸喜演出の『鎌倉殿の13人』も毎回見てしまうようになった。
この神奈川旅では珍しく、知り合いに再会する旅でもあった。こちらは会社員時代に大変お世話になった”段ボール片岡さん”だが、相変わらずのキャラで特に変わりもなく、久々に再会した割に昔の感じで楽しくお酒を飲めた。
今思うと会社員時代に尽力した事は後になってから良い思い出になるけど、今はこの旅行後のブログ作成がライフワークとなっていて、その旅行時よりもこのブログを後日作成している時の方がよっぽどその現地の勉強になっている。
そして翌日も再び訪れた鎌倉で、まず立ち寄ったのがこちらの「円覚寺」。この寺は鎌倉時代にモンゴル帝国からの侵略を防いだ元寇で戦死した死傷者を弔う為に、鎌倉幕府の執権だった北条時宗が建立した寺だった。
鎌倉幕府の事は今では死語になりつつある「いい国作ろう、鎌倉幕府(1192年)」ぐらいしか思い浮かばないけど、こうやって鎌倉を訪れて、「なぜ鎌倉幕府では、征夷大将軍ではなく、執権が采配を振るっていたのか?」や、「何故源家ではなく、北条家が支配していたのか?」などを少し掘り下げて調べてみるだけで、とても勉強になったのである。
逆に今まで鎌倉時代について、知らなさ過ぎるだけダよ!
続いて訪れたのは、隣にある「明月院」。ここも北条家にゆかりがある寺で、元寇でモンゴル帝国の侵入を防いだ時代に執権だった北条時宗の父親が葬られている寺である。しかし、そんな歴史的な寺も今では”アジサイ寺”としても有名になっており、この訪問時は全然アジサイが咲くシーズンではなかったけど、5~6月頃のアジサイシーズンには多くの観光客が訪れる場所になっている。
そしてこちらはボクが撮影した写真ではないけど、明月院には「悟りの窓」と呼ばれる窓から、このような写真を撮る為に並ぶ人がいる程に写真スポットとしても人気の寺になっている。
そしてこの明月院では、普段は一般公開されていない裏庭に入る事が出来た。菖蒲の花が咲くシーズンともみじの紅葉シーズンしか入れない裏庭だが、ちょっと紅葉シーズンからズレていたのもあって、そこまで期待していた程の景色ではなかったようにも思うが。。
そんな裏庭には季節外れにしてはハズレ過ぎる程に花を咲かせていたアジサイなども見られて、これはこれでいい物が見れた。人間の世界だけではなく、植物の世界でも変わり者が存在しているという証のアジサイでもあった。
そんな明月院では境内の植物が綺麗に管理されていて、トイレ近くに植えてあった色んな色のバラに雨の雫が乗っかって、その雫がワンポイント的な感じでとても良い表情をしているのが見えた。”アジサイ寺”として有名な明月院だけど、見所を探せばそれ以外に沢山あったのである。
そして横浜市内ではミーハーみたいに、まず一番高い所に昇ってみた。『馬鹿と煙は高い所へ上る』ということわざがあるけど、まさにその通りで人間ってのは高所恐怖症でなければ、高い所に昇りたくなってしまう習性があるのだろう。
高さ200mを超える展望台から横浜港周辺を見回してみると、意外とあまり実感を感じなくて、遠い景色を見ているような感じだった。やっぱり遠くから眺めるのと、近くを歩くので全然その土地の印象が変わるので、高い場所から眺めるのとその後にその場所を散策するのをワンセットに観光すべきであろう。
こちらはそんな横浜ランドマークタワーの足元に保存されていた「旧横浜船渠株式会社:第2号ドック」。かつてはこの辺りで船の修理ドックや造船所があったとは思えない光景になっているが、このように横浜は海運で大きく栄えた街の名残を各所に残しているのである。
そんなかつての横浜港があったみなとみらい地区で、ミーハーな煙人間が次に向かったのが、こちらの時計付の大観覧車「コスモクロック21」。この観覧車は実は大阪の会社が運営している物で、全く同じサイズの観覧車が大阪の海遊館前に設置されているのは知らなかったが。。
海遊館前の観覧車が、この観覧車と同じだったとは全然気付きませんでした・・・
それと合わせてここでの人気な、水面に飛び込むかのように設計されている「ダイビングコースター:バニッシュ!」。実際に乗車してみると一周が短く感じてしまったけど、この水面に飛び込む瞬間は横で見ている方がスリルがあったかもしれない。。
そして2日目の夜に再会した人は、こちらの横浜在住のメルハバおじさん。相変わらず掴み所のないオジサンだったけど、まさか学生時代にモスクワ留学していたとは思えない程に、不思議なオーラを出しているオジサンだった。。
そして3日目に向かったのは、神奈川県でも南端に位置する三浦半島の三崎という町。三浦半島というと源頼朝に味方して挙兵したが、嵐で援軍が送れずに頼朝の軍が大敗してしまう原因を作った三浦氏が支配していた場所でもある。
そして三浦半島で向かったのが三崎の町の海を挟んだ向かい側にある島:城ヶ島である。この城ヶ島は”神奈川県の猫島”で検索したらヒットしたという理由で訪れたのであるが、その灯台がある場所でこちらの可愛らしい猫ちゃんと出会ったのである。
そしてこの城ヶ島を訪れる前日にホテルのテレビでNHKの岩合光昭さんの『世界ネコ歩き』の番組内で、この神奈川県を巡っている内容が放送されていた。そのテレビが放送されている時は真剣に見ていなかったので記憶に残らなかったが、後日再放送を見るとこの猫ちゃんが「ミルクティー」という名前でしっかり番組内で城ヶ島の看板猫として登場していたのである。
そして三崎の町は昔からマグロの水揚げでも有名な場所で、最近は町興しにマグロを掲げているので、その街中でこのようなマグロの頭部が生々しく置かれている光景を目にする。昔はマグロの水揚げで栄えた三崎の町も、今ではすっかり衰退してしまっているが、今でも美味しいマグロを食べれる町に変わりはないようだ。
そして城ヶ島を訪れた後は、横須賀に寄り道する。そして新港埠頭に向かうと、こちらの東郷平八郎元帥の銅像と、その後ろには日露戦争で活躍した戦艦:三笠号が鎮座している光景が見られる。
今では記念艦となっている三笠の内部見学と天秤に掛けたけど、選んだのはこちらの無人島となっている猿島見学。この島は幕末以降に江戸湾を警備する台場として軍備された島で、その後明治~昭和にかけて日本軍の要塞として使われていた島でもある。
島内は高射砲台などが配置された一般人が立ち寄れなかった島だが、今では歴史的なフランドル積みの煉瓦造りの建物が現存している場所ともなっている猿島。結局大きな戦争が行われなかった島だけど、日本軍の要塞として大きく改造されてしまった。
島内には弾薬庫などが造られており、要塞の跡らしき様子が今でも見られる島。ちなみにこの島では仮面ライダーのショッカーの秘密基地としてロケに使われた場所でもあり、小さい島ながらそれなりに見所のある島となっていた。
そして横須賀の街は幕末に海軍の基地が造られて以降、そこで働く人達向けの商店街だった「ドブ板通り」が生まれた。そのドブ板通りでは第二次世界大戦で敗北した日本を接収したアメリカ軍が駐留し、このドブ板通りもそれに合わせてアメリカナイズされてしまう。
そんな異国の文化と日本の文化が相まって、このような「スカジャン」という横須賀オリジナルのスタジアムジャンパーが生まれる事になる。異国の文化が絡み合って相乗効果を生み出すと、新しい文化が派生するのである。
こちらは横浜市のみなとみらい地区の夜景で、至る所でこのようにライトアップされているので、人々の目を楽しませてくれる場所ともなっている。約150年程前の開国した頃には何もなかった場所とは思えない程に、発展した場所になっている横浜の街。
そして最終日には横浜市内の博物館や資料館巡りをしたけど、その中でも思い出深かったのが、こちらの「神奈川県立歴史博物館」。こちらの建物は旧:横浜正金銀行という今の三菱UFJ銀行になっている、日本を代表する銀行だった建物で関東大震災(1923年)でも倒壊を免れた建物だった。
そして歴史博物館で学ぶのは幕末に開国した横浜の地であり、その日本を開国に導いた立役者はこのペリー提督である。今までは何となくペリー提督が大型の蒸気船数隻で日本にやって来て、大砲を打ち込んでビビらせて開国させたようなイメージを持っていたけど、『ペリー提督日本遠征記』を読むと、どれだけペリー提督が日本について下調べしていたかという事実を知って驚く。
ペリー提督がやって来る前の江戸時代の日本は鎖国状態にあり、その国勢は海外には全然知られていなかったと多くの日本人は思っているハズだ。しかし、実際にはオランダにだけは出島を開放してオランダ人を駐留させており、江戸時代前半はそのオランダ商館の館長が毎年、貢物を持って江戸を参府していた。その時に必ずオランダ商館の館長に付き添う医者が伴って、その江戸に至る道中に見た事などを全て記録していた。
日本人が学ぶ歴史ではシーボルトが日本について調査した内容が有名だけど、そのもっと前に「エンゲルベルト・ケンペル」というドイツ人の医師が日本に滞在している時に、日本の事をかなり精密に調査して、その記録を日誌に残していた。ペリー提督はそのケンペルの『日本誌』などの文献を読み漁って、かなり日本の歴史や仕組みに精通していた。
現代の日本人が知らない位に日本の歴史について詳しく調べていたペリー提督は、自ずと日本についてどう攻めれば開国するかをより研究していたのである。
そして準備万端に日本にやって来たペリー提督は、今までに何十回と海外から通商を求めてやって来た外国人を退けてきた江戸幕府から見事開国を勝ち取るのである。そんなペリー提督の貫いた心情は”正々堂々と向き合う事”で、今まで江戸幕府が行ってきたような不当な扱いは全部拒否して、相手側の高官が来ない限り、自分も会見には出席しないという姿勢を貫いた。
またそれ以外にも贈り物を一方的には受け取らずに、必ずそれ相応の贈り物を返す事を条件に受け取るという姿勢を貫いていた。約250年間という長期に渡って外国をシャットアウトして鎖国していた日本を開国したのは、想像していたよりも簡単な事ではない。しかしこのペリー提督という男が、この任務を見事にやり遂げたのである。
そしてその1人の勇気あるアメリカ人が開国した日本は、それから約150年間の間に大きく形を変えていき、それに合わせて当時は何もなくて港となった横浜の街も大きく変貌を遂げたのである。そんな大きく変貌を遂げた現代の日本に住む日本人は、このような日本に変えてくれた1人の英雄の事をもっと勉強すべきであろう。
つい最近知ったばかりなんですが・・・(笑)
そしてそんな素晴らしい歴史を勉強できた神奈川県に、感謝したい神奈川旅であった。。
2022.2.22
<完>
↓↓↓↓神奈川旅行記:過去分↓↓